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天狗からいろいろと学んできた少年 続✖️七


 

 師匠の薦めで出家、髪を剃り、日蓮宗身延派の秘事を、家から宗源寺まで通いで勉強していた寅吉は、11才になっていた。

前回のあらすじ

 1819年(文政二年)5月25日に、師匠が来て、一緒に来いと言ってきた。

 母には、人に誘われてお伊勢参りに行くと言い、お寺も休み、師匠とともにまずは岩間山に行き、東海道を通り、江ノ島・鎌倉のあたりを見てから伊勢両宮を拝み、西の国々の山々を見廻り、8月25日にひとまず家に帰る。(歩きなのか飛んでいってるかは不明)



 9月、また師匠が来て一緒に来いと言ってきたので、この時も母には神社巡りに出掛けると言い、遠い唐土(中国)の国々までも翔り行き、日本に帰ってきたら東北の国々の山々を見て回るが、どうゆうことか、11月の始めに、妙義山の山奥の小西山中という、家はほんの少ししかない村の、更に奥地の誰も居ない所に捨てられ、師匠はどこかへ行ってしまった。
 なんとか民家のあるところへ行き、かろうじてあった名主に頼んで2.3日待ったが、師匠は現れなかった。


(名主とは、武士より経済的に裕福だった家だったそうです。名主屋敷の記事見つけたので共有します!)↓


 その名主のうちにお世話になってる時、どこの人か名前もわからない、50才ぐらいの老僧が来たので身上を話した。

寅吉『僕は江戸から来て、神道を学ぼうと国々を周ってたとこで、道に迷ってここに来ました』
 と語ると、

老僧『それは素晴らしい心がけだね。それなら、ワシが知ってる人で神道にくわしい人がいるから、連れて行ってあげるよ』

 といい、筑波山の社家(神社)、白石丈之進という人のもとへ連れていってもらい、


老僧『この子は神道をとても熱心に学んでいるので、面倒を見ていろいろ教えてあげてください』




 と頼んでくれ、預けられた。


 さて、白石丈之進という人の神道は、蛭子流という流で、吉田流よりも、より仏法が混ざってあまり面白くない神道と一度は思ったが、人柄も良く、親身に面倒を見ていろいろと教えてくれる。
 これもちゃんと学んでおこうと決心して、この家の子分となり、“平馬”と名前をつけてもらった。
 その教えを受けているうちに、気付いたら年が明けていた。


 しばらくすると、3月の始めあたりに兄弟子の“古呂明”が来て、

古呂明『師匠の居る山に一緒に行こう』

 久しぶりに兄弟子の古呂明に会えたことと、師匠に会えるのと、見捨てられたわけじゃないんだ!良かったー!という気持ちが合わさって、嬉しくて嬉しくて快諾した。
 すぐに主人に伝えに言き、

寅吉『東国すじの神社参りに出掛けるおいとまをいただきたいです』

 と丈之進に暇を請うと、通り手形に印形を押したものを作って持たせてくれた。

丈之進『1人旅は宿かさざる定めなれば、この手形を見せて宿を請うべし』

 と言い諸々の事を教えてくれた。

 その文面は、

“此の度私倅(せがれ)平馬と申すもの、慥(たしか)なる者に御座候間、神前において国家安全万民繁栄のご祈祷せしめ、近国近林巡業に差出し申し候。もし、途中にて御神職衆中え御目に掛り候節は、私同様に御取持ち下され候様に頼上げ奉り候。はたまた此の者何方(いずかた)にて行暮れ候とも、御心置きなく御一宿の程、希(こいねが)い奉り候。以上。
文政三年三月日
    筑波六所社人
       白石丈之進 印

 御神職衆中
 村々御役人衆中

と記して、上包みの紙に
「白石丈之進内同平馬」と書いてくれた。



 手形を持たせてもらった寅吉こと白石平馬は、待っていた古呂明と岩間山へ行き、師匠と再会した。


つづく


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