桑名看板娘日和
序章
「へい、らっしゃいらっしゃい!」
「チョイとお兄さん、寄っとくれ」
威勢のいい掛け声が四方八方から聞こえる。
ここは伊勢国の入り口、東海道の二番目の規模をほこる宿場町・桑名宿。
時刻はつい先ほど鐘が午の刻を知らせたばかり。太陽は中天に上り燦燦と輝いている。
通りには新鮮な魚をザルいっぱいに積んだ振り売りやお伊勢参りの旅人、呼び込みや小役人の武士たちがやいやいとごった返している。
その中でひときわ通りの良い、鈴を転がすような愛らしい声が群衆の中から聞こえる。
「商人様も、旅人様も。一息お茶でもいかがですか?」
それは一軒の茶屋であった。看板には「みつる屋」の文字。「お休み処」ののぼりもあがっている。
声の主は、年若い娘であった。春らしい薄桃の着物に身を包み、帯に手ぬぐいを下げ、前掛けを付けた姿は、まさに可憐な花であった。
「おう、お長ちゃん。精が出るなあ」
お長、と呼ばれたその娘が振り返る。立っていたのは精悍な顔つきの男だった。天秤棒に醤油瓶をぶら下げて陽気に手を振っている。
「勘吉さん、どうも。今日はどこまで?」
「お城の周りをぐるっと回ってくるつもりやね」
城、とは桑名藩を統治する松平の城だ。
「それは大変やねえ。きいつけてな」
お長が袖を抑えて可愛らしく笑顔で手を振ると、勘吉の顔もほころび、うれしそうに手をあげて天秤を担ぎ上げて行ってしまった。
「お長さん、注文良いかね」
「はーい、お待たせしました」
彼女に注文を取られる客たちは皆、彼女の伊勢訛りの小鳥のような声に聞きほれる。そうしてついつい、何度も注文してしまうのであった。
今は丁度稼ぎ時の時間だ。参拝客から下級武士たちまで、ひっきりなしにこのみつる屋の暖簾をくぐり、座れる場所にぎゅうぎゅう詰めに座って、お長を呼びつける。
お長は客たちの間を行ったり来たりしながら仕事をこなす。その姿目当てに続々と人が集まるものだから、みつる屋は大変な盛況なのであった。
時刻は申の刻を少し過ぎた頃。
ようやく客足が落ち着き、お長もふう、と息をつく。
「おう、お長」
店の奥から店主を務める父平吉が顔を出した。
「ちょっとひとっ走り、菓子の仕入れに行ってきてくれんか。ちょうど二人とも手がふさがっちまってよう」
お長が母お末を見やると、常連客たちと話し込み中であった。
「ええよ、うち今手え開いとるし」
「すまねえなあ」
平吉は紙切れを一枚渡して来た。
この店では近所の和菓子屋の「招福堂」から菓子類を仕入れている。みつる屋用に独自開発した特注の菓子だ。評判の大福は店の看板商品でもある。
その大福が先程売り切れてしまったらしい。急いで調達しなければ。
お長が店の暖簾を出た途端、見知った顔がこちらに近づいて来るのに気が付いた。
「よっ、やってるねえ」
「淳平さん、ご無沙汰しとります」
やってきたのはよくみつる屋にアジを売りに来る振り売りの淳平だ。いつも一人で休みに来るのだが、今日は見慣れない男を一人連れている。まだ若い男だ。お長と似たような年かもしれない。きっちりと結った頭に、少し細面な顔立ちをした商人のようだ。
「あの、そちらの方は……?」
不思議に思ってお長が問うと、淳平が「おい」と男の肩を叩いて前に進みださせた。
「こいつは佐助言いまして、わしの甥っ子です」
「どうも」と佐助と呼ばれた男がほんわりと笑った。つられてお長も会釈する。
「いろいろあって江戸からここまで移ってきたんですわ。今後わしと暮らすことになりまして、またここでお世話になるかと思って連れてきたんですわ」
「まあ、遠路はるばる。えらかったですねえ」
「偉かった?」
佐助が首を傾げた。
「ここらへんじゃあ、『大変だった・疲れた』ことをえらいっていうんや。覚えとき」
「は、はい」
佐助はまだいろいろと不慣れな様子だ。無理もない。ここはお伊勢参りの玄関口。東と西の境目。宮宿から七里の渡しを越えれば、言葉も別世界のように違う。
「とりあえず、お茶と団子を二人分頼むわ」
「はい、ありがとうございます」
お長が代金を受け取ると、二人はそろって外の腰掛に腰を下ろした。
―――なんやろう、今の。
お長はぎゅっと胸元を握った。
佐助に微笑まれた瞬間、どきりと心臓が大きく鳴った様な気がしたのだ。
頭を振って無理矢理思考を頭から追い出すと、お盆に茶と団子の皿を載せて二人のもとに駆け寄った。
「そういえば、今日来た客のよう、佐助いうたか?」
その日の夜。
夕餉の大根の田楽を口に運びながら平吉が思い出したように言った。
突然名前を出されて、お長は菜の花の和え物をのどに詰まらせてしまった。
「大丈夫かい長子」
お末がお茶を差し出してきた。
「大丈夫……。それで、佐助さんがなんて?」
「ありゃあ、たいそうな美丈夫だよ。淳平さん所のアジも飛ぶように売れるに違いねえ」
そこでお長の方に少し体を傾けて、続けた。
「江戸から出てきたって話だが、お長、あんな色男だからって引っかかるんやないぞ」
「な、何言うとるのお父ちゃん。そんなことあらへんわ」
答えながら昼間の胸の高鳴りを思い出す。あれはきっと佐助の顔の良さに惹かれたものだ、そうに違いない、と頭の中から無理矢理追い出す。
「まあ、お長ぐらいの器量良しなら、あんな男、へでもねえな」
悪かった悪かったと、平吉が引き下がった。
「もう、お父ちゃんたらすぐそんなこと言う……」
お長が呆れたように言うと、平吉もウーンと唸った。
「そうはいってもなあ、今年でお前も十九やろう?そういう年頃になったんやから、嫌でも親は考えてまうもんやで」
それはそうかもしれない。だが、それと口に出すことは別問題だ。
「とにかく、うちが佐助さんとどうこうなるなんてあらへんし、お父ちゃんはちゃんと仕事に集中して」
こりゃ一杯食わされた、と平吉は笑った。
第一章
のどかな春の陽気が強まる未の刻。
「ええ?!大塚さんが?!」
お末の色めき立った声が響いた。
「そうなんよ、アタシも又聞きなんやけどさあ」
お長が耳をそばだてて聞いてみると、どうやらいつもの友人どうしの噂話会らしい。
大塚といえば、桑名宿にある本陣の中で、最も格式が高いと評判の宿である。
「跡継ぎさんもとうとう結納かあ……」
「気が早いで、お末ちゃん。まだお見合いするってだけやで」
でもでもー、とお末たちはきゃっきゃと楽しそうに想像を膨らませている。
(大塚本陣の跡継ぎ息子のお見合いかあ)
それが結婚につながれば、きっとそれはそれは豪華絢爛な式が催されるのだろう。女として少し憧れないでもない。
お内儀さんはどんな人だろうか。きっと美人で本陣の女将として申し分ない人なのだろう。何と言ってもあの大塚本陣の取り仕切りをする二人になるのだ。盛大に祝わねばなるまい。
(楽しみやなあ)
お長はほうきをサッサと動かす手を速めた。
その日の夕方。
そろそろ店じまいの準備を、と言われ、暖簾に手をかけたところで、見知った顔に出会った。
「あれ?長五郎さん?」
昼間噂になっていた件の大塚本陣の跡継ぎ息子である。
「……あ、お長さん」
一拍おいて、彼もこちらに気づいたらしい。
「久しぶりやねえ。元気にしてた?」
いつもの調子でお長が長五郎に話しかける。
「ええ、元気にしておりますよ、このとおり」
そう言って苦笑する彼は、どこか元気がない。
「……ちょっとうちに寄って行かれません? 顔色、悪いで」
「……じゃあ、少しだけ」
長五郎はお邪魔します、と折り目正しく暖簾をくぐった。
「何かあったんですか?」
お茶を出しながら、お長が問うた。
「ああ……大したことではないんですよ」
そう言いながらも、普段の彼からはとても考えられないほど意気消沈している様子が見て取れる。
「話くらい、聞きますよ」
そのくらいしかできんけど、と笑うお長につられたのか、長五郎に少し笑みが戻った。
「今度、お見合いをすることになりましてね」
長五郎が頭を掻きながら、照れくさそうに言った。
「まあ、それはおめでたい」
お長はさも今聞いたばかりのように答えた。
「いや実はそうでもないんですよ」
と、長五郎はやはり暗い顔に戻ってしまった。
「この縁談、お断りしようと思っていまして」
「ええ?!」
まだ会ってもいないのに、長五郎はこの話を破談にしようと言うのだ。
「それはまた、どうしたん」
「これは、小さいころからよくしてくれたお長さんにだけの話なんですけれど」
そう言い置いて、一拍の後続けた。
「僕には、まだ結婚は早すぎると考えているんです。今は仕事を覚えるので精いっぱい。だけど父母は早く孫の顔が見たい、とそればかり。僕の事情なんてちっとも考えてくれやしない」
そこまで一気に喋ると、茶を口に運んだ。
「……小さいころに兄を、父母にとっては大事な長男を亡くした親の気持ちもわかるんです。だから末っ子の僕が跡継ぎをやることになったんですからね。だけど、僕にはまだその決心がつかない。そんなままで迎え入れた人を幸せにできるとは、到底思えない」
だから、と吐く息に乗せたまま、黙ってしまった。
「……」
お長は何も言えなかった。気休めの言葉一つ出てこない。それほどまでに長五郎の独白は悲痛であった。
「長々と愚痴に付き合わせてしまって申し訳ない。小さいころから見知った仲だと、甘えてしまうのかな」
長五郎は苦笑しながら、懐から金を出すと少し多めにお長に握らせた。
「ちょっと、こんなにもいただけませんよ」
慌ててお長が釣銭を返そうとすると、長五郎は首を振ってその手を押しやった。
そうしてにっこりと笑ったまま、長五郎は店を後にした。
お長は気まずそうに手の中の小銭を見つめていた。
「お末ちゃーん、来たよー」
翌日の昼過ぎ。どこか間の抜けたお末を呼ぶ声がみつる屋の店内に響き渡った。
「あらー、大塚の女将さん、どうもー」
やってきたのは大塚本陣の女将らしかった。お末の話友達でもある。
いつものように座敷の一角に母と腰を下ろすと、何やら話を始めた。
ちょうど手が空いていたこともあり、お長もその席にそっと近づいた。
(おせっかいやろうか)
しかし、幼馴染が困っているのだ。親切心とちょっとの好奇心を抑えられずに、お長は二人に近寄った。
「あの、大塚の女将さん」
お長が話しかけると、女将はあらまあ、と顔をほころばせる。
「お長ちゃんやないの。なんや、ちょっと見いへんうちにええ娘さんになって」
にこやかに女将がお長を褒める。
「どうもありがとうございます。あの、長五郎さんのことなんですけど」
お長が切り出すと、女将はああ、と言った。
「うちの息子のこと、気にかけてくれとるんやね。小さいころからの仲やもんねえ」
「ええ、まあ」
そこは曖昧にして、女将に確認したいことを尋ねる。
「あの、長五郎さんは元気でやってらっしゃいます?仕事のこととかで悩んでたりとかしてません?」
「まあ、あの子が?そんなことはないと思うけど……。仕事も真面目にやっとるし、田舎くさいのはいかんちゅうて言葉も丁寧に直したし」
「じゃあ別に仕事に心配を持っとるわけやないんやね」
「どうしたん急に。なんかあの子が言うとった?」
いぶかしげな女将に、お長は慌てて手を振る。
「ううん。そんなんやないよ。ただ、昨日元気なさそうにしとったから、仕事でなんかあったんかと思うて」
声は平静を保てていただろうか。ふうん、と女将は一応納得したようだが。
「まあ、あの子も思うところの一つや二つあるってもんさね」
それを言うてくれたらなおええんやけど、と女将は笑顔で店を出て行った。
「ちょっとちょっと、長子」
お末がぽんぽんと肩を叩いてきた。
「あんた昨日、そこで長五郎さんと喋っとったよな。何聞いたん?」
口角の上がった口元が好奇心を如実に伝えてくる。
「別に何も。今日は暑いですねとか、仕事大変やねとか、そんな話」
「ええー?ほんまに?」
「ほんまに。もう、話ばっかりしとらんと、洗い物!」
はいはい、とその場は引っ込んだお末だったが、事あるごとに長五郎との会話の内容を聞かれる。
(噂好きのお母ちゃんに知れたら、なんて言って広まるかわからん)
その一心で、お長は決して口を割らなかった。
「アジー、アージー」
店の前を掃除していると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「佐助さん」
「ああ、えっと、お長さん」
天秤棒を担いだまま、佐助が近寄ってきた。
「あ……急に呼び止めて、えらいすみません」
「構いませんよ、自分ももう少しで仕事が終わるので」
佐助は天秤棒を少し上げて見せる。両方の皿に山と積まれていたであろうアジはもう十匹も残っていなかった。
(お父ちゃんが言ったこと、本当やった)
少し前に「アジが飛ぶように売れるようになる」との父の予言が当たっていたことに驚く。
「どうかしたんですか」
佐助が不思議そうにお長の顔を覗き込んだ。
「いえ、あの……実は、その……」
こんなことを知ったばかりの人に言いふらすのはどうなのだ、と思ったが、ほかに良さそうな相談先もないので、つい、長五郎との会話を打ち明けてしまった。一応、長五郎はある男と伏せておいたが。
「ふうん……」
佐助は静かに聞いていたが、やがてにっこりと笑っていった。
「お長さん、それはね、その男がまだまだ子供なんですよ」
「え?」
まさか佐助がそのような物言いをするとは思っていなかったので、思わず素っ頓狂な声が出た。
「だって、現実を見て、自分の置かれた立場や周囲の状況を鑑みることなく、自分ができそうもないから、そんな覚悟もないからと逃げ回っているだけではありませんか。そんなの寺子屋を嫌がる子供と何も変わりませんよ」
「……」
ぽかんと呆気にとられたまま、お長は耳を傾けていた。
「大人になるってことは色んな責任を負うことなんです。家族への責任、仕事への責任、命続く限り生きていく責任……。そういうものから目を背けているようじゃあ、立派な大人とは言えませんよ」
だから、と佐助は続ける。
「もしその男に会う機会があるなら、しっかり喝を入れてやることです。大黒柱になるお前がそんなことでどうするってね」
お長は、はっとした。自分が長五郎にやってやれることが分かったような気がしたのだ。
「助言、ありがとうございます! お礼をお持ちしますから、少々お待ちを」
「ああ、いいですよ、そんなの。大したことはしておりませんから」
佐助は慌てて引き留めたが、すでにお長は店に入ってしまった後だった。
「ふう……」
佐助はため息をつく。
「まあ、俺が一番言えた義理じゃないんだけどな」
その日の仕事が終わるや否や、お長は店を飛び出し、七里の渡しの船着き場の方角目指して小走りに向かう。
目指すは大塚本陣である。鉄は熱いうちに打て。父の教訓のままに飛び出してきた。
着いたころにはとっぷりと日も暮れた時刻だったが、構わず門をたたいた。
「ごめんください」
「へい、いらっしゃいませ」
下男らしき男が門を開けた。
「長五郎さんに話があるのですが、通してもらえますやろか」
「へえ、少々お待ちを」
それだけ言って下男が引っ込んだ。しばらくすると戻ってきて、上がって良しとの伝言を聞いたので、下男に案内されるままに本陣の中へ足を踏み入れた。
中はさすが桑名一の本陣である。位の高いお人を招くにふさわしい、格調高い内装だ。
その奥のほうにある部屋に通された。中では長五郎が待っていた。
「急にお訪ねして申し訳ありませんでした」
お長は深々と礼をした。
「いえいえ、大事な友人の訪問ですから」
長五郎はにこやかに応対してくれた。下男を呼び、茶と菓子を持ってくるように言いつける。
「それで、どうしたんです。何か急用が?」
「あんな、長五郎さん。私あんたに伝えようと思って」
長五郎は眼をしばたたかせた。
「長五郎さん。あんたはもう、大人になる時期が来たんや」
「……というと?」
「お嫁さんをお迎えして、子供も生まれて、それで家族を築いて、その責任を背負う。そういう日が来たんや」
「……」
長五郎は黙って聞いていた。だんだんうつむいて、声に涙が混じる。
「だって、そんな、急に言われても、僕は……」
言葉が昔の泣き虫だったころに戻ったかのようだ。
「……急な話で、戸惑うのはわかる」
自分だって、明日突然結婚相手を連れてきたと言われたら、動揺するに違いない。
「けど、まだ会うだけやないの。ご縁あって、結婚することになるかもしれんけど、今はお互いに会うだけやで。そう気負わんと会うてみたらええやない」
「うん……うん……」
ゆっくりと長五郎が顔を上げた。不安が完全に消えたわけじゃない。しかし、今までにはなかった力強い意志を感じ取れた。
「そうやね、僕ももう、そういうことから逃げられる年やないんやね」
年下の女の子に諭されるとは思ってなかった、と長五郎は頭を掻いた。
「まだ覚悟は決まったわけやないけど、もうちょっと考えてみることにする。お見合いも行くだけ行ってみようかな」
「そうしなそうしな。なんや、私が言うまでもなかったやん」
「そんなことはないよ。お長さんにここまで言われてようやく考えるところまでしかこられない、子供ですよ」
そのとき、丁度茶が運ばれてきた。同じお盆にきれいな桜餅が乗っている。
「よかったら食べていってください。その間に送らせる準備をしますので」
「そう? じゃあお言葉に甘えて」
道明寺粉で作られたもちもちの桜餅を一口ほおばる。甘い桜の味がたまらない。桜の葉の塩気も絶妙だ。そんじょそこらの和菓子屋で食べられる味ではない。
「んー、美味しい!」
「それはよかった」
ようやく、長五郎に笑顔が戻った。
お菓子を食べ終わり、お茶を飲み終えるまでたわいもない世間話をする。せめてこの時間だけでも彼が心軽くいられるように。
外に出ると、下男が提灯を持って待っていた。
「それじゃあ、また。店にも来てね」
「うん。またお邪魔させてもらいますよ」
門前まで見送ってくれた長五郎に一礼して、見送りの下男とともに暗い夜道を歩きだす。
―――いつか、自分も同じ日が来る。
それまでに立派な大人としての心構えを身に着けておこう、とお長はひそかに心に留めたのだった。
第二章
風がだいぶ夏のにおいになってきた。
「やあ、お長さん。日に日に暑くなってくね」
振り返ると、初老の男が立っていた。お長もよく知る店の常連だ。
「権太さん。どうもこんにちは」
権太は「いやあ、まいったまいった」と手拭いで汗を拭いている。
「ここに来るまでに蒸し焼きにされるかと思うたわ」
「それはえらかったですやろう。どうぞ座ってください」
お長は日陰の座敷に権太を案内する。
「いやすまんね……どっこいしょ」
権太が崩れるように座敷に腰を下ろした。
「とりあえずお茶。それとお菓子は……」
「今日から夏菓子として葛餅を売り出してますけど、いかがです?一皿八文」
いたずらっぽい笑顔で指を両手合わせて八本立てて見せる。
「じゃあ、それをもらおうかな。……いやあ、お長ちゃんは商売上手やなあ」
にこにこと権太の笑みは絶えない。
「そんなことは……でもありがとうございます」
謙遜するお長を見つめながら、ふう、と権太が息をつく。
「うちの倅はからっきしでねえ。愛想は悪いし、見てくれも良くねえ」
手拭いを首に引っ掛けたまま、権太がぽつぽつと語る。
「仕事は真面目で料理の腕も悪かあねえんやけど、こと商売方面はあかんなあ」
「権太さんの所は蛤屋さんですものね。蛤屋はここらは多くて大変でしょう?」
桑名と言えば蛤、と言うほどここは蛤屋が多い。特に時雨蛤は名物と言っても過言ではない。他に焼き蛤などを出している店もある。
「そうなんよ、聞いてくれお長ちゃん。最近新しい蛤屋がまた出来ちまってなあ。そこがこれまたでかい店構えで大量に安く売るもんだから、昔ながらの蛤屋が皆まいっちまってなあ」
新しい蛤屋、というのはお長も風の噂で聞いたことがある。つい最近開業したばかりながら、豊富な品ぞろえと手ごろな値段で人気を博しているとのことだ。確か名前は須賀屋貝新だったはずだ。
「須賀屋さんはまだいっぺんも行ったことあらへんけれど、大変な人気なんですってね」
「はあ、俺らはもう、商売あがったりよ」
ため息をついて権太がうなだれた。
「そんに落ち込まんと、元気出して」
お長は葛餅と茶を差し出した。
「ありがとさん。まあ、うちは常連さんが買いに来てくれるだけまだましなほうかもしれんしなあ」
権太はごくごくと茶をのどに流し込んでふう、と一息つく。
「そういえばその倅なんだけどよ、今日はこっちには来てないかね」
「え?」
権太の倅、というと凛太郎か。お長は何度か話したことのある仲だ。
「あいにく、今日は見とりませんねえ」
「そうか……」
権太は何か考え事をしているようだった。あまり客のことに首を突っ込んではいけないと思いながらも、好奇心に勝てずお長は問うた。
「凛太郎さんに何かあったんですか?」
「いや、何かってわけじゃねえが……」
少し言い淀んだ後、権太が口を開いた。
「最近、ちょっと仕事にのめりこみすぎとる節があってな。仕事熱心なのはええけど、夜遅くまで行灯つこて蛤を何べんも煮たり、近所のあっちこっちの蛤屋から時雨蛤を買うてきて味比べしたり」
「まあ、熱心でええことやないですか」
「それ自体はええんやけどな……最近は鬼のような形相で鍋の蛤を睨んどることも多くて、親としては心配やで」
確かに熱心、の一言で片づけるには目に余るものがあるようだ。
「でも、息子さんにも何か考えがあってのことですやろう。もうちょっと見守ってみてはいかがです?」
「せやねえ……」
どこか納得のいかない顔で、権太はそう言った。
「へえ、そんなことが」
その日の店をたたむ直前。佐助が慌てて駆け込んできた。片づけをだらだらやっていて良かったと今日ほど思ったことはない。
それで、世間話の一環として、権太と凛太郎の話を聞かせてみたのだ。
「ずいぶん熱心な方なんですねえ。俺も見習わないと」
「そこまで無理される必要もないと思いますけど」
二人して茶を飲みながら、しばし歓談する。
ああ、至福の時だ、とお長は思う。佐助と話していると、その日の疲れも吹き飛んでしまう。
と、その時。ガラガラと勢いよく扉が開いて、文字通り人が飛び込んできた。
「あの、今日はもう閉店で……」
言いかけて、お長は口をつぐんだ。飛び込んできたのは、たった今話していた蛤屋の凛太郎その人だったからだ。
「り、凛太郎さん、あんた、どうしたん」
ぜえ、はあ、と息を切らせて、これでもかというほど顔をしかめて、立ち尽くしている凛太郎にお長が恐る恐る声をかける。
するとゆがめた顔をさらにくしゃくしゃにして、ぼろぼろと大粒の涙を流してひっくひっくとしゃくりあげ始めた。
佐助も心配そうにその様子をうかがっている。
「お長さん、うちはもう、ダメなんだあ……!」
堰を切ったように凛太郎は泣き出し、その場に崩れ落ちた。
「いったいどうしたってんです」
お長は手拭いを凛太郎に差し出しながら事情を問うた。
凛太郎は溢れる涙をぬぐい、ずびびと鼻をすすりながら、切れ切れに吐露し始めた。
「新しい蛤屋の須賀屋ができたのは知っとるでしょう? あそこに取られた客を取り戻さんといかんと思うて、毎日必死に手探りしました。煮つけの味を変えたり、あっちこっちの蛤を食べ比べたり、時には須賀屋の味をまねてみたりしました」
そこまで言って、一拍の後続けた。
「だけど、ダメだった。どんなに味を改良しても、同じ味を出してみても、客足は増えない。それどころか常連客まで減り始めちまった。もうどうすりゃ良いかわかんねえよお……」
消え入るような情けない声を最後に、またぽろぽろと泣き出してしまった。
お長にはかける言葉が見つからない。これだけ一生懸命になっても客足を取り戻せないと嘆く凛太郎にもっと頑張れ、などと誰が言えようか。
「ふむ……」
ふと、後ろで興味深そうな声が聞こえた。言わずもがな、佐助の声だ。
「お長さん、この後お時間良いですか?」
「え?」
そういわれて今の時刻を振り返る。夕餉の支度までにはまだ時間はある。
「凛太郎さんのお店に行ってみませんか?」
凛太郎の店に着くと、権太が店先に座っていた。
「あれ、皆してどないしたん?」
「いえね、凛太郎さんがみつる屋に駆け込んできて、店がもう駄目だと言うものですから、一度拝見させていただこうかと」
「そうでしたか、愚息が大変申し訳ないことしましたなあ」
ぺこりと頭を下げる権太に、いえいえ、とお長が手を振る。
「よかったら時雨蛤を味見させていただけませんか?」
「へえ」
佐助が二文金を渡すと、権太が二つの小皿に貝を少しずつ盛って出てきた。
片方の皿をお長に渡すと、佐助は指で貝をつまんで口の中に放り込んだ。
お長も真似をして、貝を口に入れる。醤油の味も生姜の辛さも絶妙だ。これはぜひ家でも食べたい。値段も確認したが、とびぬけて高いわけでもなかった。
「うん、美味い」
隣で佐助も舌鼓を打っている。
「こんなに美味しくて値段もそんなに変わらないはずなのに、何がいけないんでしょうか……?」
「じゃあ、それを確かめに、今度は須賀屋さんに行ってみましょう」
ごちそうさまでした、と佐助が空になった皿を返した。お長も慌てて佐助に倣った。
須賀屋に着いた。相変わらず繁盛しているようで、買い物客でごった返している。
「えらいつんでますねえ」
凛太郎が不機嫌そうに言った。
「つ、つむ、とは混んでいる、ということでいいんですか?」
佐助が確認してくる。
「そうですよ」
お長が笑いながら肯定してやると、佐助がほっと息をついた。
「それより、ここにきて何がわかるってんです? 味見ならもうしましたよ」
「味じゃありませんよ。あれだけの種類を全部味見となると、金が足りませんからね。他を観察するんです」
三人でじっと店の様子を窺う。
数人の若い男が店の外で呼び込みをしている。「いらっしゃいいらっしゃい!」と声を張り上げ、近づく客には店の外に展示された商品を説明している。「あっさりならこっち!こってりならそっち!」と威勢よく明るい声が、少し離れたここまで聞こえてくる。醤油と生姜のいい匂いが外にいる三人の食欲を誘う。
「うん、これですね」
「何かわかったんです?」
首をかしげる二人に、佐助が説明する。
「まず、店員の愛想が良い。声も明るくて、客が近づきやすい」
確かに、近寄りがたい雰囲気はない。ちょっと声をかけようという気にすらなる。
「次にしぐれ煮、焼き蛤を店外で供している。醤油のいい匂いが腹をすかせにくる品並べをしている」
それも的を射ている。離れたところにいる三人も腹が減っているような気にさせられているのだ。
「結論として、須賀屋は味以外でも『売る』というところに注力している、ということですね」
「そ、そんな……」
凛太郎ががっくりと膝をついた。
「だから今まで通りの売り方をしている従来の蛤屋が苦境に立たせられた……ということなんですか?」
お長が言った。
「そういうことでしょうね」
にべもなく佐助が返す。
「どれだけいい味のしぐれ煮を作っても単に呼び込みをかけるだけとか、そんな売り方じゃ通用しなくなってしまっているのですね」
「そうですね。これからはいかに商品をよりよく見せるかの勝負になるでしょうね」
「と言いますか、今までそうならなかったのが不思議なくらいなのですが」と佐助は首をひねっている。
それは良くも悪くも田舎商法だったということだろう。それが大店の参入で変わろうとしている。
「凛太郎さん、諦めるのはまだ早いですよ」
佐助がポンと凛太郎の肩を叩く。
「今からでも遅くありません。お店の売り方を工夫してみませんか」
「けど……おいらにはあんな、真似できねえよ……」
「できるできないじゃなくて、やるしかないんです」
佐助はきっぱりと言い放った。
「こんなところで自分のことを言うのもなんですが、俺も最初は全然売れなかった。叔父が売っているアジと物は変わらないはずなのに、どうしてあの人は売れるんだろうって、一生懸命考えました。それで江戸訛りを直したり、愛想をよくしてみたり、いろいろ試行錯誤したもんです」
佐助は凛太郎を力強く揺さぶった。
「あなたは老舗の後継ぎさんじゃないですか。振り売りの俺にできることがあなたにできない道理はない」
「……」
凛太郎はひどく戸惑った表情をしていたが、やがて意を決したように何度も頷く。
「うん……おいら、やってみるよ。できるかわからないけど、やってみる」
その答えを聞いて、佐助もうれしそうに微笑んだ。
数日後、みつる屋に権太がやってきた。
「お店のほうはどうですか」
茶を出しながらお長が問う。
「それが、聞いてくださいよ。凛太郎のやつ、この間帰ってくるなりこれからは自分が店頭に立つって聞かなくって、試しに立たせてみたら笑顔こそぎこちないものの、声が明るくなったし味の説明まで始めやがって、いったい何があったんや」
驚きを隠せない様子で、権太が言う。
「きっと、何か良いことでもあったんでしょう」
しれっと佐助が素知らぬふうに言う。
「この度は本当にご迷惑をおかけして、えらいすんませんでした。これ……」
権太が佐助とお長に小さいざるを一皿ずつ差し出す。口を開けた蛤からは、ほんのりと味噌の香りが漂ってくる。
「凛太郎が作った、蛤の味噌焼きやそうです。食べたって下さい」
「これはどうもご丁寧に……ありがたくよばれます」
お長のその言葉を聞くや否や、それじゃあ、と権太はその場を辞した。
佐助とお長は手にした蛤を見て、顔を見合わせて苦笑した。
第三章
蒸し蒸しと熱い空気が体中にまとわりつく。
ちりんちりんと軒先の風鈴がかすかな声で鳴く。
本格的な夏の到来だ。どこの店も夏の商品の売り出しに余念がない。
「いらっしゃーい。冷やし茶はいかがー?」
みつる屋も冷やし茶なるものを売り出した。浅い桶に井戸から汲んだ水を張って、その中に茶の入った湯飲みを入れて冷やすのだ。これが飛ぶように売れた。
「ふう……」
今日は昨日よりも暑いせいか、客足が全く落ちない。
お休み処みつる屋は大盛況だ。
「お長ちゃん、大福とお茶、2人前ねー」
「おーいお姉さん、こっちに団子追加ねー」
「はーい、おおきにー!」
お盆を片手に店内を駆け回り、時に外の腰掛まで注文を取りに行く。
鶯を思わせる彼女の声と様子に、来る人々はみな一様に頬を緩ませる。
「せっかく寄ってもろたのに、お構いもできずすみません」
お長が座敷の一角に向かって謝る。そこには淳平と佐助が座っていた。
「ええてええて。わしらも長居はせんで」
ついこの間相談に乗ってもらったお礼に大福を二つ渡したところ、「大したこともしてないので」とわざわざ客として足を運んでくれたのだ。
それなのにこの盛況ぶりで、ろくに二人のところに行けない。平吉もお末も手いっぱいだ。
「看板娘さんってのも、大変やなあ」
淳平がしみじみと言った。
小さい体でくるくるとよく働くその姿は、見ているだけでも小気味良い。
「お前も女房もらうときはああいう女子にせえよ」
佐助はぶはっと盛大にお茶を吹いた。
「おいおい何しとるんや」
「だって……けほっ……変なこと言うから」
袖で口元をぬぐいながら、佐助が言い返す。
「何が変な事か。お前ももういい年やろう。嫁さんもらうことも考えにゃ」
「それはそうですけど、何もお長さんを引き合いに出さなくても……」
「何を言うとるかね。器量良し、仕事良し、言うことなしの娘さんやないか。ああいう女子がええんよ」
それはあなたの場合でしょ、という言葉を佐助はすんでのところで飲み込んだ。
「そもそも、そんな高嶺の花に俺みたいなその日暮らしの振り売りなんかに嫁いでもらえるわけないでしょ」
「それもそうか」
はっはっはと気楽に笑う叔父に、はあ、と佐助の口からため息がこぼれる。
改めてお長を見やる。
客に満面の笑顔を送りながら、菓子の乗った皿を渡している。
確かに良い娘には違いない。色んな男から引く手数多だろう。うまくすれば大店からもお呼びがかかるかもしれない。
そんな高嶺の花に夢を見ることなど、佐助には到底無理だった。
さて、そろそろ席を立つか、と座敷をおりようとした時だった。
「てえへんだ!てえへんだ!」
一人の男が店に転がり込むように入ってきた。
「どうしました、お客さん」
平吉が問う。
「桑名に、ここに、異人さんが来る!」
店内は一時騒然となった。
「そりゃ本当かね」
「どこで知った」
など、入ってきた男は矢継ぎ早に質問攻めにされる。
「知ったのはさっき、城のお触書が出た時なんだよ。たまたまお触書を立ててるところを歩いてたんやけど、立ち寄り予定の店の一覧にここの名前が書いてあって」
男は汗を手拭いで拭きながら、何とか答える。
「ここに異人さんが来るってだけでも飛び上がったが、知った名前があってさらに驚いたってもんさ。それで、お長ちゃんたちに早く知らせないとと思って」
「あたしちょっと見てくる!」
お末がいてもたってもいられなかったらしく、店を飛び出してお触書のほうへ走っていった。
「やったなあ、大将!」
「おめでとうさん!」
あたりからはやし立てる声が聞こえる。
お長はといえば、いまだにぼんやりとしていた。
ペルリの来航以降、江戸に異人が増えたという話は風の噂で知っていた。だがまさか、地元に現れるとは誰が思おうか。
思わず尻もちをつく。と、誰かに支えられた。
「大丈夫ですか」
声のするほうに顔を向けると、佐助がいた。整った顔が思ったより近くにあって、とくんと心臓が鳴る。
「あ、その……大丈夫です」
慌てて体勢を立て直すと、よかった、と佐助の声が降ってきた。
「お長ちゃん、よかったねえ。この店がええ店やってお上に認められたっちゅうことや!」
常連客の一人が話しかけてくる。
「ええ……まだ実感もありませんけれど」
「その視察に来るっちゅう異人さんのお眼鏡にもかなうと良いねえ」
「本当に」
お長はうわの空で答える。この店に異国からの来訪者がある。その事実を未だにうまく呑み込めない。
「み、見てきたよ!」
お末が戻った。息も切れ切れに興奮しているようだ。
「確かにうちの店の名前もあった!異人さんと、幕府のお役人さんが来るんだって。こりゃあ忙しくなるよ」
「じゃあ、何かね。この一帯をぐるっと見て回るつもりなのかね?」
「そうみたい。桑名宿中のあっちこっちの店の名前が書いてあったもの」
興奮冷めやらぬ様子でお末が語る。
「そりゃもうね、たくさんの人が集まってたよ。芝居見物かってぐらいにね。あたしゃ、その群衆をかき分けて一番前で確認したんだよ」
「へえ、そんなかな」
「ああ、もう、どないしよう、どないしよう!」
お末はお末で混乱しているようであった。
「まあ、俺らがやれるのは商人様だろうがお大尽様だろうが、注文されたもんをお出しするだけや。おちつき」
平吉がなだめるようにお末の背を優しく叩く。
「うん、うん、そうやね……」
少し落ち着いたのか、お末がはー、はー、と深く息をつく。
「いや、それにしてもめでたい!お長ちゃん、お茶と饅頭追加ね!」
その声を皮切りに、みつる屋はいつもの活気を取り戻す。
そうして、はっと、今まで佐助に肩を支えられていたのをお長は思い出した。
「あっ……あの、すみません」
そこで佐助の方も肩の手を思い出したらしい。ばっと勢いよく手を離した。
「こ、これは、どうもすみません」
「い、いえ」
なんとなく気恥ずかしい。お長は急いで注文をした客の方に駆け寄っていく。
佐助もまた、ひどく戸惑っていた。先ほどまで自然に彼女の肩を支えていた手が震えている。
「おい、おい、佐助!」
淳平が呼ぶ声が聞こえて、やっと我に返る。
「どうした、体調でも悪いのか」
「いや、何でもないです。大丈夫ですので」
はは、と笑いながら、佐助は天秤棒を担ぎ上げた。
さて、ついにその日がやってきた。
早朝から皆落ち着かない様子で、そわりそわりとしている。
暇のある者は一目異人の姿を見ようと、七里の渡しの船着き場に集まっている。
巳の刻を鐘が知らせたころ、ひときわ仰々しい船団がやってきた。
その船には確かに見慣れない服装をした男が数人と、幕府の役人と思しき武士たちがいくつかの船に乗って近づいてくる。
そして、とうとう桑名の地に上陸した。役人が先導するように異人たちを連れて歩き始める。
人々の心の高鳴りは最高潮に達した。
お長は身を固くして一行の到着を待っていた。
異人を乗せた船が来たとの知らせが入ってから、すでに一刻半が過ぎようとしている。
(まだやろうか、本当に来るんやろうか)
ぐるぐると渦巻く心を落ち着かせるために、時折深く息を吐く。
「お長さん」
顔を上げると、佐助がいた。
「佐助さん、どうして……」
「いや、異人がここに来るとなって、お長さんはどうしているか、気になって」
佐助はほかの人間と比べて平静を保っているようだ。余裕があるようにも思える。
「佐助さんは異人さんに会うたことがあるんですか?」
「会ったことはありませんけれど、江戸で何度か見かけることはありましたよ」
「そうですか」
ならば、あまり動揺していないのも頷ける。
「異人だって、俺らと同じ人間です。図体はでかいですが、取って食われたりはしませんから、大丈夫ですよ」
だから、と佐助は続けた。
「そんなに怖い顔してないで。笑顔が売りのお店でしょう? なら、最高の笑顔でお迎えしなきゃ」
にっこりと佐助がほほ笑んだ。それだけで体の力が抜けて笑みが浮かぶ。
「そうそう。その顔。それで良いんですよ」
それじゃあ、とそのまま佐助は行ってしまった。「アジー、アージー」の声が遠ざかっていく。
小さくなる背中を見送りながら、自分の両頬をぺちぺちと叩く。
(いつも通り、笑顔でいかな)
いつ、どんなお客様が来てもいいように。早速入ってきた旅人姿の二人を座敷に案内した。
時刻は丁度未の刻。
件の一行がみつる屋に到着した。
「御用である!」
仰々しく役人が声を張り上げる。
平吉が出てきて、お末とお長が後ろに続く。
「いらっしゃいませ」
皆が注目する中、平吉が丁寧にお辞儀した。お末とお長も続いて「いらっしゃいませ」と腰を折った。
「この度は英吉利国公使殿のご案内である」
そこで役人は何やら紙を広げ、何かを確認する。
「ここの評判物は大福餅であるとのことで間違いはないか」
「はい、間違いございません」
平吉が答える。その声は平静を装っているが、幾分固い。
「では、それを人数分。茶とともに」
「承知いたしました」
もう一度深く礼をして、平吉とお末が奥に下がった。平吉が手早く皿に菓子を盛りつけ、お末が緊張した面持ちで茶を注ぐ。
その間、お長は英吉利から来たという異人たちに注意深く観察される。
(笑顔、笑顔……!)
自分に念じながら、ほほえみを絶やさず、両親の準備を待つ。
やがて大きなお盆に菓子の盛りつけられた皿が所狭しと並べられたものと、同じく大きなお盆に茶の入った湯飲みが並べられたものがやってきた。
お長はまず菓子のお盆を取ると、落とさぬようゆっくりと歩いて異人たちの前に立った。「どうぞ」と声をかけながら、一皿ずつ渡していく。
菓子が行き渡ったら、今度は茶のお盆を取る。こちらも溢さないよう、慎重に歩いてそっと全員の前に置く。
すると役人が何やら異人たちに話しかけ始める。どうやら何かを説明しているらしいが、異国の言葉は誰にもわからない。
しかし、うんうんと頷きながら興味深そうに話を聞いていた異人たちが急に怒声を上げ始めた。役人たちが慌てて何か釈明している。
「うん?」
どうしたんだろう、とお長が思っていると役人の一人がこちらに向かって急ぎ足でやってきた。
「娘、今すぐ笑顔をやめなさい」
「え?」
訳が分からず聞き返す。
「公使の方々がそろって娘が我々を馬鹿にしている、とご立腹なのだ」
その間も数人の役人が説明を続けるが、異人たちの怒りを納められないらしい。
お長もほとほと困り果てた。言葉もわからないので、謝りようもない。
するとその時、「ごめんください」と一人の男が入ってきた。見間違えようがない、佐助だった。
佐助は突然の珍客にしんと静まり返った店内を見渡すと、とことこと異人の一人に近づいた。
「わっといずまたー?」
お長にはそう聞こえたが意味は分からなかった。
すると異人が何やら佐助に向かって話し出す。ふんふんと何度も頷きながら聞いていた佐助が、また何かよくわからない言葉を話し始める。すると異人は納得がいった、という顔で笑顔を見せ、菓子に手を付けた。
とりあえず、何とかなったらしい。お長はほっと息をついた。
やがて歓談も終わり、異人たちと役人たちがそろって店を出る。
「此度の茶菓子の供出、誠に大儀であった。代金は藩より追って所定の役人から届けるものとする」
「ははっ」
平吉が頭を下げた。
「では、我々はこれで」
そう言うと役人たちは異人に何か話しかけると別の場所に移動を始めた。
「ありがとうございましたあ!」
平吉が声を張り上げて言う。
「「ありがとうございましたあ!」」
お末とお長も声を張った。
異人たちの姿が見えなくなると、場は拍手喝采の嵐となった。
「ようやった、ようやったなあ!」
「客のあたしでさえどきどきしたよお!」
「いよっ!桑名の立役者!」
客も通りすがりも大喝采である。
平吉は四方八方に頭を下げながら、満面の笑みだ。
「ようやく、ひと段落だねえ」
お末が肩のコリをほぐすように腕を回した。
お長も自然と笑みがこぼれる。自分も無事、お役目を果たせたのだ。
「お長さん」
もう聞きなれた声がした。
「佐助さん」
そこには佐助がいつものように天秤棒を肩に担いで立っていた。
「頑張ったね。偉かったね」
気が付いたら、ほろほろと涙を流していた。ああ、自分は気を張っていたんやな、と改めて気づく。
佐助が黙って天秤棒を担いでいるのとは反対の手で涙をぬぐってくれる。
それがどうしようもなく嬉しくて、余計に涙は止まらなかった。
ようやく涙が止まった頃、お長は佐助に問うた。
「佐助さん、異国の言葉をご存じなんですね」
すると佐助は照れ臭そうにポリポリと頬を掻いた。
「いや、実は江戸で店勤めをしていた時に、英語の通訳士の友人ができまして、仕事の合間の手慰みに教えてもらった程度です。そんなに難しい話はできませんよ」
「へえ……」
異国の言葉がわからねばならないとなると、相当の大店に勤めていたということだろうか。
「さっきは役人の喋り方がまずかったみたいですね。どうも異人たちはお長さんが笑顔で接客するものだから、役人が昼間から女が、その、そういうことをする店に連れてきたとばかり思ってしまったみたいですが、それが日本流のもてなし方だと説明してしまった。俺はただ、この店はそういう場所ではないし、日本では笑顔で接客することは普通のことなんだと説明しただけですから」
なるほど、それであんなに怒っていたのか。
「お長さんがそういう女じゃないと説明できてよかった」
にっこりとほほ笑む佐助に、お長の胸の中の何かがポンと毬のように弾んだ。
「ありがとうございます」
お長は顔が熱くて、まともに佐助の顔を見返すことはできなかったが、何とかそれだけ絞り出した。
佐助はそれをまぶしそうに眺めていた。
第四章
その日は朝からしとしとと雨が降り続いて、分厚い雲が日光を遮り昼間でも薄暗かった。
「ここのところ、雨が続くねえ」
「洗濯物が乾かなくって難儀だよ」
戸を開けて降りしきる雨を見やるお長に、お末が唇を尖らせて言った。
そうはいっても降る雨を止めることはできない。
ふと、佐助が頭をよぎった。
その日暮らしの振り売りは、雨の中でも商売をする。
(風邪でも引かなきゃいいんやけど)
お長はこの長雨に何だか不吉な予感を感じるのであった。
翌日は打って変わって見事な晴天であった。雲一つない秋空だ。
「雨の日の次の日はやっぱりジトっとするねえ」
お末はまだ文句を言っている。
「もう、お母ちゃんは文句言っとらんと、仕事仕事」
お末の背を押して井戸のほうへ歩かせる。そうしていつものように箒を取り出し、開店前の準備を始める。手始めは掃除からだ。
シャッシャと落ち葉を掃いていると、「アジー、アージー」の声が聞こえた。しかしいつもの佐助の声ではない。気になって伸びをしてみてみると、通りを歩いてくるのは淳平であった。
「淳平さん、どうもおはようございます」
「ああ、お長ちゃん。おはようさん」
一緒に来ているのかと思ったが、どうやら今日は淳平だけが売りにきているようだ。
「あの……佐助さんはどうしたんです? 別のところに売りにいっているとか?」
「いやね……」
淳平は声を潜めた。
「あいつ、昨日までの長雨で風邪拗らせちまって。ろくすっぽ声も出ないってんで、俺が一人で回ってんのさ」
「ええ?!」
やはり雨の中の行商で無理をしたのだ。
「あの、お見舞いに行かせてもらってもええですか? 何かできることがあったらお手伝いさせてください」
「ええのかい? いやあ、助かるねえ。うちは男所帯なもんだから、碌に看病もできんくて」
淳平は早くに妻を亡くしていることはお長も承知済みだ。女手が要るこんな時こそ、日頃のお礼もできるというものだ。幸いにも料理の腕には自信がある。何か精の付くものを作ってあげようと決心し、献立を考えながら掃除を再開したのだった。
その日の昼頃。
「ごめんください」
みつる屋の暖簾を若い娘がくぐった。
「いらっしゃ……あれー!? お時ちゃん?!」
お長が喜色満面になる。
「久しぶりー。元気にしとった?」
お時は三軒隣の甘酒屋で働く少女だ。お長と同い年で数年前までは頻繁に会っていた仲だ。
栗色の髪を流行りの形に結わえて、きれいな赤いべっこうの簪をつけている。
「どうしたん、突然やね」
「ううん、急にお暇をもらえたもんで、久しぶりに顔を見ようかと」
「ホントにー。よかったね」
言いながら座敷に案内する。
優雅に座るお時の姿に、周りの視線が集まる。可憐な少女二人が和気あいあいと話をする様は目の保養だ。
「仕事はどう? 忙しい?」
とお長。
「最近肌寒かったから、忙しかったよ」
とお時。
たわいもない話でこんなにも話し込んだのはいつぶりだろう。ともすると数年ぶりかもしれない。
「そういえば、最近アジ売りの人が代わったなあ」
「えっ」
佐助のことだろうか。
「そ、そうやね。若い人がよう売りに来るね」
「せやろ? お長ちゃんはもう会うた? えらいええ男やで」
いつも助けてもらっています、とは言えないまま、「そうなん?」とだけ返す。
「もう、笑顔が素敵やし、物腰も江戸から出てきたっていうわりに柔らかくて、とにかくええ男なん!」
きゃあきゃあとはしゃぐお時に内心穏やかではなかった。
ともすると、お時と佐助が一緒になるような心地さえしている。美男美女の二人はどう見ても自分より釣り合いが取れているように思われるのだ。
(……それの何があかんのやろ?)
二人が目出度く一緒になることに危機感を感じている自分がわからない。
「お長ちゃんどうしたん? 顔色悪いで?」
「え? ああ、何でもあらへんよ」
まだ決まったわけでもないことでうじうじ悩んでいても仕方ない。
「今日もあの人が来やんか、店の前で待っとったんやけど来おへんかったから、ちょっと心配しとるんよ」
ということは、お時は佐助が風邪で寝込んだことを知らないのだ。そのことにほっとしている自分がいる。
「ええよなあ……ああいう人に娶ってもらえたら、うち、その日暮らしの生活でもええわ」
とろり、ととろけそうなほど、お時の目はうるんでいた。きっとその先には佐助が見えているのだろう。
そう思うと、胸がずきずきと痛む。
自分より似合いの二人が一緒にいることがなぜこんなにも気に食わないのだ。
佐助が寝込んだことも言えないままだ。
「私、そろそろ行くわ。じゃあまた」
飲み終えた湯呑をことりと置いて、席を立った。
「もう行くん?」
「うん。他の友達のところにも顔出したいから」
「そっか」
「ほな、また」
去り際、こっそりとお時はお長に耳打ちした。
「今度あの人に会うたら、一緒になりませんかって言うんや」
内緒やで、と付け加えて、お時は店を出て行った。
心臓がまな板の上の魚のように飛び跳ねている。冷汗が止まらない。落ち着けようと深く息をする。
「お長ちゃん、注文―」
「はーい、ただいま!」
お客からの声で我に返ったお長は、佐助のことを頭から無理矢理追い出して仕事に戻った。
その日の夕方、料理の材料を抱えて、順平に教えられた長屋に「ごめんください」と入った。
中は至って質素なもので、土間に二人分の履物が脱ぎ捨てられ、壁には乱雑に仕事着が吊るされている。
「おお、お長ちゃん、来てくれたんか」
喜色満面で淳平が出迎えてくれる。
「えっ、お長さん?」
その声に佐助が飛びあがるように跳ね起きた。
「お邪魔します」
そのまま勝手場に近づくと、「お借りしますね」と一言断って作業に入る。米をといで鍋で煮る。お椀に買ってきた卵を一つ割り入れ、箸で解きほぐすとぐつぐつと煮え立つ鍋にさっとひと回ししてとじる。その間に自家製のアジの干物を焼き、家で作ってきた蛤の吸い物と付け合わせのひじきと大豆の煮物も皿に盛る。
「はい、お待ちどうさま」
膳に並べて二人の前に並べる。
「おお、こりゃまたご馳走やな。ほれ佐助、よばれよに」
嬉しそうにいそいそと箸を取る淳平。
「すみません、気を使ってもらって」
申し訳なさそうに佐助も膳の前に座って居住まいを正す。
「ええのええの。困ったときはお互い様ですし」
「卵なんて高価なものまで……。本当に申し訳ない」
「じゃあ、早う精を付けて元気になってもらわんとね。皆佐助さんの事、心配してますから」
「はは……。ありがたいことだ」
「じゃあそろそろ」
「「「いただきます」」」
三人そろって料理に箸をつけた。
その夜は和気あいあいと話し込んだ。主に仕事の話であったが、佐助の話は何でもキラキラと輝いているように思えた。
一番魚が売れた時の思い出、逆に売れなかったときの思い出、売り歩き中に転びそうになった話……どれもたわいもない話であったが、それが楽しかった。
ひとしきり話が終わったところで、順平が送ると言い出したので、その言葉に甘えてその場を辞することになった。草履をつっかけたところで、お長さん、と後ろから声がかかった。
「今日はありがとうございました。また明日から頑張れます」
その佐助の様子があまりに可愛らしかったので、お長はくすっと笑って言った。
「またお待ちしてますんで」
その言葉を最後に、順平と佐助の家を後にした。
夜道を提灯を持った淳平と歩く。晴れていたとはいえ、そろそろ夜は肌寒い時期だ。
「今日は無理言うてすまんかったのう」
「いえ、こちらが言い出したことですから」
それきり、言葉は続かない。
「なあ」
ふいに淳平が口を開いた。
「あんたは佐助に入れ込んじゃいけないよ」
「え?」
「あいつは顔が良いし、人も良いから、そりゃ女子からよく文をもらうもんさ」
背中を冷汗が伝う。昼間の胸の痛みがまた戻ってきたようだ。
「だけどな、あいつに嫁ぐってことは、明日も見えねえその日暮らしになるってことだ。お長ちゃんみてえないい女がそんな生活を強いられちゃあ、わしはお長ちゃんのご両親に顔向けできんよ」
それきり二人とも黙ってしまった。
お長も何か言わねばと思ったが、結局何も言えなかった。
家に帰りつくと、じゃあな、と淳平が踵を返した。
その背中を見送っていると、入り口から平吉が顔を出した。
「おう、お帰り」
「ただいま、お父ちゃん」
「はよ入り。外は寒いやろう」
それだけ言うと入り口を開けっぱなしにして引っ込んだ。
入って来いということだろう。お長は暗い店内に足を踏み入れた。
二階に上がり着替えて寝室に入ると、行燈で照らされた部屋にお末が待っていた。
敷かれた布団の上に平吉が腰かける。お長も自分の布団に座り込んだ。
「どうやった、順平さんちは」
「楽しかったよ」
嘘をついてもしょうがない。どんなことを話したか、どんなことをしたか、話して聞かせた。
「そうか……」
それきり黙ってしまった平吉は、何かを考えているようだった。
「お父ちゃん」
沈黙に耐えられず、お長が呼び掛ける。
「わかっとる。お前はアホやない、しっかりした子やってわかっとる。せやけどな、親として心配なんよ。振り売りなんかに嫁ぎたいなんて言い出して、その日暮らしでもいいなんて昼間の娘さんみたいなことを言い出さんかってな」
「お父ちゃん、うち、そんなんじゃ」
今日だっていつものお礼のつもりで行っただけなのだ。決してやましい気持ちで行ったわけではない。
「わかっとる……今日はもう寝よか」
行燈が消され、真っ暗になった部屋で布団にもぐりこんだが、なかなか寝付けなかった。
思い出すのは佐助との会話ばかりだ。
(こんなにも、うちは佐助さんのことを……)
顔が熱い。明日どんな顔をして会えばいいのだろう。
出会った時から感じていた、胸の高鳴り。佐助の顔が良いからだと信じてきたが、どうもそれだけではないらしい。
その夜は全く寝付けず、気が付いたら朝になっていた。
「ふわ……あ」
大きなあくびをしながら日課の掃き掃除を始めた。
今日は今にも雨が降りそうな分厚い曇り空だ。まだ午の刻だというのにもう薄暗い。
と思っている傍から、雨がぽつぽつと降りだした。
「あらま……」
また母の機嫌が悪くなる、とぼんやり思っていると、からころと下駄の音がした。
顔を上げると、お時がたっていた。
「あれ、お時ちゃん」
お長は近づこうとして、できなかった。
お時は今にも泣きそうなのをぐっとこらえて、拳を握りしめながらそこに立っていたからだ。
「お長ちゃん……あの人の事、知っとったんやね」
「え……?」
「昨日の晩、料理なんか持ってあの人の家に行って、何しとったん」
お長は動揺した。何故それをお時が知っているのか。
「何で知ってるのかって顔やね。今日の朝、お客さんが話しとるのを聞いたんよ。『みつる屋のお長ちゃんがアジ売りの佐助の家に入っていったのを見た』って」
まさか誰かに見られていたとは、思いもよらなかった。しかし思い返してみると、確かに人通りは少ないながらもあったし、近くに住む他の誰かに見られていてもおかしくなかった。
「昨日は佐助さん、風邪で寝込んどったそうやね。お長ちゃん、知っててお見舞いに行ったんやね?」
「……」
何も言葉が出てこなかった。追い詰められたネズミの気持ちだ。
「私が、あの人に、佐助さんに、どんな気持ちでいたか知ってたくせに、何も言わんと自分だけお見舞いなんか行って! 私だって知ってたらお見舞いにくらい行ってたわ! 自分だけええ思いして!」
がっと胸元を掴まれた。雨がだんだんひどくなる。もう周囲の好奇の視線は見えなくなった。世界にはお長とお時だけがいる。
「ねえ、嘘やて言うてよ……。私と佐助さんの事、応援してるって言うて……」
「……」
涙まじりのお時の懇願にも、やはり何も出てこなかった。嘘でも応援していると言ってやれば良いのに、と心の内はささやくが、体は動かなかった。
「この……裏切り者! 泥棒猫!」
お時が空いていた腕を振り上げた。叩かれる、そう感じてギュッと目をつぶった時。
パシッと軽い音がした。いつまでも衝撃が来ないことを不思議に思ってそろそろと目を開ける。
すると、男のものとわかる筋肉質な腕がお時の腕を掴んでいた。
「手を離してください」
少し視線を上げると、真剣な顔をした佐助の顔が見えた。二人の世界に乱入者が現れた。
「あ……私……」
お時も驚いた顔をしている。
「手を離してください。俺の大事な恩人なんです」
努めて平静に、お時に言う。
その毅然とした態度に、お時の手が胸元からゆっくりと離れていった。佐助もお時の腕を離す。
別に怒鳴られたわけでも手をあげられたわけでもないのに、お時は何かを恐れるようにじりじりと後ろに下がり、わっと泣きながらその場を後にした。
「あ、あの」
ありがとうございました、と言おうとして、佐助に遮られた。
「すみません、こんなことに巻き込んで」
何故か謝られてしまった。お長が首を傾げる。
とその時、ガラガラと入り口が空き、お末が顔を出した。
「あんたたち、何をしてるのかと思えば……ずぶぬれやないの」
はよ入り、と手招きするお末に導かれて二人でみつる屋の暖簾をくぐった。
「はーん、なるほどねえ。そんなことやっとったんや」
事の顛末を聞いた平吉がポンと膝を打った。
「すみませんでした。まさか俺なんかに惚れた女子がお長さんに危害を与えるなんて……」
「いや、こっちこそ娘の一大事を救ってもらってありがとよ」
でもな、と平吉はつづけた。
「今後、うちの娘に近づくのは、遠慮してくれねえか」
「お父ちゃん!」
思わず叫んでいた。もう佐助に会えないなんて、そんなこと認められるはずがなかった。
「またいつお前に嫉妬した女に絡まれるかわからねえ。そんな危険にむざむざお前をさらすわけにはいかねえし、そんなことがしょっちゅうあるとなると、うちの商売もあがったりだ。わかってくれるな、お長」
そう言われて、ぐっと言葉に詰まった。自分一人の被害ならまだしも、家にまで累を及ぼすわけにはいかなかった。
「……わかりました」
佐助も承知したようだ。
「すまねえな、二人とも。わかってくれ……」
平吉はそれだけ言うと奥へ戻ってしまった。
後にはお長と佐助だけが残された。
「この度は大変ご迷惑をおかけして、すみませんでした」
「いえ、あれは……」
言い淀んだが、何とか絞り出す。
「あれはうちが悪いんです。うちが佐助さんの事、きちんとお時ちゃんに話してさえいれば、あんなことには……」
二人で仲良くお見舞いに行けていれば、こんなことにはならなかった。後悔だけが頭をよぎっていく。
「いや、今回のことは、お長さんは悪くないですよ」
そう言って佐助は立ち上がると、「お邪魔しました」と天秤棒を担ぎ上げた。
「あ……」
何か言おうとして、結局言葉は何も出てこなかった。ただ店を出て行く佐助の後姿を見送ることしかできなかった。
第五章
佐助の顔を見なくなって一月が経とうとしていた。
空になった湯飲みと皿を回収しながら思うのは、最後に見た佐助の後ろ姿だ。
いつもより少し猫背になったあの佐助が忘れられない。
(佐助さん、どうしとるんやろ)
また風邪をひいていないだろうか、怪我でもしていないだろうか。
佐助の姿が頭をよぎるたびに、胸に何かが詰まるような感覚がする。
(あかんあかん、仕事仕事!)
両頬をパンパンと叩いて、お盆を持ち上げた。
「お母ちゃんこれ、洗いもん」
「え? ああ、洗いもんな。そこのざるに置いといて」
あの一件以来、お長が話しかけると、いつもこれだ。平吉もお末も、どこかぎこちない。
お時も街ですれ違っても、声もかけてくれなくなった。
色々なことが一気に変わりすぎて、お長にはついていけなかった。
「はあ……これからどうなるんやろ」
誰にともなくぽつりとつぶやいたとき、店の外から何やら喧騒が聞こえてきた。
「……?」
不思議に思って店の外へ出ると、二人の侍が言い争っているようであった。
めったにない光景に、興味深そうに観客が集まっている。
「やいやい、ぶつかってきたのはそっちの方だろ」
一人の侍が言う。旅姿から察するにおそらく伊勢詣に来た参拝客なのだろう。しかし顔が真っ赤だ。昼間からしこたま飲んでいるらしい。
対する侍は表情を崩さず、冷静だ。
「いいや、ぶつかってきたのはそちらだ」
至極落ち着いた声で、淡々と言った。
「なんだとお?」
やにわに男が刀に手をかけた。
「てめえ、誰に物言っとるかわかっとんのかい!」
かちりと鯉口を切る音がした。ひいっと誰かの悲鳴が聞こえた。観客たちが抜刀の気配にそろって後ずさりする。
あわや大惨事!酔っ払いがさやに手をかけた、その時。
「待って!」
そのただなかにお長が割って入った。
にわかに場がざわつく。
お長は落ち着いている侍に背を向けて、庇うように立つと酔っ払った侍に向き直った。
「こんな昼間からお刀なんて抜いたら、お家の恥ですよ」
「な、何だと」
酔った侍が困惑して鼻白んだ。
「飲み足りないんやったら、この辺の美味しい居酒屋さん紹介しますよ。さあさ、行きましょ、な?」
男の腕を取って強引に近くの居酒屋に向かう。
すれ違いざま、もう一人の侍と目が合った。
いきなり女が割り込んだためか、こちらも驚いた顔をしている。
お長はにこりと会釈だけして、その場を去った。
ざわついていた周りも次第におさまり、各々の生活に戻っていく。
先ほど自分と酔っ払いの間に割り込んできた娘は、「お松ちゃーん、お客さんやでー」と居酒屋の店内に向かって叫んでいる。
「あいすまぬ」
侍は通行人の一人を呼び止め、問うた。
「先ほどの娘は、どこの誰だ」
「へ、へえ。みつる屋の看板娘さんのお長ちゃんです。ほら、そこの店の」
商人らしき男が指をさす。自分の真横にその店はあった。
「そうか、かたじけない」
そう言うと、商人はどこへともなく歩き去った。
「……」
侍はしばらく考え込んだ後、お長が行った居酒屋のほうを見つめる。
丁度お長は酔っ払いを引き渡し、こちらに戻ってくるところだった。
ほっと安堵を浮かべた顔で歩いてくる。
よく見ると、そこらの女とは比べ物にならないほど、瑞々しく美しい娘であった。
しばしその姿に見惚れる。すると、またもやお長と目が合った。
お長は少し驚いた顔をして立ち止まった。少しの間見つめあっていたが、やがてお長が口を開いた。
「あの、お侍様。先ほどは……」
「ああ、いや、咎めるつもりはない」
自分が怒っているわけではないと伝えると、すう、とお長の肩から力が抜けた。
「一言、礼を言っておこうと思って、待っていた」
そう言うと、お長は「いえ、そんな」とにこりと笑った。
「どちら様も怪我がなくてよかった」
微笑みながらそう言うお長は、まるで天女のように美しく思われた。
その時、みつる屋の店内から「お長ちゃーん」と呼ぶ声がした。
「申し訳ございません、うち、仕事がありますもんで……」
「いや、こちらこそ、引き留めてしまってかたじけない」
深々と一礼して、お長がその場を辞した。
「はーい」と元気良く返事をしながら戻っていく後姿を、侍はしばし見送っていた。
「もう、この子ったら、急にお侍様の喧嘩に突っ込んでくんやから」
夕餉をつつきながらお末が言った。
「それは謝ったやないの。勝手に体が動いたんやから、しゃあないやん」
いつまでも文句を言うお末にはあ、とお長がため息をつく。
「悪かったらあんた、斬られとったかもしれへんねんで? こればっかりはきつく言わせてもらうでな」
ぷりぷりと未だお末は怒りをあらわにしている。
「お転婆もええけど、自分の命のことも考えな」
平吉にもくぎを刺された。
「わかっとるって。もうせえへんて言うとるやないの」
「でもな、あんたな」
「しつけえぞ、お末。わかってんならいいんだ」
「でも、だって」と繰り返すお末を平吉が諌める。
(自分はいい親に恵まれた)
そう思ってお長は味噌汁に口をつけた。
同時刻。桑名城下の侍屋敷の一軒に、男が入っていった。
昼間、みつる屋の前で喧嘩をした侍だ。崩れることのない静かな面持ちのまま、玄関に入る。
「お帰りなさいませ、琥太郎」
侍―――琥太郎は三つ指をついて迎える母親に「只今戻りました」と一言かけて、奥へ入っていった。
「今日は下級武士に扮して、城下町の視察に行かれたそうね」
「ええ、この目で市井を見ておくことはとても役に立ちますから」
「だからと言って、供の一人もつけないなんて、危ないじゃあありませんか。あなたはお父上を継ぎ、松平様の近習になる身なのですよ」
咎めるような口調で言われたが、琥太郎は涼しい顔だ。
「そうでもありませんでしたよ。面白い女子にも会えましたし」
夕餉の膳の前に座り込むと、箸を取って「いただきます」と手を合わせる。
「はあ、面白い女子、ねえ」
母が首をかしげるので、昼間の一部始終を聞かせる。
「まあ、そんな危ないことを」
「私も面喰いましたが、存外、悪い気はしなかったんですよ」
不思議なことに、お長に体面を汚されたとは感じなかった。むしろ礼を言いたいとさえ思ったのだ。
(少し、探ってみるか)
琥太郎は白米に箸を伸ばした。
昼を過ぎ、客の数も落ち着いた頃。
いつものように呼び込みをかけに外へ出ようとしたところ、一人の男が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
普段通りに軽く会釈をして迎えると、そこには昨日の侍が立っていた。
「まあ、お侍様。いらっしゃいませ」
「邪魔をする」
そう言って侍は茶と菓子を注文し、代金を渡すと、奥の座敷に腰かけた。
平吉から品を受け取り、持っていく。侍は姿勢正しく座っていた。
「お待ちどおさま。お茶と大福になります」
「うむ」
侍は丁寧な所作でそれを受け取ると、お長に向き直った。
「お主、名は何という」
「え?」
突然の質問に戸惑ったが、何とか答える。
「長子と申します」
「長子……お長か」
「はい」
侍は何か考えるようなしぐさをして、言った。
「某は桐野琥太郎と申す。先日は名乗りもしないで、失礼した」
深々と頭を下げる侍―――琥太郎に、お長が慌てて言う。
「やだ、そんな、顔を上げてください」
「お主の勇気ある行動で、あの日、一滴の血も流れず事が済んだ。感謝している」
姿格好から下級武士であろうということはわかるが、いかに下級といえども武士は武士。一介の町民に頭を下げることなど、到底許されるはずがなかった。
「うちは何もしとりません……そんな、お願いですから、顔を上げてください……」
そこでやっと琥太郎が顔を上げた。
佐助とは違うが、こちらも端正な顔の男だった。武士らしく精悍で、しかし水面のように静かで落ち着いた雰囲気の顔立ちだ。
そんな男に真正面から見据えられて、お長の心臓が跳ねる。
(やだ……何よ)
お長は戸惑った。佐助以外にこんな心持にさせられたのは初めてだ。
と、突然琥太郎がふふ、と笑った。
「そんなに固くなるな。某は下級の武士。お主もよく接するだろう?」
「それは、まあ……」
みつる屋には町人や参拝客も多く訪れるが、武士階級の人間の来店も多い。
お長とて慣れていないわけではない。が、琥太郎はどうも勝手がわからないのだ。
「某……いや、私にもいつも通り接してくれれば良い」
「え、ええ……」
曖昧に頷いたが、やはりぎこちなくなってしまう。
琥太郎は優雅な所作で菓子に手を伸ばす。
洗練された動きは、どう見てもそこらの地侍とはわけが違った。
「うむ。美味だ」
琥太郎は大福に舌鼓を打つ。
「ありがとうございます」
店の大福が褒められ、少し肩の力が抜けた。
お長のそんな顔を見て、琥太郎も満足そうに笑った。
「あなたは、そういう顔がよく似合う」
「え?」
今日は驚いてばかりだ。ここまで直球に笑顔を褒められたことは初めてだった。
「やだ、お侍様ったら、お上手なんやで」
赤くなる顔をふいと背ける。
「上手を言ったつもりはなかったのだが」
そういいつつ、琥太郎も少し困惑していた。
(なぜ自分はこんなことを言ってしまったのだろう)
確かにお長は器量の良い娘だ。だが、手放しで他人を褒めてしまったのは、初めての経験だ。
笑顔がよく似合っている、だなどと。
まるで、自分がお長を口説いてでもいるようではないか。
しかし、もっとお長を知りたい、笑顔を見てみたいと思う自分が確かにここにいるのだ。
さらに話しかけようとしたとき、「おーい、お長さーん」という声が聞こえた。
新しい客が入ってきたのだ。お長が「はーい」と返事をする。
「申し訳ございません、うち、行かないと」
「あ、ああ」
「すみません」と一言言い置いて、入ってきた客の方に駆けて行ってしまった。
(……!?)
一瞬、引き留めようと手を伸ばしかけてしまった。
許されるはずがない。自分は一介の客で、しかも下級武士の格好をしている。他の客と同列に扱われることは承知の上だったはずだ。
だというのに、彼女が自分のもとから離れると知った時、とっさに手が伸びかけたのだ。
そして、彼女との会話を途絶えさせた来客に腹を立てている自分がいることも、不思議な事であった。
しかし平静を装いながら菓子を口に運ぶ。自分にできるのは彼女が戻ってくるのを待つことだけだ。
琥太郎はひたすらその時が来るのを待った。
ようやく客がはけて、そろそろ閉店の準備を、と思い店に入ると、琥太郎はまだ座敷に座っていた。
「あの、お侍様」
お長が話しかけると、琥太郎が静かにこちらを向いた。
「もうじき店じまいの時間ですので……」
「む、そうか」
「馳走になった」と湯飲みを置く。
琥太郎は外を見た。まだそこそこ明るい。
「もしよければ、少しこのあたりを案内してもらえないだろうか」
「え、案内、ですか?」
「ええ。実はここから少し離れた所に住んでいるものだから、この近辺には詳しくなくて」
真っ赤な大嘘である。この辺りはすでに昨日今日とまわっているので、大体のことは知っている。それでも、お長との時間が欲しかった。彼女の笑顔を見る時間が。
「ええと……」
お長は両親を振り返る。
「行ってきな。まだ時間はあるやろう」
平吉が言った。
「そうそう。道案内も仕事のうちやで」
お末も笑顔で頷いた。
「それじゃあ、拙いかもしれませんけれど……」
「では、行こうか」
お長と琥太郎はそろって店を出た。
二人そろって夕方の街道を歩いていく。
蛤屋では焼き蛤の美味しそうな醤油のにおいが漂ってくる。
琥太郎が一皿蛤を買うと、お長にも分けてよこした。
「買い食い、というものを始めてやったが、なかなか楽しいものだな」
琥太郎が楽しそうに言う。
「お侍様はなさったことないのですか?」
「武士の買い食いは卑しいこととされている。だが、中には手拭いで顔を隠して屋台を利用する者もいるとは聞いたことがあるな」
それと、と琥太郎が付け加える。
「私のことは、琥太郎と呼んでくれ。お侍様、と呼ばれるのはどうにも合わない」
「ええ、と……琥太郎様?」
鈴が転がるような、透き通った声が琥太郎を呼ぶ。
たったそれだけで、琥太郎の胸がとくんと音を立てた。
「ああ、そうだ」
満足だ。琥太郎はにっこりと笑った。
蛤屋の後甘酒屋でも買い食いし、二人で顔を見合わせて笑った。
それから、鋳物屋を覗き、和菓子屋、呉服屋を冷やかす。
もうじき七里の渡しのそばの花街だ。桑名の遊郭は他藩でも有名だと聞く。
「そこにお魚屋さんがあって……」
お長が指をさしたまさにその時、一人のほっかむりをかぶった男が店先の魚を一匹わしづかむと、一目散に走りだした。
「ど、泥棒!泥棒―!」
店の主人らしき男が必死に追いかける。
琥太郎も走り出した。お長もそれに続く。
人垣を突っ切って盗人が走る。だが、いくらも行かないうちにドンと誰かにぶつかった。
男が顔を上げると、アジの乗った天秤棒を担いだ男が仁王立ちしていた。
「それ置いて、とっとと失せな。今なら岡っ引きからも逃げられるだろうよ」
お長が聞き間違いようがない。佐助の声だった。
「ひっ……ひぃっ……」
佐助の迫力に脱力して、男が膝をついた。
「その魚だってただじゃねえんだよ。魚屋が身銭切って仕入れたもんだ。それを労せず手に入れようたあ、ずいぶんふてえ野郎だ」
佐助が鋭くにらみつけると、男は魚を佐助に押し付けて、いずこかへ去っていった。
途端、わあっと場が盛り上がる。まるで祭りのようだ。
「ええぞお、兄ちゃん」
「よっ、伊達男!」
ぴゅうぴゅうと口笛が鳴り、拍手喝采の中を悠々と歩いて、佐助は魚屋に魚を返した。
「すまんなあ、兄ちゃん。高い魚やったで、助かったわ」
「いえ、このくらい、大したことじゃあありませんよ」
「これ持ってって! 大したもんやなくて申し訳ないけど」
魚屋の女将らしき人が、奥からざるにイワシを大量に盛って出てきた。
「そんな、申し訳ないです」
佐助が断ろうとするが、女将も引かない。
困って周りを見渡すと、お長と視線が合った。これ幸いと、押し付けられたイワシを持って近づく。
「お長さん、よかったらこれ、もらってくれませんか?」
「え?」
お長は面喰った。自分はただ見ていただけなのに、返礼の品を受け取る意味が分からない。
「ほら、うちは二人だし、こんなに食いきれないんですよ。イワシだから余ったら一夜干しにでもすれば次の日も食べられますし」
ね、とざるを押し付けられる。佐助の笑顔にも押されて思わず受け取ってしまった。
「じゃあ、俺はこれで」
片手をあげてすれ違うと、佐助はまた売り歩きに戻ってしまった。
「知り合いか?」
琥太郎が問うてくる。何だか声が面白くなさそうに聞こえる。
「ええ、まあ」
お長は曖昧に返す。
久しぶりに佐助と声を交わしたのと、渡されたイワシと、なんだかよくわからない嬉しさとで頭がごちゃごちゃだ。
「……今日はもう暗い。送っていこう」
琥太郎が踵を返した。お長も慌ててその後を追う。
(ああ、こんなにも)
今日半日を共にして、琥太郎は気づいた。
(私は、これほどまでに、お長殿に惚れている)
少し後ろをとことことついてくるお長に視線だけ送りながら、琥太郎は思う。
女に馴染みの男がいる、と知っただけで、こんなにも妬いたことはない。
それに、知り合いか、と聞いた時のお長の恥じらうような笑みが、あまりにも羨ましかった。
(必ず、手に入れてみせる)
前を向き、琥太郎はそう固く決心した。
第六章
朝がやってきた。
お長は布団を片付け、朝餉の支度をする。
「ふあ……おはようさん」
少し遅れて平吉が降りてきた。
「おはよう、お父ちゃん。もうちょっとで朝ごはんやで」
顔を洗いに井戸へと歩いていく平吉を見送りながら、味噌汁に刻んだネギを入れる。
「お、イワシの一夜干しか。ええなあ」
運ばれてきた膳を見ながら、平吉が言った。
「ようけあるから、たくさん食べてね」
早速イワシにかじりつこうとした平吉が、ふいに顔を上げた。
「そういやお前よう、何やら色男なお武家様と仲良うなったらしいやないか」
「え?」
そういわれてこの頃仲良くなったお武家様と言えば、琥太郎のことかと思い当たる。
「仲がええて……街案内してちょっと喋っただけやないの」
事実、琥太郎との間に色事は何もない。店と客。その一線を越えた覚えはなかった。
「昨日隣の蛤屋が二人で仲良う蛤を分け合ったり甘酒屋で楽しそうに喋っとったって言うとったらしいんよ」
「お父ちゃん、最近頭おかしなったん? お武家様に雑に接する女町民がどこにおるねん」
平吉の言葉に突っ込みながら、自分も膳の前に座り、箸をとる。
「佐助さんのことと言い、何でもかんでも色事や言うのは、お父ちゃんの悪い癖やで」
「俺やないで。お末が言うとった」
「お父ちゃんでもお母ちゃんでも変わらへんわ」
「まったくもう」とお長は唇を尖らせる。
「すまんすまん。将来お前が一緒になる相手のことを思うお年頃なんやと思うて耐えてくれ」
「毎回そんなんばっかりじゃあ、耐えられません」
ツンと横を向いてすねると、「すまんて」と手を合わせてくる。
「でもあのお武家さん、いっつもすました顔しとって、ちょっと苦手やわ」
お長がそう言うと、お末が口をはさんできた。
「でもお武家の人らしくて、格好ええやないの。お母ちゃんは好きやで、ああいう男」
「それはお母ちゃんの好みやんか。一緒にせんといて」
そう言いつつ、平吉と琥太郎は全然似ていないような、と思うお長であった。
数日後の昼過ぎ、琥太郎はみつる屋にやってきた。
落ち着いた表情はいつも通りだが、お長には今日は少し浮足立っているように思えた。
長年培ってきた観察眼は伊達ではない。
「何かええことでもありました?」
お長が問うた。
「いや、そういうわけではないが」
いつも冷静沈着な琥太郎が、少し照れている。そんなところが何だか可愛らしい。
「今日の夜、石取祭でしょう」
それを聞いて、ああ、と今更ながら思い出す。
石取祭とは桑名宗社の夏の祭りである。
謂れは石占説、社地修理説、流鏑馬の馬場修理説といろいろあるが、要するに町屋川で拾われる石を桑名宗社に奉納する行事だ。たくさんの祭車が町中を練り歩く様は豪華絢爛で、見る人を楽しませる。
そういえば昨日今日と太鼓の音が響いていたので、今日が本番、本楽の日だ。
そろそろ祭車が練り歩きを始める頃だろう。
「その、良ければ見に行けないだろうか。一緒に」
まっすぐにお長を見て、琥太郎が提案した。
「えっ……」
お長は動揺した。生まれてこの方、両親以外と祭りに行ったことなんてないのだ。ましてや、少しとはいえ苦手意識のある琥太郎と一緒など。
「お気持ちはありがたいですけど……うち、仕事がありますんで」
まともに琥太郎の顔を見れず、少し顔を背けて言った。
ちらりと両親を見やる。お長を援護してくれることを期待して。
「せっかくだし、行っておいでよ。店のことはええからさ」
お末は送り出す気満々だ。
頼みの綱の平吉を見る。
「まあ、こんな日は屋台に人が流れちまうだろうし、どうせ暇になるだろうから行ってこい」
駄目だった。平吉も祭りに行くことに賛成の立場のようだ。
「……私と共に行くのは、やはり駄目だろうか」
琥太郎は少し首を傾げ、切なそうにうっすらと笑みを浮かべている。
う、と言葉に詰まる。そんな顔をされたら、無碍にしたほうが悪者ではないか。
「……わかりました。うちなんかでよければ、行きます」
とうとうお長は承諾した。
途端、琥太郎が今まで見たこともないほど笑顔になった。うっすらとした笑みだったが、先ほどとは打って変わって、喜色が浮かんでいる。
「では、出発するとしよう。もう始まってしまう」
無邪気に琥太郎がお長の手を取る。
「あっ……」
反射的に手を引っ込めそうになったが、力強い琥太郎はそれを逃がさなかった。
早く早く、と子供のように手を引く琥太郎が、なんだか愛らしかった。
祭車が通る街道へ進む。
到着すると同時に、先頭を行く花車が目の前を横切っていった。
観客たちが沸き上がっている。
華やかな祭車が次から次へと通り過ぎていく。
「きれいやな……」
誰にともなくつぶやくと、
「そうだな」
と返事があった。夕焼けに照らされる琥太郎の横顔がどこか浮かれていて、お長には子供のように思われた。
(何や、可愛らしいところもあるんやな)
流れていく祭車たちを見ているのは、存外楽しかった。琥太郎の意外な一面も見ることができた。
(こういうご縁の日もあるんやな)
そう思って、視線を前へ戻した時だった。
グイっと腕をつかまれて群衆の中に連れ込まれた。
(え?)
突然のことに、とっさに声が出ない。
「……嫌っ、離して!」
やっと声が出た時には、群衆から連れ出された時だった。
見知らぬ男がお長の腕をつかんでいる。男は振り返ることもなく、ずんずんと突き進んでいく。
お長の必死の抵抗もむなしく、薄暗い路地に連れ込まれてしまった。
乱暴に奥に放り込まれて、体を強かに垣根にぶつけた。
「痛っ……」
体中が痛い。特に腕を強くぶつけたらしい。ジンジンとしびれる感覚がする。
お長が顔を上げると、やはり見慣れない男たちがお長を取り囲んでいた。皆一様に下卑た笑いを浮かべている。
「な、何なん、あんたたち」
後ずさりしながら、問うた。
「俺たちが誰かなんて、どうでもいいだろ」
「おうおう、なかなかの上玉を捕まえてきたじゃねえか」
「だろう?ここらじゃちょっと名の通った女だぜ」
ひひっと気味の悪い笑いが誰かの口から洩れた。
(あかん、逃げやな)
そう思って周りを見渡すが三方を壁に囲まれていて、唯一の道は男たちにふさがれている。
どう逃げようか思案していると、ゆっくりと男の一人が汚らしい布切れを持って近づいてきた。
「嫌―!誰かっ……むぐ」
助けを呼ぼうと叫んだとき、布を口に当てられ、そのまま噛まされて縛られてしまった。
「んん、んー!」
なおも必死で叫ぶが、全く声が出ない。
「安心しな。みんな祭りに夢中だ。誰も助けなんて来ねえよ」
一人がそう言った。絶望で涙がこぼれた。
何本もの腕が、お長に向かって伸びてくる。
逃げられないよう足を押さえつけられ、着物の袷を寛げられる寸前。
ドガッと鈍い音がして、男の一人が倒れこんだ。
「な、何だてめえ……ぐあっ」
続けざまにもう一人、一撃で沈んだ。
涙でにじんだ視界には、ぼんやりとだが、確かに琥太郎の姿が浮かび上がっていた。急いで走ったのか、若干息が乱れている。
「その娘に指一本でも触れてみろ。この松平家近習見習い桐野琥太郎、容赦はせぬぞ」
「松平の近習だと? なめやがって!」
琥太郎は刀を霞に構える。男たちも各々刀を抜くと、臨戦態勢に入った。
両者見合う。次の瞬間琥太郎が動いた。
刀を、お長の襟をつかんでいた男に向けて突く。すんでのところで防がれたが、はじかれた刀をそのままの角度から振り下ろす。男の首にあたる寸前で刃を返し、男を昏倒させるに留める。
途端、それまで悠然と刀を構えていた男たちが急にへっぴり腰になる。ゆらりとお長を庇うように立ちふさがる琥太郎の怒気に完全に戦意を失っていた。
「引け、引けえ!」
誰ともなく叫び、残った男たちは去っていった。
後にはお長と琥太郎が残された。
「お長!」
未だ腰を抜かして立てずに震えているお長に、琥太郎は自分の羽織をそっと着せる。
「少し、休まねば」
琥太郎はお長を軽々と抱き上げると、急ぎ足でその場を去った。
桑名宗社に着いたのはすでに夕刻だった。
方々を回っていた祭車が集結し、いよいよ本番の渡祭が始まる。
華やかな表にいる人の目につかぬよう、大きく回り道をして神社の裏に出る。人がいないことを確認してお長を下ろすと、琥太郎は少し離れたところで明後日の方向を向いた。
お長は琥太郎と反対方向を向き、急いで着物を整える。
「もう大丈夫です」
お長が声をかけると、恐る恐る琥太郎が振り向いた。
「立てそうか」と琥太郎が問うので、「ええ」と何とか答えた。
おぼつかないながらも、お長はゆっくりと立ち上がる。歩ける程度には回復したようだ。
「あの」
支えてくれる琥太郎を見上げて、お長は言う。
「さっき、松平家近習見習いって……」
近習と言えば、城主のそば仕えをする重鎮である。下級武士の格好をしたこの男が、まさかそんな。
「ああ、覚えていらっしゃったか」
琥太郎はため息をついて言った。
「ええ、私は身分を偽ってみつる屋に出入りしていた。『市井視察のため』などと言い訳までして」
困ったような顔をして、琥太郎はお長を見た。
「本当の身分はさっき言ったとおり。まだ父の跡を継ぐ前なので見習い扱いだが」
「そんな、どうしてそんなお方が、みつる屋なんかに」
お長は混乱していた。やんごとなき身分の男がどうして下町の茶店などに足しげく通っているのか。
琥太郎は少しの間逡巡した後、ぽつりぽつりと話し始めた。
「最初は、面白い女だと思った。喧嘩に割り込まれたことも、あなた自身も、悪くないと思う自分が不思議でならなかった。それを確かめようと、街案内を頼んだ」
そこで、一呼吸置く。
「街案内は、楽しかった。初めての買い食いも、今まで気にも留めなかった小さなことを知ることも、新しい店を案内するあなたの笑顔も。……それで、あなたをもっと知りたいと思った。独り占めしてしまいたいと、強く願った。あなたとの時間が欲しくて、今まで気にもしなかった祭りにも誘って」
お長はだんだん自分の顔が赤くなっていくことを自覚している。こんなにもまっすぐに、一点の曇りもなく好意を伝えられたのは初めてだった。
「でも、その矢先にあんなことが起こって、あなたを守り切れなかった自分が腹立たしくて仕方がなかった」
だんだんと速くなっていく琥太郎の口調に比例するように、心拍数も跳ね上がっていく。この先にどんな言葉が待っているのか。なんとなくわかってしまうほどには、自分は子供ではなかった。
「お長……いや、お長殿」
琥太郎に、抱きしめられた。
すがるように、離したくないと言外に伝えんとするように、力強く。
「私は、あなたに、惚れてしまった」
お長はかあっと体中に火が付いたように、全身が熱くなった。
お長の心臓が陸に揚げられた魚のようにバタバタと飛び跳ねているようだ。
「こんな短い期間で何を、と思うのかもしれないが、確かに私はあなたを想っている」
琥太郎のいつも落ち着いた声が、少し震えている。
「一緒になってくれないか」
遠くの松明の明かりが、琥太郎の顔を少し照らしている。
真剣な眼差しだった。黒くて力強い瞳がお長をしかと見据えている。
「あの男にだけは渡したくない。明日をも知れぬ身などに、あなたをやってしまいたくない」
あの男とは誰だろう。聞こうとしても、声が出てこなかった。
と、琥太郎が名残惜しそうにお長を離した。
「あのような忌まわしいことがあった後でこのようなことを言われて、困っているのだろう。……返事は急がない。また、いずれ」
琥太郎はお長の手を引いて、境内の方に回る。華やかに太鼓の音が響く。
お長も手を引かれるままに続いた。
見送る視線に気づかないまま。
第七章
祭りから数日後。
店の開店準備をしながら、お長は考えていた。
表情が変わらなくて怖いと思っていた琥太郎が、あんなにも情熱的に思いの丈を打ち明けてくるとは思ってもいなかった。
そんな琥太郎を可愛らしいと思う自分がいることに驚いている。
果たしてこれは、自分は琥太郎に惚れている、ということなのだろうか?
(……あかん)
力強く抱きしめられる感覚がよみがえりそうになって、頭を振る。
そうやって琥太郎を思い出すたび頭の中をちらつくのは、佐助の顔だった。
佐助に先日のことを洗いざらい話してしまいたい。彼ならば受け止めてくれると確信している。
しかし、それはできない、と思う自分もいる。彼にだけはあの夜のことを知られてはいけない気がしているのだ。
(それは、うちが佐助さんのことを―――)
強く思っているから、だろうか?
淳平は佐助には惚れるなと言っていた。しかし、彼と一緒になれたら、と思う自分もいることは事実である。
長五郎のことを相談した時から、佐助にはたくさんのことを助けてもらった。一緒に蛤を食べたり、風邪の見舞いに行ったり、異国の言葉がわかるという話もした。
そんな佐助に心惹かれたのは、至極当然だったのかもしれない。しかし、佐助当人の心はわからない。
(佐助さんはうちのこと、どう思とるんやろう)
思い返してみると、佐助が自分をどう思っているかを聞いたことは一度もなかった。ただ、いつも笑っていたから、悪くは思われていないとだけは漠然と思っていた。
(それとも)
笑っていたのは、単なる愛想笑いだったのかもしれない。佐助から見れば、お長も客の一人と変わらない可能性は高い。
佐助に会いたい。会って話がしたい。日に日にそんな思いが募っていく。
しかし、両親に佐助と接触することを禁じられているのだ。
今日も街道からきゃっきゃと楽しげな声が聞こえる。ちらりと外を覗くと、佐助が数人の女と立ち話しているようであった。
(羨ましい……)
独り占めなどと贅沢は言わないから、あの輪の中で一緒に喋らせて欲しい。
満面の笑みで世間話に興じる佐助に、何だか無性に腹が立った。
(何してるんや。ほら、仕事仕事!)
自分に言い聞かせてその場を離れた。
「おーい、お長ちゃん。お茶のおかわり一つ」
「はーい」
客には笑顔で返したが、お長は気分が冴えなかった。
足元がおぼつかない。くらりと風景が揺れた気がした。
「あれ?」
気が付けば、その場に膝をついていた。うまく立てない。
「まあ、お長、どうしたん」
異変に気が付いたのはお末であった。駆け寄ってきてお盆を取り上げる。
「ああ、お母ちゃん、大丈夫。ちょっとくらっとしただけやで」
「暑さでのぼせたんかな。ちょっと風にあたっておいで」
店のことはあたしがやっておくから、とお長を外へ押し出した。
今年は特に残暑が厳しい。お末の言う通り、のぼせていたのかもしれない。
ここは甘えることにして、少し街道を歩く。
足は自然と七里の渡しの方に向かっていた。
花街を抜けて水辺に来ると、風が冷たくて心地良い。
行きかう船を見ながら、しばし鳥居のもとに立っていると「お長さん」と呼びかけられた。
振り返ると、長五郎が立っていた。
「長五郎さん」
昔馴染みの顔にほっとする。長らくこんなに自然に笑えていなかった気がする。
「何しとるん、こんなところで。仕事は?」
「一段落して外でも歩こうかと思って出てきたら、丁度姿が見えたものだから。お長さんこそどうしたん? 仕事?」
「ううん、ちょっと風にあたろうと思って」
長五郎がお長の横に並び立つ。一緒に船着き場で遊んだことが昨日のことのようだ。
泣き虫でいつも自分の後ろをついてきていた人物と今隣に立つ偉丈夫が、同一人物とは思えない。
「どうしました」
「ううん、ちょっと昔のことを思い出しとった」
「そうですか」
一拍おいて、長五郎が切り出した。
「何か悩み事ですか」
「え?」
「悩ましそうな顔をしとったから」
「そう?」とお長は両頬を手で触った。
「僕で良ければ、話、聞くで」
そう言って笑う長五郎は、昔と変わらないように思われた。昔と口調が同じになったからかもしれない。
そんな安心感からだろうか、お長は口を開いた。
「あのな、うち、お武家様に一緒にならへんかって言われたんや」
「へえ、すごいやないか」
長五郎が感嘆の声を上げる。
「確かに悪いお人やないし、可愛らしいところもあるんやけど、うち、どうしても佐助さんを忘れられやんの」
言いにくそうお長は言った。
「佐助さん?」
「最近……言うてももうそこそこ前の話やけど、江戸からこっちへ越してきたアジの振り売りの人なんよ。前に長五郎さんに大人になれて言いに来たのも、あの人がきっかけやった」
「そうやったんや」
「それでな、その後も色々助けてもろて、いつも笑顔で、話せば元気を分けてくれるような人や」
「そりゃあ、ええ人や」
うんうんと長五郎は頷く。
「うち、その人がどうしても忘れられやんの。お武家様のことを考えとるときでさえ、佐助さんが頭の中におる。何回追い出しても、気づいたらまたおるの」
「ふうん、なるほどな」
長五郎は何かわかったふうな顔をしている。
「僕より先にお長さんのほうが大人になるんやろうね」
「……どういうこと?」
「こればっかりはお長さんが自分で気づかなあかん。他人がどうこう言えることやないで」
ぽんぽんと長五郎はお長の肩を叩いた。
「あとは、きっかけだけ。それさえあれば、お長さんは賢いから、すぐに決まるよ」
長五郎はにっこりと笑った。
「大丈夫。どんなことがあっても、僕はお長さんの幸せな道を応援しとるよ」
それだけ言って、長五郎は大塚本陣に帰っていった。
「うちの、幸せな道……」
長五郎の言葉を反芻する。
自分の幸せな道とは一体何か。琥太郎に嫁ぐことか、佐助と一緒になることか、はたまた別の道か。
そんなことを考えながらお長も帰路についた。
来た道を戻るつもりであったが、あんな話の後だ、お長の足は佐助の家へと誘う。長屋が立ち並ぶ区画へとお長は歩を進めた。
(結局、結論は出んかった)
ぽつ、ぽつ、と雨が当たる。空模様からして、これから土砂降りになるだろう。
一目、佐助がいることだけでも確認したい。そう思って外から家の窓を覗き込んだが、誰もいなかった。
(まあ、当たり前や)
この時間なら仕事で出払っていてもおかしくはない。
落胆して踵を返すと、急に影が差した。
「お嬢ちゃん、この家に何か御用かい?」
顔を上げると、いかつい顔に傷の入った男と数人の手下らしき男たちが立っていた。どうみても流れの浪人たちだった。
「あっ!女、貴様この間の!」
一人がお長を指さして言った。
「この間?」
「ほら、伊八たちが恥かかされたっちゅう男にくっついとった娘です!」
「ほーん、お前が」
急に雲行きが怪しくなったことをお長は感じ取った。
「つまり、お前をひっとらえときゃ、その男に有利になるかもしれねえってことだな」
おい、と傷の男が顎をしゃくると一人がお長に手を伸ばした。
「嫌っ!」
反射的にその手を叩き落とす。
「お嬢ちゃん、勝気なのはいいが、状況をよく見て反抗しな」
今度は三人がかりだ。避けきれず、一人の腕がお長の腕を捕らえた。
「嫌や、離して!」
必死に振りほどこうともがくが、男の腕はびくともしない。
「おとなしく人質になってくれりゃあ、手荒なことはしねえよ」
ひっひと傷の男は下卑た笑いを浮かべる。
(絶対に嘘や!)
このまま捕まってしまったら琥太郎に何をされるか分かったものではない。
なおももがくお長にしびれを切らし、「おとなしくしねえか!」と腕をつかんだ男が拳を振りかざした時だった。
「おいおい、人の家の前で白昼堂々女に寄って集って何してるんだ?」
その声に、思わず振り返る。
思った通り、天秤棒を担いだ佐助がそこに立っていた。しかしいつもの柔和な笑みはなりを潜め、鋭く男たちをにらみつけている。
「ああ?なんだ振り売り風情が。こちとら天下の尊攘志士の中塚景正様じゃ!すっこんでな」
誰かが佐助に啖呵をきる。
それに全く臆することなく、佐助が返す。
「その天下の尊攘志士様が真昼間っから女一人の誘拐にあくせくしていらっしゃるとは、日の本の未来は明るくねえなあ」
「言ってくれるじゃねえか」
中塚の額に青筋が浮かぶ。
周りの男たちが各々獲物を抜く。
佐助は天秤を左右に傾けて、吊るしていたかごぽとぽととをアジごと地面に捨てた。そして天秤棒をまるで槍を構えるかのように男たちに向けた。姿勢を低くして、臨戦態勢をとる。
「へっ、たかが棒切れ一本で俺たちに勝つつもりかい」
一人が顎をしゃくって挑発する。
「昔取った杵柄だ。宝蔵院流槍術、とくと見なあ!」
言うが早いか、お長の腕をとる男に向かってまっすぐに突き進む。
「がはっ……」
お長を抱えていたためか、避けきれずまともに腹に一撃食らった。男はそのままどさりと崩れ落ちた。
お長の腕から手が離れたのをこれ幸いと、お長の手を取り、自分の後ろへ庇う。
「離れてな!」
お長に向かってそう言い捨てると、男たちに向かって突進していく。
棒で突かれた者はその場に倒れこみ、振り回される棒に当たる者は弾き飛ばされて近くの桶の山やら家々の壁に叩きつけられる。
あっという間に残るは中塚と佐助だけだ。あれだけ暴れまわったというのに、佐助は息一つ乱していない。
「ほう、ほう。ちったあ、骨のある輩らしい」
中塚が刀を抜いた。
佐助も油断なく構える。
一拍の静寂の後、中塚が動いた。
「でえええりゃああ!」
一閃、振り下ろされる刃を横から突いて弾く。そのまま一回転した勢いも乗せて、中塚の首の後ろに強かに一撃を入れた。
「がっ……」
そのまま中塚は気を失い、ばったりと倒れこんだ。
あたりには静寂が満ちた。
ふう、と佐助は一息つく。
「佐助さん!」
お長が駆け寄ってきた。
「お長さん、何でここに……」
佐助は先ほどまでとは打って変わって困惑した表情を浮かべている。
「無茶をして……。怪我しとらん?はよ見せて」
そういわれて佐助は自分の体を見ると、いくつか浅い切り傷が走っているものの、大事はないようだった。
「ああここにも、こんなところにも傷が……手当しますから、早く家に」
「その前に同心たちに連絡しないと。いつ息を吹き返すかわかりませんからね」
佐助はお長を半ば無理矢理家に押し込むと、急いで同心を探しに走り出た。
ほどなくして、同心と子分たちが中塚たちをお縄にかけた。
「いやー、過激派の尊攘浪人とまともにやりあうなんて、あんた見込みがあるねえ」
「はは……運がよかったんですよ」
同心たちと尊攘浪人たちはそろって立ち去って行った。
「さて、と」
戸を開けて家に入ると、お長が座して待っていた。
「お長さん」
佐助が呼びかけると、お長が振り返って佐助を見た。
招かれるまま近くに腰かけると、お長は膝に抱えていた手拭いをびりびりと破き始めた。
「?!」
驚く佐助をよそに、傷の一つ一つに丁寧に破いた手拭いを巻いて、血止めをする。
「お長さん、せっかくの手拭いが……」
「良いんです。うちがそうしたいんだから」
尾長の雰囲気に気圧されて、しばし無言になる。
「ねえ、佐助さん」
お長が口を開いた。
「あんた、いったい何者なん? 江戸で何してはったん?」
手拭いを巻き終えたお長が問いただした。
「俺が何者か、か……。さて、どこから話したもんか」
ざあざあと本降りになった雨の音だけが響いている。佐助はぽつりぽつりと話し始めた。
「生まれも育ちも江戸でした。家が大店の貿易商をしておりまして、食うにも困らず、槍やら剣やら、近くの道場でお侍の子供たちに交じって習わせられるような家でした」
佐助が遠い目をする。きっと当時の自分が見えているのだろう。
「つい最近ですよ。家に過激な尊攘志士を匿っているんじゃないかとの嫌疑をかけられたのです。父は徹底的に否定しました。が、運悪く、御用改めを受け、荷の中に隠れていた尊攘派の人間が見つかったのです」
お長は固唾を飲んで聞いていた。
「父も母も知らないと言い張りました。しかしお上には聞き入れてもらえず、お家おとりつぶしになってしましました」
「そんな……」
思わず声が漏れる。そんな理不尽がまかり通っていたとは、知らなかった。
「幼い弟妹は、母が実家に引き取ったようです。俺は長男でもう働ける年齢ですから、こうして桑名の親戚を頼って来ました」
「お父上は、どうされたんです」
「まだ江戸に残っていますよ。便所から糞便をすくって近くの農家に売って、生計を立てているらしいです。たった一度だけ来た手紙によれば、ですが」
「……」
今度こそ、お長は言葉を失った。何もかける言葉が見つからない。
「俺は運がよかったんですよ。こうして自分で自分が食うぐらいの金を稼げるだけのものを両親からもらえましたから。だからこうして何とかその日を凌いでいける」
はは、と佐助が力なく笑った。どこか諦めたような笑みだった。
「こんな俺を軽蔑したでしょう」
その言葉には、お長は必死に頭を横に振った。いつしか目には涙がたまっている。
「うち、佐助さんのこと、一度だって軽蔑したことなんてあらへん。立派やんか、独り立ちして生計を立てて……」
佐助とは同じくらいの年なのに、いまだに父母を頼る自分が情けなく思えた。
「佐助さんは大人や。うちなんて、まだまだ子供や。そう思うくらいには、尊敬しとるし、偉い人やと思っとる」
「はは、そうですか。でもお長さんも立派ですよ。みつる屋の看板を背負って働いているんだから」
佐助はいつもの調子で笑う。しかしお長はそんなうわべだけの笑顔が見たいのではない。
「なあ、佐助さん」
意を決する。この瞬間こそ、長五郎の言っていたきっかけに違いないと確信したから。
「うちは、あんたと、一緒になりたい」
すうっと佐助から笑顔が消えた。
「お長さん、自分が何を言っているかわかっているんですか」
「わかっとる」
お長の目は確固たる意志が宿っていた。
「俺に嫁げば、あなたは一生、その日暮らしだ。みつる屋にいるときのような贅沢はできなくなるんですよ」
さらに含めて、佐助がたたみかける。
「俺なんかより、今あなたに心惹かれているお武家様に嫁いだほうが、よっぽどましだ。武士ならば苦労せずとも食うには困らない生活が約束される。今までにない贅沢だって許されるんですよ」
なぜ佐助が琥太郎のことを知っているのか、それすらどうでもよかった。聞きたいのはそんなおためごかしなどではない。
「うちはそんなことどうでもいい。聞きたいのは一つや。うちが好きか? うちが欲しいか?」
「それは……」
目をそらして逃げようとする佐助をしかと見据えた。自分は覚悟を示した。ならば、佐助も相応の態度を見せるべきだ。
「答えて。佐助さんはうちをどうしたいの?」
逃げることはもう許されなかった。
「……俺は、あなたが、欲しい」
やっと、やっと聞けた。佐助の本心を。
「出会った時から、あなたと過ごして、笑いあってすれ違って、でもあなたのことを一日だって忘れられなかった」
佐助の声が次第に水気を帯び、ついに目から零れ落ちた。
「あなたは俺なんか釣り合わないほど立派な女性で、だから俺が手を伸ばしちゃいけないんだと言い聞かせてた。なのに、お武家様と抱き合っているのを見たときは、腸が煮えくり返るかと思った」
「もうええ。もうええんよ」
お長は手を伸ばして、佐助を抱き寄せた。大の男がまるで子供が母親にするようにしがみついてくる。
「良いんですね、俺が手に入れても。俺のものにしても」
「あんたのものやないと、うちは嫌や。どんな苦労と引き換えでもそれがええ」
「うん……うん……」
お長の胸の中で泣きじゃくって、佐助が言った。
「俺、大人になるから。お長さんを幸せにする覚悟、決めたから」
「うちも、佐助さんと生きていく覚悟、決めとるよ」
ややあって、佐助がゆっくりと体を離す。
一拍の後、自然と顔が近づき、唇が重なる。
涙で濡れた佐助の唇は、なんだかしょっぱかった。
唇が離れていく。
「あ……」
お長の口から思わず声が漏れた。
「今日はここまでにさせてください。これ以上は、本当にどうにかなりそうだ」
佐助が困ったように笑った。
そんな佐助に身を寄せながら、お長が言った。
「なあ、うち、ちょっと考えたんやけど」
佐助と並んで、すっかり暗くなった道を歩く。
提灯を持つ佐助はきゅっと緊張した面持ちで前を見据えている。
「佐助さん……」
「大丈夫ですよ。言ったじゃないですか、覚悟はできたって」
そう言う佐助の手は少し震えていた。
緊張するのも無理はない。これからお長の両親に直談判しようというのだから。
「大丈夫やで。精一杯伝えれば、お父ちゃんもお母ちゃんもきっとわかってくれる」
お長は佐助を励まそうと、その背に触れる。
「ありがとうございます」
少し緊張が和らいだ気がした。
かく言うお長も心臓をどきどきいわせていた。
果たして、自分たちの誠意は二人に伝わるだろうか。
「もしどうしても駄目なら、俺はその場であなたを攫う覚悟もありますよ」
その言葉に、お長の全部がどくんと鳴った気がした。
佐助の袖をつかむ。不安に押し流されないように。
佐助はそれを優しく外すと、そっと手をつないだ。
佐助の温もりが伝わってくる。それだけで、すべてがうまくいく気がした。
みつる屋はもう目と鼻の先だ。
暗い中、ちらちらと行灯の明かりが店内で揺れている
お長は不審に思った。この時間はもう店じまいをしているはずだし、行灯も二階についているはずだ。
さらに近づくと、何やら話声がとぎれとぎれに聞こえる。
「じゃあ、淳平さん……」
「ああ、佐助には……言っとくわ」
どうやら中には淳平がいるようだ。
これは好都合だ。両親の次に淳平に話す手間が省けた。
「お父ちゃん、お母ちゃん、ただいま……」
恐る恐る中へ入ると、そこにいる全員が振り返った。
「おう、お長、おかえり。丁度良かった……って佐助も一緒か。どこぞで行き会ったんか?」
「……ええ、まあ」
佐助があいまいに濁した。
お長は店を見回す。行灯を囲んで集まっていたのは、父母と淳平、そして。
「琥太郎さん?!」
琥太郎だった。侍従らしき男を一人後ろに控えさせて座っていた。
「お長殿、おかえりなさい」
声はいつもの平坦な風であったが、視線は佐助を睨んでいた。
「何でここに……」
困惑してお長が問うと、平吉が口を開けた。
「実は桐野さんから提案があってな。お長と婚約したいんだと」
「え、ええ?!」
お長はさらに困惑する。
「悪い話じゃないやろ?これでお前は毎日苦労して店で働く必要もなくなるんや」
「……まさか、お父ちゃん、勝手に受けたんちゃうやろな?」
お長の声が低くなる。自分の気も知らないで、勝手に結納の約束を取り付けるなどと、信じられなかった。
「勝手だろうが何だろうが、お前が一番幸せになる道はこれしかないやろ。たとえ恨まれたって取り下げたりしやへん」
それだけ言うとそっぽを向いてしまった。キッとお末を睨みつけたが、お末も視線を逸らすばかりで何も言わない。
「平吉さん、お末さん。俺からも提案があります」
そんな中、入り口に立っていた佐助が店内に歩を進めた。
「なんでい」
「俺に、お長さんをください」
佐助は床に膝をつけたかと思うと、おもむろにその場で土下座した。
「それはできん相談やな」
平吉はにべもなく言った。
「俺に嫁がせて欲しいのではありません」
「は?」
全員が首を傾げた。
「俺に、この店を継がせてください!」
「!!」
お長を除く全員が驚きの表情になった。
そう、これこそがお長の提案であった。琥太郎に嫁げば、一人娘しかいないこの店は平吉の代で閉店を余儀なくされる。しかし、佐助を婿養子にとれば、この店は存続するのだ。
「むっ……」
これには平吉も口を引き結んだ。
「佐助……」
淳平がポツリと言った。
「お願いします!俺はお長さんも、お長さんが愛したこの店も、無くしたくないのです!」
床に頭をこすりつけて佐助が叫ぶ。
「私もお願いいたします」
琥太郎が優雅な所作で頭を下げた。
「私にくださる以上は、お長殿に決して苦労はかけないと、誓ってお約束いたし申す。店の存続についてもできうる限り尽力いたそう」
「う、うむむ……」
平吉は唇をかみしめるばかりだ。
「……よろしい。では、こうしよう」
琥太郎が先に顔を上げた。
「聞けばその方、槍術に覚えがあるそうだな」
おそらく淳平が教えたのだろう。
「尾立、木刀を持て」
「はっ」
後ろに控えていた男が、布に包まれた棒を琥太郎に渡す。
するりと紐を解くと、一本の木刀が現れた。
「そちらも獲物を持て。お長殿を賭けて、勝負を申し込む」
木刀の先を佐助に向けて突きつけた。
佐助も顔を上げた。
「良いでしょう、その勝負、受けて立つ」
街道は騒然となった。
あの看板娘、お長の取り合いと聞いて、方々から見物客たちが詰めかけたのだ。
琥太郎は悠然と佐助の帰還を待っている。
(佐助さん……)
お長は震える手をもう片方の手でぎゅっと静める。
相手はあの琥太郎だ。剣術の鋭さを、お長はその目で見たのだ。勝てるかどうかはもう神頼みしかなかった。
そうこうしている間に、佐助が戻ってきた。肩にいつもの天秤棒を担いでいる。
街道にたてられた松明で囲われた決闘場内で、しばし見合う。
琥太郎は「剣」を正眼に構え、佐助も姿勢を低くして「槍」の先を琥太郎に向ける。
「これは一本勝負。先に膝を地についたほうを負けとする」
侍従の尾立が声を張り上げる。
観客たちが静まり返った。
「用意……始め!」
尾立が手を振り下ろした。
一瞬早く琥太郎が地を蹴った。
「せぇい!」
振り下ろされる剣を、槍で受ける。
「はっ」
はじき返すと、槍で足元を狙って突く。が、軽くいなされ、体勢を崩すことはなかった。
その隙を狙って剣がまっすぐに佐助の顔を狙う。間一髪で横からはじいた。
両者、一歩も引かない。「やあっ!」「とう!」の声が街道に響き渡る。
佐助は何度も危うい場面があった。しかし意地でも体勢を立て直す。
琥太郎も何度か弾き飛ばされたが、剣を地面に突き立てて何とか体勢を保つ。
始めは沸き立っていた観客たちも、今や固唾を飲んで見守っている。
(佐助さん……!)
お長はぎゅっと手を組んで天に祈る。自分にできるのは、ただそれだけだ。
戦いが始まってからもう一刻を過ぎようとしていた。
両者ともに、疲労の色が見え始める。
「はあっ、はあっ」
荒い息をつきながら、なお佐助は立っていた。
「ふう。ふう……」
琥太郎も乱れる息を必死に整える。
距離を取り、互いを睨みあう。
「貴様、足が震えているぞ。もう限界か?」
琥太郎が煽る。
「そちらさんこそ、動きにキレがなくなってきていますよ」
佐助が不敵に笑って、返した。
「言ったな?」
琥太郎も佐助を睨む目をさらに強くした。
両者が再びぶつかる。
ガン、ゴン、と木のぶつかる鈍い音が響く。
大きく薙ぎ払う佐助の槍を剣で滑らせていなす。
大ぶりの隙を逃さず一気に距離を詰めて突きを繰り出す。佐助は器用に飛んで避ける。
また一進一退の攻防。
闇の中を二つの影が踊るように、近づいては離れるを繰り返す。
突く、はじく。薙ぐ、避ける。
剣と槍がヒュンヒュンと風を切る。
そのたびにお長の心臓が張り裂けんばかりに音を立てる。
するとその時佐助に追い風が、琥太郎に向かい風が吹いた。
「むっ……」
反射的に琥太郎が目を細める。
(今っ!)
佐助が走った。
槍の先が琥太郎の左足をとらえた。
「ぐあっ……」
琥太郎がしゃがみ込む。
だがまだ膝はついていない。何とか剣で支えて持ちこたえた。
「でやあああああ!!」
しかし、それは大きな隙となった。
佐助の槍が、バシンと琥太郎の肩に強かに打ち付けられた。
「がっ……!」
今度こそ琥太郎の体勢が崩れた。
剣を持っていた手が汗で滑り、倒れこむように両膝を地につけた。
一瞬の静寂の後。
「一本!勝者、佐助!」
尾立の声が、静寂を破るように響いた。
観客がわっと沸く。
「ふう……」
佐助も息をつくと、どっとその場に尻もちをついた。
「佐助さん!」
お長が駆け寄る。
「お長さん」
佐助がうれしそうな顔を見せた。
駆け寄ったお長が、佐助の手を握る。
と、琥太郎が近づいてきた。
「ああ、負けてしまった……」
「琥太郎さん……」
お長はかける言葉を見つけられない。
すると、佐助がすっと立ち上がった。あわや殴り合いか。止めようとお長が慌てる。
しかし予想に反して、両者が、ガッと手を組んだ。
「いや、さすがお武家様。何度もうやられたと思ったことか」
「そちらこそ、お強かった。何なら、槍で食っていけるのではないか?」
「御冗談を。こういうのは向いてないんですよ」
二人とも、さわやかな笑顔だ。先ほどまで相手を射殺さんばかりににらみ合っていたとは思えない。
「お長殿」
笑顔のまま、琥太郎が言った。
「私はあなたを手に入れられなかった。悔やんでも悔やみきれません」
「……」
お長はやはり何も言えない。
「こんなことになったけれど、また、会いに来ても良いだろうか。次は客として」
琥太郎の言葉にはっと顔を上げた。
「……はい、またいらしてください」
真昼の太陽のような笑顔で、お長は言った。
それを聞いて、琥太郎は満足そうに立ち去ろうとする。
すれ違いざま、琥太郎がお長にこっそり耳打ちした。
(あの男に愛想が尽きたら、いつでもいらしてくださいね)
上機嫌そうに立ち去る琥太郎を、佐助が不満そうに見送る
「何を吹き込まれたか知りませんが、俺は必ずお長さんを幸せにしてみせますから、忘れてくださいね」
(何や、聞こえとったんやないの)
佐助の可愛らしい嫉妬に、お長はくすりと笑った。
終章
鶯が春の陽気を歌う三月の頭。江戸の片隅。
一人の女が一軒の呉服問屋の軒先を掃除している。
「ふう……」
掃き掃除が終わり、店の戸を開けようとしたその時。
「母さん」
懐かしい声がした。振り返ると、懐かしい顔が柔和な笑みを浮かべて立っている。
「佐助」
久しく口にしていなかった名前を呼ぶ。
「どうしたのあなた。桑名に行ったんじゃなかったの?」
「ええ、行きましたよ。今日は、紹介したい人を連れてきました」
「え?」
よくよく見てみると、佐助の一歩後ろに、たおやかな女性が立っていることに気が付いた。
「紹介するよ。俺のお嫁さんの長子さん」
紹介された女性は美しい笑みを浮かべて、「はじめまして」とお辞儀した。
「まあ、まあ」
佐助の母は驚きのあまり言葉を失う。
しばし呆然として、はっとなる。せっかくの来客を、もてなして祝いの言葉をかけてやらねば。
「どうぞ中に入って。お茶を入れるわ」
店の裏部屋に二人を通すと、人数分の茶を入れて戻った。二人は仲睦まじく寄り添って座っている。
「おまちどおさま」
二人の前に湯飲みを置いて、自分も二人の向かいに腰を下ろす。
「佐助、長子さん。まずはおめでとうございます」
深々と頭を下げる二人も照れくさそうに頭を下げた。
「振り売りで二人で生活していくのは大変でしょう。よくここまで来られたわね」
「それがですね、母さん」
ゴホンと咳払いをして佐助が続けた。
「俺、長子さんの家の婿養子になったんです。桑名で茶店をやっているんですよ」
「あら、そうだったの?!」
手紙の一つでもよこしてくれればいいのに、と思わないでもなかったが、佐助が良い道を歩けているようで一安心する。
「それで、母さんが江戸で実家の呉服問屋を手伝っている話をしたら、長子さんが会いたいって言うから」
「まあまあ、それではるばる江戸まで」
息子の嫁はよくできた女のようだ。
「お義母様に一目お会いしたい、と佐助さんにわがままを言って、連れてきてもろたんです」
鈴を転がすような、愛らしい声が言葉を紡ぐ。伊勢訛りもまた愛嬌だ。
「何にもないところだけれど、ゆっくりしていってね」
「それなんだけど、母さん。俺たち明日にはここを出ないといけないんだ」
「何だい、それまた急な話だね」
「お店が忙しいからね、長いこと空けていられないんだ」
「じゃあ今日はじっくりお話しさせてもらわないとね」
いたずらっぽくそう言うと、新妻の顔が赤らんだ。
春が来た、と鶯が一声鳴いた。
よろしければサポートしていただけましたら幸いです。