惜別
世界的な和太鼓奏者、車屋正昭さんが逝ってしまった。
知ったのは数日前のことである。友人から「お前は車屋さんと仲が良かったんだろう。インスタや「note」でなんで触れんのや。冷たい男やなあ」と
言われてしまった。
追悼文は苦手である。美化された内容の文章もだめだ。この悲しみは心の中にそっとしまっておこうと思っていた。
でも友人から指摘されてみて、「そうか、車屋さんには申し訳ないが、私が感じた彼の実像の一端だけだがありのまま綴ってみよう」と思い直した。
私にとっては名前は存じていても面識はなく雲の上の存在だった。その車屋さんに出会ったのは朝倉氏遺跡で2020年の1月のことである。
まだ定番の撮影スポットではなかった隅櫓跡の前で、私はいつもの通り単独で撮っていた。そこへ一人の作務衣をまとった男性が話しかけてきた。
「何を撮っているんですか?」
それが彼との会話の始まりだった。目つきが鋭く、この人は只者ではないことがすぐに分かった。
私は偏屈者で普通はだれも近寄って来ないのに、彼は私の話に食いついてきた。そして別れ際に自ら「私は車屋と言います。」を名乗った。
私は驚いた。それまでお会いしたことはなかったが、まさか!
「え、ひょっとしてあなたはあの有名な和太鼓の車屋正昭さんですか!」
彼曰く、コロナ禍が終焉すれば再びイタリヤで公演する予定で、その時は自分が撮影した「戦国朝倉」の大画面をバックに演奏したいとのこと。
そのために朝倉氏遺跡で前年の秋から一乗谷を撮り始めたのだった。
その数日後、再び一乗谷で出会った。彼の熱情にほだされて数か所、私の気に入った撮影スポットを案内した。
撮影が終わった後に、彼はお弟子さんを教えている数キロ離れた道場へ私を案内した。道場で15分間私一人のために太鼓を演奏してくれた。
生で聞く音、肌で感じる和太鼓、感激した。さすが熟練のプロだ。聞き終わったときにはいつの間にか正座して合掌していた私だった。
その日から連続3日間、道場へ通うことになった。和太鼓を鑑賞するためではない。
彼は数年前から趣味で撮っている風景写真(一乗谷以外のものも含めて)を見せてくれた。中には金沢で撮った舞台写真もあった。それらの感想を言えという。約500枚もあっただろう。
お世辞が苦手な私は正直に感想を述べた。撮影の基本に基づいて一枚一枚徹底的に話した。彼は眼をぎらつかせて真剣に耳を傾けてくれた。写真教室そのものだった。
さすが一流のアーティストだ。感性豊かな彼には私のアドバイスは砂地に水の如くだった。
その年の春が近づくころ、すでに一乗谷には車屋さんの「現場百ぺん主義」の姿があった。その頃から私の単独撮影には遠慮してか、あまり近寄ってこなくなった。
ところがその年の夏、彼から突拍子もないことを誘われた。
「北野さん、秋に私と一緒に写真展やりませんか」
普通なら「一年足らずでは無理ですよ」というところだった。
しかし彼がたまに見せてくれる感性ゆたかな素晴らしい作品に接していたので、「ほんとですか?一流のアーチストと一緒に二人展をやれるなんて名誉なこと、喜んでお願いします。」と引き受けて実現したのが次の新聞記事の内容である。
(この二人展については2021年7月投稿の拙稿で詳しく紹介させていただいています)
しかし、開催して正直くやしかった。
写真展における入場者の皆さんの人気、関心は車屋正昭さんとその作品に集中していた。上の新聞記事を読んでも一目瞭然だろう。
2021年7月投稿の拙稿の中には、一部そのくやしさが見え隠れしている👇
二人展が終わったころから車屋さんの撮影はいっそう熱を帯びてきた。
撮影場所は一乗谷の、それも限られた区域だけ、時間は毎日、それも朝だけ、まさしく「現場百ペン」を超えるペースで撮影に没頭していた。
彼との出会いからもともと二人で撮影することはほとんどなかったが、個人的事情があったのだろう、彼は徐々に私を敬遠するように離れていった。
その一方で他の写真愛好家さん数人と一緒に行動するようになった。それは好ましいことで、彼らも毎日車屋さんと撮影行動を共にすればそれは大いに勉強になっていたはずだ。
という訳で、それ以後は彼と私の間柄はつかず離れずの関係になったが、現場で彼とお会いしたときには世間話をすることも時々あった。
その際には、私は彼に朝倉ギャラリーでの写真展開催をしつこいほど勧めた。
はじめは乗り気ではなかったが、昨年あたりからだったか、ギャラリーを独占するがごとく急に積極的に展示をするようになった。私も彼の作品を鑑賞するのが楽しみだったし、大変勉強にもなった。
ただ、悲しく残念に思ったことが一つあった。
いつだったか、彼が中心になった初めてのグループ展だったと思う。
「一乗谷朝倉氏遺跡博物館開館記念写真展」と大々的に銘打っての開催だった。
それだけ彼が力を入れて取り組んだ写真展だったにも関わらず、私にはなしのつぶてだった。寝耳に水の記念展開催だった。
案内状は不要だが、電話かショートメールでひとことほしかった。
大人げない北野の心からは今でもその時の寂しい思いが消えない。(それでも私は会場へ何度か足を運んだが)
一方、彼に対してたいへん嬉しく思ったことも一つあった。
それは記念展の時ではなかった。記念展以後も何回も開いていたグループ展でのことだった。
その前に彼の気性についてひとこと触れておきたい。
彼は私と同じくらい頑固者だった。写真が分かってくるにしたがい、私のアドバイスでは彼は絶対に納得しないことがあった。よく言えば「信念を曲げない」ということだろう。
インパクトの強い、個性的で意表をついたような作品は秀逸だ。それが彼の持ち味だった。
でも、インパクトの強い作品ばかりを展示壁面いっぱいにびっしり掲示すると逆効果だということ。
これを言うと途端に彼は不機嫌、不満顔になった。
展示枚数は多ければいいというものではない、そしてインパクトが強い作品ばかりであればいいというものでもない。
写真集や写真展では100点満点の作品ばかりでなく、その中に7,80点ぐらいの作品を何点か挿入することに大きな心理的効果があることをどうしても理解してもらえなかった。
これが頑固者同士の彼と私の間の心理的空間が広がっていった大きな要因だったと思う。
あるとき、私は彼の道場へ久しぶりに訪れ、太鼓を即興で演奏してもらったことがある。
大きな打音の流れの中に小さい微音が聞こえてきた。ストップ!と私は叫んだ。
急峻なリズムの中にゆるやか響きが聞こえてきた。ストップ!と私はまた叫んだ。
「車屋さん、そうでしょう、太鼓演奏も作品展示も同じなんですよ。」
彼は無言だったが、不機嫌にはならなかった。
話を元に戻したい。
私が車屋さんと生涯最後の会話を交わしたのは一乗谷に彼の姿が見えなくなる少し前だったように思う。
場所は朝倉ギャラリー。彼のグループ写真展を拝見した。その中で、彼の一枚の作品に目が釘付けになった。
蛇谷(朝倉氏一族の屋敷跡群)の石垣の上に立つ一本の樹木を捉えたシンプルな情景だった。インパクトは弱いがジワ~っとくる奥の深い素晴らしい作品だった。
私は、横にいた彼に本心でつぶやいた。
「すごい! いいねぇ‥‥‥、心に迫ってくるなぁ~」
それを聞いた彼の驚いたような意外な表情が今も忘れられない。
彼はいつも展示期間中に、何度か作品を入れ替えて展示することが多かった。しかし、私が感動したその作品だけは写真展終了まで取り換えることはなかった。
車屋さんと出会って4年近く、それほど交友関係は深まらなかったが、もっともっと一乗谷を撮ってほしかった。偽らざる思いである。
車屋ワールドのさらなる深化拡充を期待していただけに残念でならない。
「一乗谷の巨星落つ」 大げさでなくほんとうにそう思う。
ご冥福をお祈りいたします。
最後までお読みいただきありがとうございました。