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紫陽花と水機関(さいしょの話)

「紫陽花のきれいな場所があるんだよ」
 教室。
 隣の席から話す声。
 梅雨の曇り空と、空気中の湿気のせいか、色が濃くなった木製机のオレンジ色。教室の照明は、どこかぎこちなく彼女の姿を照らす。
「紫陽花?」
 返答するために吸い込んだ空気は、この季節特有の匂いがした。水中で呼吸したときのような感じ。実際にそんなことをしたら死んでしまうからやったことないけれど。
「そう、最近見つけたんだけど、すごくいっぱい紫陽花が咲いてて。めちゃくちゃきれいなんだ」
 そう言って彼女は、スマホを取り出す。画面の明かりが青みを帯びている。
「写真も撮ってきたんだよ」
 こちらに向けられたそれは、確かにきれいな景色だった。
 写真を撮った日は晴れていたのだろう。日なたと日陰のコントラストが鮮やかだ。
「本当だ。すごい」
 僕はこういうとき、感想を言うのがとても下手くそだ。
 大抵、一言、二言で終わる。次の会話に繋げる方法がよく分からない。
「でしょ? めっちゃきれいだった」
 少ない口数のせいで、あまり喋りたくないと思われてしまったのだろうか。彼女は乗り出していた体をひょっ、と引っ込めて、スマホの画面に視線を戻す。
 なんとなく気まずくなって、無理やり言葉を捻り出してみる。
「今度、行ってみようかな。どこにあるの?」
 ん、とこちらに向けられた顔。興味ある? と聞かれたため、壊れかけの機械みたいにぎこちなく、頷く。
「じゃあ、今度案内してあげよう」

***

 その“今度”は案外、すぐに訪れた。
 話があった週の日曜日。天気は晴れ。空気はたいして熱くない。前日に降った雨のせいかもしれなかった。
 教室の大半の人が入っているSNSのグループから、彼女との個別トークへ移動して連絡を取った。
「じゃあ、行こっか」
 肩から手提げカバンを掛けた、その後ろをついていく。
 のそのそと追いついてから聞く。
「そのカバン、何持ってきたの?」
 彼女はこちらへ振り向いてから、目を見開いて、キョトンとした表情。ふ、と笑ってから一言。
「秘密。まあ、現地についてからで」
 目的の場所にたどり着くまでは、思っていた以上に長い道のりだった。
 ゴツゴツとした地面。砂利と砂が混ざっているせいか、それによってときどき足が滑る。そのたびに、体の普段は使わないところの筋肉がこわばる。それでも歩みは止めないままで尋ねる。
「結構遠いんだね」
「うん。たぶん、もうちょっと歩くかな」
 その華奢な背中の向こう側から、こもった声が聞こえる。声のトーンはまだ全然歩けるという感じ。すごいな、と思いながら追いかける。
 目的地へ向かう道すがら、時々、人とすれ違うことがあった。何だかんだで、
いろんな人に知られている場所なのだろうかと思った。
 しばらく歩いていくと、開けた場所に出た。植物がかなり生い茂っているけれど、地面が平たく整えられているところを見ると、人工的に作られた場所のようだ。
 その奥。植物たちの影に、何やら赤や紫の、鮮やかな色の群れが、日の光を浴びて輝いている。紫陽花だった。それも、かなりの数。一面がその色に支配されていて、思わず圧倒される。まばらに差す木漏れ日も、その場の雰囲気をより幻想的なものにしていた。
 前方からふう、と息を吐く音がした。
「到着〜」
 彼女の声。流石に疲れているのか、ほんの少し声が震えていた。ただしその中に、何かを達成した人特有の、やりきったという喜びの感情が混ざっているような気がした。
「やった……」
 ″や″と″た″と間のつをなるべく溜めて、僕も地面を踏みしめる。その途端に、足の痛みや疲労感がどっと押し寄せてくる感じがした。
「さ、休憩しようか」
 彼女は手提げカバンの中からペットボトルの飲料水を二人分取り出した。一つを僕にくれる。水筒を持ってきていた僕は、あ、と言いかけて、ペットボトルを受け取る。
「ありがとう」
 水筒のことは言わないでおく。せっかくの厚意は受け取っておこう。
 ペットボトルの水がほんのり冷たい。
「あれ? 水、ちょっと冷たい?」
「あ、分かる? 保冷剤と一緒に保冷バックに入れておいたから」
 ありがたい。流石にここまで歩いてくると、体がかなり熱を持っている。こんなふうに体の熱を冷却できるものがあるのは、嬉しい。
 水を飲むと、食道から胃へ流れていくのが分かる。頭を包んでいただるさが、ゆっくり溶けていく。ひと心地ついた。
「そう言えば、そのカバンに入れてきたものって」
 紫陽花を眺めながら、最初に気になっていたことを聞いてみる。
「あ、これ?」 
 彼女はそう言いながら、手提げカバンから″それ″を引っ張り出した。
 それは、スケッチブックだった。よく見掛ける、黄色と緑色を四つに区切った表紙のもの。
「絵、描くの?」
 覗きながら聞いてみる。
「そ、休みになるとよく出かける。もちろん、そんな遠くには行けないんだけど」
「へぇ……」
 確かにそこには、様々な景色や街の人々の姿が描かれていた。
「上手いね」
「いやいや。それほどでも……」
 謙遜する声に、ちらりと、くすぐったさが覗く。
 何枚かパラパラとページがめくれ、一番新しい何も描かれていない一枚が姿を現す。
 筆箱を取り出した。中の筆記具ががちゃがちゃと音を立てる。布製の筆箱らしく、余計に道具同士がぶつかりやすいのだろう。
 そこから鉛筆を取り出す。熟したオレンジみたいな色。一瞬だけ日差しを反射して、それがちょうど僕の視界を遮る。ほんの一瞬のことだったので、またすぐに気を取り直した。
 何を描くんだろう、と眺めていると、彼女は僕の方を見ながら手招き。
 近づくと、続けて地面を指差した。
「え?」
「ほら早く。そこに立って」それって……。
 ひょこひょこと、指さされた場所へと向かっていく。これはもしかしなくても、絵のモデルになれ、ということだろうか?
「うん、そのまま。視線は向こうの紫陽花に。なんかこう、自然に歩いてるようなポーズで」
 次々出される指示にてんやわんやしながら、どうにか言われた通りにする。
「はい、動かないで」
 ぴた、と止まる。そのせいでぎこちなくなった気もしたけれど、何も文句が飛んでこないところから察するに、多分このままで大丈夫なのだろう。
 体勢を変えないように、そっとあちらの表情を見る。とても真剣。少し離れていても、鉛筆の音が聞こえてきそうなぴんと張り詰めた空気が漂っている。

***

 どれくらい時間が過ぎただろう。
 この場所に着いたときの時間は確か、午前十時くらい。それから何時間経ったか。
「はい、ありがとう。もういいよ〜」
 少し離れたところから声が届く。彼女は満足そうにふぃー、と息を吐いた。額の汗を拭う動作をする。
 体の力を抜くと、想像していた以上に全身の筋肉が強ばっていることに気づいた。
 一日中おばあちゃん家の畑を手伝った後のような感じ。
「結構疲れるな……」
 彼女が座っている方へ歩きながら、話しかける。
「でしょ。ずっと同じ体勢でいると、結構疲れるんだよ」
「それに絵のモデル? になって欲しい、なんて話、一度も聞いてなかったし」
「あれ、そうだっけ?」彼女はきょとんとした表情でこちらを見る。
「うん、ここに来て初めて聞いた」
「ありゃ、そうだったか。ごめんごめん」
 僕はその隣に、少し間を開けてしゃがむ。
 見てもいい? そう聞こうとした瞬間だった。

「だあれ?」

 子どもの声だった。小学生くらいの、少し幼い声。
 僕らは聞こえた方へ向く。驚きで僕らの声は出なかった。
 そこには男の子がいた。見た目も小学生くらい。けれど、一目見て分かった。人間じゃない。
 彼はじっとこちらを見つめ続けている。不思議と恐怖は感じない。敵意や不気味さを感じないからだろうか。
 冷静に考えて、おかしな話だ。こんな場所に小学生が一人で居るなんて。
 ここまで登ってきて分かったけれど、結構大変な道のりだった。
 普段の生活圏みたいに、整った道路があるわけでもない。険しい道がずっと続いていたはず。それなのに、この少年は、涼しい顔をしてこちらを見つめている。それを見て、異変だとか、おかしいといった感情が湧いてこないのはどうしてなのだろう。
 自分の中に生じている違和感に、疑問を抱きながら、この状況をどうすべきか思案する。
「君、名前は? お父さんとお母さんはどこかな?」
 最初に言葉を発したのは彼女だった。こういうとき、女性は冷静に判断できる。すごいな、と思った。僕の個人的な偏見かもしれないけれど。
「お父さんとお母さん? いないよ。僕は、ずっとずっと昔から、ここを管理しているんだ」
「「……え?」」
 僕も彼女も、全く同じような反応を示す。当たり前だろう。まだ小学生にしか見えない少年がいきなりどこからともなく現れ、「僕はこの場所を管理しています」なんて言い出しても、そんなこと信じられるわけがない。なにより、何を言っているのだろう、という感想が頭に浮かんだ。
「詳しくは歩きながら話すよ。もしよかったら、ついてきて」
 少年(少なくとも、今はそう仮定している人物)は驚いている僕らを尻目に、つかつかと歩いて行く。やがて、紫陽花の奥へ吸い込まれるように入っていった。
 無数に咲いている紫陽花の向こう側に、一体なにがあるのだろう。僕らはそっと、その後を追いかけることにした。
 偶然だろうが、僕が息を呑んだのと同じタイミングで、隣で歩く彼女も同じようにしたのを感じた。
 僕らは、咲き誇る紫陽花の、更に奥のほうへと歩みを進める。

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