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 男は、自分が今夢の中に居ることに気づいている。霧が立ち込める海の上を、静かに舟が進む。櫂は使っていないのに、自然とどこかへ引き寄せられていく。
 男は物書きだった。いつも目覚めてから眠るまで、ほとんど一つの部屋の中で完結する人生。それゆえに、舟に乗っている状況に違和感を覚えたのだ。
 紺色の海面を覆うように白い霧が溶け込んで、ほんの数十センチ先もよく見えない。
 どうにか明かりを見つけられないだろうかと、男は思った。これほどまで、何の目印もないまま進み続けるのは、例え夢の中であっても心地のいいものではない。せめて少しでも視界を広げられるものがあれば。
 霧の隙間から海面を覗き込む。相変わらず黒いまま。今度は空を見上げるが、幾重にも重なった霧でできた布切れが視界を遮っているため、どうすることもできない。
 ひたすら舟は進み続けた。どれくらい時間が経過しただろう。夢の中とはいえども、まるで永遠とも思える時間が流れたような気がした。
 突然、男の乗る舟に変化が起こった。みし、みし、と、音を立て始めたのだ。
 微かな音だったけれど、耳をそばだてると確かにそれは聞こえた。何事かと思い、ぐるりと見渡すと、音の理由はすぐに分かった。
 深い海の底でヒガンバナが咲いている。それが海面まで顔を出しているのだ。数輪程度ではない。何百、何千とだんだん数が増えていく。
 それらは、開いては真っ赤な血液のように溶けてぼたぼたと零れ、しばらくしたらまた咲いてを何度も繰り返した。そして、それらが舟が進もうとするのを妨げているようだった。
 男は初め、これは一体何だろうと思案していたが、やがて一体何なのか、理解した。
 それは、過去に彼が創作に使った時間であり、自らの糧にするために、今まで見てきたものの全てだった。
 食事をすると、体に取り込んだものがそのまま栄養になり、肉体や血になる。
 同じように、今まで、ものを書くために見てきた全ても、男の意識に取り込まれ、分解され、男の創作のための栄養に、血になったのだ。ただ、取り込んだものが全てよく作用するとも限らない。
 舟に血が絡みつく。絡みついて、進みづらくなる。それは行く手を阻む巨大な手のようになる。なおも花は開き続け、ぼたぼたと零れる。
 周囲の空気が全て赤色に染まっていく。その隙間に、緑色の残像が滲む。
 ヒガンバナでできた筋繊維がゆっくりと伸びる。みしみしと音が鳴る。
 それは男の頭の中の景色を具現化しているようだった。
 近頃はほとんど何も思い浮かばず、筆が進まないことばかり。一文字も言葉が浮かばずに一日が過ぎることもままある。そういう時は大抵、ただ未消化の感情だけが残り、焦燥感に押しつぶされそうになる。
 書かなければ死んでしまうというわけでもないけれど、手を動かさない間に感じるぼんやりとした不安は、男をさらに苦しめていた。
 やがて赤く染まった空気は、男の体にも侵食してくる。声も出ないまま、皮膚が赤黒くなっていくのを見ている。手の平がじりじりと焦げていく。痛みはないが、自分が崩れていくような感覚がする。
 懸命にもがく。何とか逃れようと、四肢をでたらめに振り回す。
 尖った花の先が指先に何度も刺さる。目を閉じる。真っ暗な世界の中、自分が感じる痛みだけで周囲の状況を判断する。
 もういらない。もう。

 ***

 窓からの日差しが丁度、男の瞼に重なる。
 その重さを絞り出すように、ぐっと瞼に力を入れてから、目を開く。寝目覚めはひどく悪い。全身が汗でじっとりと湿っている。嫌な感触。
 布団から起き上がる気力すらほとんどない。けれど、懸命に上体だけでも起こそうと、体をくねらせる。
 ばさばさ、と、胸元の辺りで音が鳴る。読みかけの本だった。数冊、布団に持ち込んで、寝る前に読んでいた。
 男はそれを多少乱雑によけてから立ち上がる。体の重さにため息が出る。
 日差しの眩しさから、視界が緑色に染まる。その色が、夢で見た光景を思い出させる。ヒガンバナの色。冷たい空気と指先の感触。
 不思議と、窓から射すぬくもりが、それらとの対比でいっそう暖かく感じる。
 手をかざしてみる。血潮の色が透けて見える。
 それは、間違いなく生きているものの色だった。得体のしれない焦燥感を抱きながら、それでもなお、生きているものの色だった。

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