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え!もしかして、私の人生ハードモード!?

こんにちは。タケぽです。自分にはずっと抱えていたものがあります。

タイトルの通り、自分の人生を振り返って、実は結構ハードモードだったんじゃない!?と思い、文章をしたためて見ました。

早速単刀直入にいうのですが、実は物心ついた時から、父親に性的虐待を受けてきました。一時期は自殺を考えましたが、こうして今日も生きています!(しかも大人になって好き勝手生きています!)

今こうして、自分は好きなように生きているので、役に立たない内容かもしれませんが、この記事が少しでも、誰かの心の救いになりますように。祈りを込めて。

◻️自己紹介、家族構成など

・自己紹介

タケぽと申します。しがないオタクです。クリスチャンホームに生まれ、物心着いた時から教会学校に行っていました。

13歳で洗礼を受け、高校は聖公会のミッションスクールへ、大学では聖書科の先生をめざして、神学部で聖書学を主に学びました。

狭き門過ぎて、宗教科の教員免許中1種、高1種を無駄に持つことになりました。

後述しますが、大学3年生の冬に家出をし、そのまま家に帰ってません。男運悪めです。

幼い頃から父母に「豚」と呼ばれていた上に、小中と男子に虐められていた為、自己肯定感が低めでした。今はロリィタファッションを着こなし、インスタで発信するくらいポジティブになりました。

・家族構成

父、母、私、弟の四人家族でした。

食前に主の祈りと当番制で一日の感謝の祈りを捧げる敬虔な(笑)クリスチャンホームでした。

幼い頃は母方の祖母も同居しており、お花の種類や勉強を教えて貰っていました。

父は僧籍を持ちながら、クリスチャンとして洗礼を受けていました。教会で日曜学校の手伝いをしたり、教会の役員を行うような、非常に外面が良い人でした。家庭環境は複雑で、父は私の祖父と浮気相手の間に生まれた子でした。性的虐待を行った理由は「初めて血の繋がった家族ができて嬉しかったから」だそうです。意味不明ですね。

母は保育士で料理が上手。クリスチャンホームに生まれ、教会に幼い頃から通っていました。父との出会いも教会でだそうです。しかし、後述しますが、「モテたくて」という理由で生協の兄ちゃんと浮気します。意味不明ですね。

弟は、母が浮気していたこともあり、父に「自分の子ではない」と疑われ、強く当たられます。勉強が苦手で、不器用な男でした。大学生になった頃に奨学金も返済せず、勝手に大学をやめてどこかへ行方不明になった無責任野郎です。祖母に甘やかされすぎたのでしょう。(生きてはいるようです!)

◻️物心ついた時からの地獄

物心着いた時から、父親に性的虐待を受けていました。

「これは普通のことなんだよ、みんなやってる事なんだよ。」と毎日、お風呂の時間や寝る前に身体中を触られ、舐め回され、父の男性器を舐めさせられていました。お風呂には家族で入るものだと、一人で入ると怒られていました。

保育士の母が土曜日に出勤だった時、父が面倒を見てくれていたのですが、その頃はまだ祖母が同居していたにも関わらず、アダルトビデオを沢山見せられました。

繰り返し、父は「この行為は普通のことなんだ、家族ならすることだ」と私に言い聞かせては、証拠だと言わんばかりに成人向け雑誌のセクシーなモデルのインタビュー記事を見せてきました。

今でもはっきり覚えていますが、初めての性交に関しても書かれていました。

「初体験は5歳♡もちろんパパとでした♡」

そんな内容が、今も頭にこびりついて剥がれません。

平日は保育園に行っていたのですが、どうもお友達と話していると普通のことではないらしいと、年長さんになる頃には気付いていました。

そして、誰かに話すのは良くない事だと、恥ずかしいことなのではないかともこの時に気付いていました。

◻️助けを求めようとして諦めてぐちゃぐちゃにした手紙

小学生にあがり、相変わらず毎日性的虐待を受けていました。

性的虐待は身体に痕も残らないし、子供が訴えても冗談だと考えられる。誰にも言えないまま毎日を耐えていました。

毎日お風呂で性器を舐められ、父の性器を慰めるように言われ、この辱めを受けるのが日に日に嫌になっていました。

ある日、「助けて!」とお風呂で叫びました。

焦った父に湯船に沈められ、苦しくて、死んでしまうのではという恐怖心に駆られました。

その日から、叫んで助けを求めるのはやめました。

小学三年生の頃、どうしても耐えられなくて、母に手紙を書きました。何を書いたかさっぱり覚えていませんが、必死に祈りを込めて書きました。

神様にも助けて欲しくて、一生懸命お祈りをしました。

でも、このことを伝えれば、まだ幼い弟も私も暮らしていけなくなるかもしれないと思い、結局手紙をぐちゃぐちゃにしてゴミ箱に捨てました。

後に母に聞きましたが、母はこの手紙を読んでいたそうです。でも信じられなくて、見なかったことにしたと言います。

◻️「成績が上がればやめてあげる」…繰り返される嘘と自殺未遂

小学校低学年の頃の私には鉛筆を噛む癖がありました。それがきっかけで一部の男子から「気持ち悪い」とからかわれたり、私物を投げられたり、バイ菌扱いされるいじめを受けるようになりました。

中学生までいじめは続きました。軽い物だったので、特にしんどくはなかったのですが、少し学校が嫌になりました。

家に帰っても父の男性器を舐めなければならないし、学校では一部の男子にいじめられるし。(のちに友人から聞きましたが、このいじめは好意の裏返しだったとか やめて欲しい)

でも学校は楽しかったです。小学校5年生6年生の担任の先生は、私が書く詩や作文を「教科書に載っている文章のように綺麗だね」と褒めてくださいました。勉強も好きで、成績も決して悪くありませんでした。

ある日、嫌な日々に一筋の光明が差します。父が「今度のテストで良い成績を取れば、エッチなこと辞めてあげる」と。

頑張りました。成績も良かったです。

でも、性的虐待は終わりませんでした。

「この前の食事の時に茶碗の持ち方が悪かった。罰として3年延長。」

また、罰を受ける期間が伸びてしまいました。

ある日、我慢できなくて、ささやかな抵抗として父の性器に歯を立てました。

凄まじい勢いで殴られ、怒鳴られ、反省するように玄関に立たされました。

我が家のしつけスタイルは、まず茶碗や箸の持ち方が悪いなど、父がしつけすべきと考えた時に鉄拳が飛んでき、怒鳴られます。

そして、何故怒鳴られたのか正座で考えさせられ、謝罪と原因と今後の対策を”申し開き”を求められます。

正解でなかった場合、再度怒鳴られ、リジェクトを喰らいます。

これは性的な行為に応じない時も同じでした。理不尽だと私は感じていました。

でも、言うことを聞けない自分も悪いんだと思っていました。ロボットになりたかった。

期待に添えないし、どこにも居場所がないと感じ、飼っていた犬のリードを壁のフックにひっかけ、首を吊りました。重りが軽いダンベルしかなくて首は締まりませんでした。

何もかも嫌になって自分の首を力いっぱい締めました。青アザが首の周りに残り、1週間痛かったです。小学五年生の寒い日のことでした。

この頃、毎日、自分が男の子になれたら、自分がロボットになれたらと泣きながら願っていました。

◻️心を無にすることを覚えた青春時代と父からの束縛

中学に上がり、父との行為は自分が人生をより良く生きるために我慢すれば良いのだと考え、心を無にすることを覚えました。

父に抵抗することをやめた件について聞かれましたが、「もう慣れたからw」と笑って流していました。でも、心の中では理不尽に対する痛みと憎しみが渦を巻いていました。なぜ私だけ?と思うこともしばしばありました。

誰にも助けは求められません。自立するには中学生は若すぎる。そのため、自分が生計を立てられるようになるまで、我慢するしかない。とひたすら自分に言い聞かせていました。

寝ている時にファーストキスを奪われたり、携帯のカメラで性器を取られたのも知らないフリをしました。知って、抵抗したところで、自分が辛いだけなので。

相変わらず中学では男子からいじめを受けていました。その時は確か、体毛が濃く、肩幅が広いことが原因だったかと記憶しています。

思春期の彼らには、体毛などに気を使わない私が気持ち悪く見えたのでしょう。しかし、体毛を剃ると父から「色気付きやがって!」と怒鳴られるので、どこにいても地獄でした。

◻️化粧をすれば怒鳴る、性行為を求める父

高校生、大学生になると周りも私もだんだんと大人びてきました。体毛だって、流石に気になるので隠れて剃るようになりました。

一度友人に「大学生なのだから、化粧くらいしなよ」と化粧をしてもらったところ、父に「色気付きやがって!!!」とそれはそれは盛大に怒鳴られました。母が私に口紅を塗ってくれた時も、ものすごく機嫌が悪くなっていました。

これは自己解釈なのですが、きれいになって他の男に取られたくないという独占欲の裏返しだったのかもしれません。

どんどん成長し、胸も大きくなり、女性らしい体つきになってきた際、父にたびたびこう言われるようになりました。

「ゴムをつけるから中に入れさせて。」

とうとう父は私に処女を強請るようになりました。それでも私は嫌なものは嫌なので、ささやかながら必死に処女を守る抵抗をしていました。初めてが父だなんて、絶対今後の人生に悪影響があるからです。私の心が絶対壊れてしまうと思っていました。だから、抵抗していました。

大学二年生になる頃、「どうして自分がこんな辛い思いをしなければいけないんだ!」と改善されることを夢見て、母に相談したことがあります。一歩間違えば、父と刺し違えてでも自殺しようと思っていました。

母は話を聞き、「辛かったね」と一言。特に何もしてくれはしませんでした。クリスマスのことでした。

◻️逃走とPTSD

また一年が経ち、私の心がどんどん限界に近づいてきました。

大学の授業、父の相手、家事、アルバイト・・・いろいろなものがしんどくて、母に泣き付きました。

どうせ今回も意味はないだろうと思ったところ、母が父に話をしてくれました。そこから、父と二人きりにならないように母が配慮してくれ、寝る時もお風呂も母と共に過ごすようになりました。

父はバレたことに大層腹を立てていたようです。ある日、母が出勤で早く出なければならず、どうしても父と二人きりになってしまう時間ができてしまい、逃げるように学校に行こうとしました。

が、父に襟首を掴まれ引きずられた挙句、タンスにガンガンと押し付けられ、殴られました。本当に死ぬかと思いました。

父は鬼の形相で、「家族を壊すつもりか!」「何をしてくれているんだ!」と叫びながら私を殴りました。

私はそれまで父に抵抗の意思を示したことがありませんでしたが、初めて顔を庇いながら、「やめてよぉぉ!!!自分が悪いんでしょぉおお!」と泣き叫びました。

それから必死に学校へと逃げるように登校しました。父は捨て台詞で「お前にはもう金はかけん」と言い捨てました。

ショックを受けながら母に報告し、その日から物件を探しながら友達の家に居候し、バイトを2つ掛け持ちして独り立ちできるように動いていきました。

同じ教会に通っていたカウンセラーの方や、ゼミの担当教官(牧師)に相談しては泣き、なんとか心を落ち着かせて、その日を過ごしていました。※どちらも父の顔見知り。その後教会を転会していたので、居辛くなったのだと思います。

周りの友達が優しくなければ、今頃今頃路頭に迷っていたことでしょう。親戚にも相談し、少し、授業料を負担していただいたので、これからの人生を使って返していければなと考えています。

一番困ったのは、PTSDでした。寝ると、必ず父があらゆる方法で殺しにくる夢を見るのです。未だに見るので、心の傷は癒えていないのかもしれません。しかし、私はもういい大人なので、お金パワーで幸せを集めていっております。猫も二匹飼っています!最高!

現在は母とはたまに連絡しますが、基本疎遠、授業料を負担してくださった親戚には毎年のように挨拶に伺っています。弟は先述のとおり行方不明です。

今は家を出て就職し、幸せに暮らしていますが、就職から現在まで、モラハラ男に捕まり、会社もブラック企業で、抑鬱になって現在治療中なのはまた別のお話しです。。。

次の記事で、モラハラ男編、ブラック企業編を書いていきたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。同じ苦痛に耐えている誰かの勇気になれば。

タケぽ



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