あふれるミルクセーキ
眠れない。いつもと何も変わらない夜のはずなのに、何でか目が冴える。
ベッドから体を起こす。毛布でくるんだ上半身をなるべく小さくして、熱が逃げていかないようにする。
一人の夜は、さむい。
***
目が覚める。
辺りを見回すと、いつの間にか喫茶店の中に居て、僕のことをお店の人が心配そうに見ている。
「あの……」
僕はどうしていいか分からず、とりあえず声を絞り出す。僕を見ていた人は、にっこりと笑って、言った。
「よかった。ずいぶんとうなされていたようでしたので」
僕がうなされていた? いつの間に? というよりも、まず気になったことを訊いてみる。
「僕、確か自分の部屋に居たはずなんですけど、なんでこんなところに?」
「ああ、心配には及びませんよ。ここは、日常に疲れた人たちが訪れることのできる喫茶店なんです。ここでゆっくり時間を過ごしていって頂いて、疲れが癒えたらまた、いつもの日常に戻れます」
「疲れている人たち……」
僕も疲れているのだろうか。あまり考えたことがなかった。
いつも両親は、夜遅い時間まで仕事。家族全員で揃ってご飯を食べることなんて、めったにない。忙しいから仕方ない。そんなことは理解している。疲れているのは僕よりも、むしろ両親のほうだ。
だから僕は、二人が仕事をきちんとできるように、迷惑がかからないように気を付けている。
二人とも、僕の何倍も頑張っている。母さんは仕事の合間を縫って作り置きのご飯を準備してくれるし、父さんもたまに時間が合うときはたくさん話してくれる。それに比べれば、僕なんて。
「……僕は、疲れているんでしょうか?」
「そう感じることはありませんか?」
「はい、特にそんな風に思ったことは……」
ないです、と言いかけて、ふと思い出した。ついさっき、ベッドに入ってもなかなか眠れなかった自分の事。
体を毛布でくるんで、ぬくもりが逃げないようにしたこと。一人で居る夜の孤
独や、部屋の広さ。家の中の静けさ。暗さ。
一人で留守番するようになった、最初の頃。寂しくて何度も泣きじゃくった。この世界に自分のことを知っている人間が一人も居なくなってしまったみたいな恐怖が、胸の中に渦巻いていた。
「疲れている、というか。寂しい、はちょっとあるかもしれないです」
「なるほど」
「はい」
めずらしく人に弱音を言ったような気がした。
普段はこんなこと、誰にも話したりしない。学校のクラスメイトに言ってもきっと馬鹿にされるだけだし、学校の先生に言っても同じ。頑張ってるんだね、偉いね、と言われるだけだろう。僕が欲しいのは誉め言葉ではきっと、ない。
しばらく俯いていると、なんだか甘い香りが漂ってきた。
「いかがです? こちら、ミルクセーキです」
「ミルクセーキ?」
瞳に映る乳白色の滑らかな液体は、あたたかそうな湯気を立てている。
「いいんですか? 僕、お金ない」
「大丈夫です。この空間の中でなら」
「この空間の中でなら?」
「ええ、この空間よりもっとそちらの世界に近づくと、どうしてもお金が必要になってしまうことがありますが」
何を言っているのか、僕にはよく分からなかった。首を傾げると、お店の人は、ふふ、と笑った。余計に僕は分からなくなる。
「こちらの話です、お気になさらず。よろしければ、冷めないうちに、どうぞ」
「じゃあ、いただきます」
そっと口に含む。優しい甘さが広がり、同時に体の芯があたたかくなる。
「あれ……」
自然に涙が零れてきた。訳が分からず、服の袖口でそれを拭う。けれど、拭えば拭うほど、余計に涙が零れてきた。
大したことないと思っていた。もっと大変な人なんて沢山いる。だから、恵まれている僕が泣くなんて。そんなこと、許されるわけ。
「今まで、沢山我慢してきたんですね。大変でしたね」
違う。僕なんかより大変な人はたくさん……。僕なんかより、労ってもらうべき人は他に。
その辺りからは、あまり何も考えられなくなり、ひたすら泣くことしかできなくなってしまった。一体どれくらいの時間、そうしていただろう。思い出せない。
その日のことは、ここでおしまい。次に目を覚ました時には、自分のベッドの上だった。窓から射しこむ朝日から、微かにミルクの甘い香りがした。
***
それ以降、時々あの喫茶店に行くことがある。当時のことを訊いてみると、どうやらあのミルクセーキはただのミルクセーキではなかったらしい。
心の奥に、本当の感情を隠し持っている人が飲むと、その感情があふれ出てくるというものだったようで、それはあんな風になるよな、と思った。やっぱり、何だかんだ寂しかったのだ。誰かと比べてじゃなく、自分自身の思いとして。
今も時々寂しくなる夜があるけれど、それでも夜を乗り切れるのはきっと、あのすさまじく泣きじゃくった夜があったからなのだろう。