空想と呼吸(ショートショート)
いつだったか読んだ漫画で、”今自分がいる街が水没する空想”をしている少女の話があった。
もしそうなったらどうするか。彼女は確か、できるだけ顔を上げて、水面から呼吸ができるように背伸びをしていた気がする。
そしてその話には、もう一人登場人物がいた。バイト先で、彼女と知り合った青年。二人は女子高生と大学生くらいの年齢差だった。
街が水没する空想と、そこから生き残るために、水面から呼吸をする対処法を聞いた青年は、彼女の真似をしてみる。
隣でそれを見ていた少女は、青年を羨ましがる。
彼は少女より幾らか身長が高かったため、水没した街で生き残れる可能性が高くなる。という理由からだった。
***
僕はその漫画を読んでから、彼らの真似をしてみることにした。理由なんて大してなかった。
けれど不思議と、いつもより呼吸がしやすい気がした。詰まっていた空気が循環するような感覚があった。上を向くという行為自体、なんとなくポジティブなことだから、余計にそう感じるのかもしれないと思った。
それ以来、なんとなく息苦しさを感じる時や、気分を切り替えたい時なんかに、上を向いて呼吸をするようになった。
仮に首から下が、日々の気だるさや苦悩に浸かっていても、呼吸だけは確保できている。そう思うだけで何だか気が楽になった。
そうしていると、いつの間にか周囲の景色が水没しているように見え始めるようになった。しかも、その解像度がかなり高く、その水中の中で吐き出す息は気泡になり、空に昇っていく。それに触れればもちろんバラバラに崩れ、溶けていく。
呼吸をするために上を向くと、ちょうど水面から顔が出る。水中にいる時はどこか景色が揺らいでいる。どうしてこんなふうになっているのか分からないけれど、基本的な日常生活に支障はないため、とりあえずそのままにしておくことにした。
ある休日、外に出かけることにした。街は変わらず水没していて、呼吸をするたびに気泡が揺れる。何となく息苦しい。呼吸ができないわけではないけれど、呼吸が浅くなっているような気はする。これは別に、今に始まった事ではない。日常生活を繰り返していくうちに、いつの間にか当たり前になった息苦しさだ。
ため息をついて、上を向く。水面から呼吸をしようとして、ある視線に気づく。
雑踏の中。信号待ちをしていた向こう側からの視線。一人の女性だった。僕を見ている、というより、僕の周りから立つ気泡を見ているような──。
そこで気づく。思わず息を呑んだ。
彼女の周りにも、同じように気泡が浮いている。おそらくその呼吸に合わせて吐き出されているのであろうもの。
僕らは同じようなタイミングで、大量の呼吸を吐き出す。瞬きのタイミングすら合ったような気がした。
信号が赤から緑へ変わる。
さまざまな人々の足が、それぞれの目的に向かって動き始める。