波打ちわ(ショートショート)
「波打ちわ、ですか?」
僕は店員さんに向かって訊く。とある雑貨屋さんでのこと。
「はい、なみうちわと言います」
彼の表情は崩れることなく笑顔だ。
目の前には、話の中心になっている、その”波打ちわ”なるものが鎮座している。その表面には、波打ち際の絵が描かれている。名前の由来はこの絵によるものなのか。
「このうちわは、ひと仰ぎするとその効果が分かりますよ」
効果が分かる、とはどういうことだろう? 波打ち際の絵が描かれているから波打ちわ、で終わりではないのだろうか。
ぜひどうぞ、と手のひらでうちわを指すその指先数十センチ先。僕はその得体の知れなさにおっかなびっくり、うちわを持ち上げる。ニコニコしている店員さんの横で、そっとうちわを煽ぐ。
一瞬の出来事だった。
微かに潮の香りがしたと思ったら、次の瞬間には目の前の景色が波打ち際になっていた。
「え? え?」
困惑でうまく言葉が出てこない。
どこかから、店員さんのどうですか? と声が聞こえてきた。いや、どうもこうもないです。と、思わず言ってしまう。再びどこかから店員さんの笑い声が聞こえてくる。続けて問われる。
「どうですか? 波打ちわ」
「これって一体……」
ここはどこだろう? 先ほどまで確かに雑貨屋さんにいたはずなのに。今僕は、どこかの海の波打ち際にいる。
僕はいよいよ、このうちわの仕組みが知りたくなって、聞いてみた。
「このうちわを煽いでできた風に触れると、うちわの中に入り込んでしまうんです。正確には、うちわの中の絵に、入り込んでしまう、ですが」
そんなことがあるんですか? と聞いてしまいそうになったけれど、確かにいま、目の前には波打ち際が、そして海が広がっている。
「僕も詳しくは分からないんですけどね。どうやらすごい技術らしいですよ。今までも、様々な人が、絵に描いた海の中に入ろうとした人なんかもいたらしいですけど、実際にそれに似たことを実現したのは、このうちわが初めてなんですから」
「そうなんですね……」
言いながら、潮風の心地よさに流されて、忘れてしまいそうになる。慌てて、確認する。
「それでその、ここから出る方法もあるんですよね?」
もし戻れないなんてことになったら大変だ。まあ、そんなものはお店も販売しないだろうけれど。
「……え?」きょとんとした声の店員さん。
「……え?」僕。
しばしの沈黙。
のち、店員さんは大きな声で笑いながら言う。
「冗談です。大丈夫ですよ。戻ることは出来ますから」
冗談にしては声のトーンが本気のものだったから、冷や汗をかいた。胃の内側がひんやりとして変に気持ち悪くなる。
「すいません、すいません。それじゃあ、説明しますね」
その明るい性格のおかげか、どうしても憎めないユーモラスさや可愛らしさがある。ちくしょうめと思いながら、話を聞く。
「今、まだ手元にうちわがあると思います。そのうちわ、片側が白紙、もう一方は、先ほどまでいた店内の絵が描かれているはずです」
先ほどからずっと持ちっぱなしになっていたうちわを持ち上げて、見てみる。確かに片面は白紙で、もう一方は先ほどの店内が描かれている。
「はい、描かれてます」僕が答えると、向こうからも返事が来る。
「ありがとうございます。そうしたら、その店内の絵が描かれている方を自分側に向けて、ひと仰ぎしてみて下さい」
僕は、言われた通りにひと仰ぎ。今度は景色がざっと切り替わって、先ほどまでいた雑貨屋さんの、インクやら、木の彫刻の匂いが混ざった空気の中に戻ってきた。
「どうでした?」先ほどの店員さんも、問題なく目の前にいる。
「帰れないかと思ってひやりとしました……」
「いやいや、すいません。つい、いたずら心が芽生えてしまいまして」
その潔さに思わず笑ってしまう。それにつられて店員さんも再び笑った。
「もしよろしければ、またお越しください」
「はい、またそのうち」
後ろから聞こえる、ありがとうございましたの声に、少しだけ振り向いてお辞儀をする。なんだかんだで楽しい経験ではあったから、また暇なときにでも来ることにした。
まだ耳や鼻の中に、先ほどかいだ潮のにおいや波の音が残っているような気がする。