水たまり(ショートショート)
雨が降ると水たまりができる。
子供の頃の僕は、その中に映る景色に、別の世界を夢見ていた。
どうにかして、何か特別な方法を使えば、水面に映る“もう一つの世界”に行けるのではないかと本気で思っていた。
水たまりの向こうの世界では、地面が空で空が地面。空の上を歩くのが普通。
空を歩ける靴を履いて、階段を下るようにどこまでも空を散歩する。ずっと下っていくと、やがて宇宙にたどり着いて、その宇宙の中では魚みたいに星たちが泳いでいる。
子供の頃の空想を思い出したのは、とある休日のことだった。
ここ最近、ほとんど外出することのなくなっていた僕は、久しぶりに外に出た。車は出さずに、徒歩で散歩だ。
別に出不精というわけでもないのに、外に出て空気を吸うと、それだけで先ほどまで張り詰めていた心が少し軽くなる。
雨が降っていたらしく、道路のところどころに水たまりができている。ずっとカーテンが閉めっぱなしの部屋にいたせいで、そんな天気の変化にも気づかなかった。雨音は聞こえなかったので、きっと小雨が長時間続いたのだろう。
そういえば最近、天気予報も見てないな、と、ここ数週間のことを思い出す。
ぱしゃり。
踏み出す足元の水たまりが跳ねる音。一度思考を中断する。せっかくこうして出かけているわけだし、今は散歩を楽しもう。
息を吸うごとに雨で潤んだ空気が肺を満たす。少しぬるいけれど、これもこれでいい。
年甲斐もなく、水たまりをぱしゃぱしゃやりながら歩いていると、明らかに一つだけ、他より色の濃いものを見つけた。
その中で揺れる景色を見る。ふと、違和感を覚えた。映る景色が、周囲の景色と異なっていたからだ。どんなふうに水面が乱れても、こんなふうには見えないはず。どうなっているんだろう?
恐る恐る、つま先をその水たまりに付けてみる。
深い。明らかに、そこだけ地面が存在していない。いつも通る道だから分かる。ここに深い穴は空いていない。
でも、つま先がここまで沈むというのは。
子供の頃に憧れていた空想のことを思い出す。
もしかしたらこの先には、当時夢見ていた世界が広がっているのでは。
そっと、慎重に足を入れていく。まだ地面には触れない。まだ、まだいける。
まだ──。
足首がすっかり沈むくらい入ったときだった。
世界がくるりと反転する。一瞬だけ平衡感覚が狂うけれど、それもすぐに戻る。
足元を見る。空に浮かんでいる。自分の体の一部であることが嘘みたいに、つま先からかかとまでがところ無げに宙を彷徨っている。けれど同時に、地面と思しきなにかを捉えている感触もある。
僕はゆっくりと歩き出す。心臓は激しく脈打つ。呼吸の音が耳の内側で何度も響く。
とりあえず落ち着ける場所へ行きたい。不思議と空気中に足場はあるみたいだけれど、それでも、何も無さそうな場所に立っているのは心細い。
差し当たっては、ちょうど目の前に浮かんでいる、あの浮島へ向かうことにしよう。目的地を決めて歩き出すと風が強く吹く。この体をさらおうとしているみたいでお腹のあたりがひゅっと縮こまる感覚がした。
……どうしよう。こんなときに考えることじゃないかもしれないけれど、お腹が空いたな。
何か食べるものでもあればいいんだけど。
目の前の浮島が、まるで僕がやってくるのを待っているような気がした。