人はなぜマウントと比較をするのか?
最近少し嫌なやつになっている。誰かと言うと自分が。
昨夜に友人と電話をしていて反論し、彼の話をまったく聞かないという事になってしまった。特に気にしていなかったのだが、自分と異なる意見を人間はすんなりと受け入れることは出来ない。これが僕の実感である。
眠る前に思い出し、「人間は他人と自分を比較し、マウントを取りに行く動物種なのかねー?」と思いながら寝た。
今朝起きて友達に対する反省もそこそこに、最近の僕の意識の動きを振り返ってみた。他人と比較し合って落ち込むというよりは、何とか上回る点を探して内心でマウントを取りに行っている。内心だから害はないはずだが。
しばらく前に橘玲さんの「言ってはいけない」という新書を読み、「もう少し筆致が科学ライター的だったら良かったのに」と思ったが、彼の論拠が進化心理学や進化人類学的、行動遺伝学といった学問なので、群れの中での猿の位置取りに似た行動を僕も含めた人間は行っているのではないかと感じた。
そこで、先程AIで「人間は他者と自己を比較しマウントを取る性質があるか?」と聞いてみたらそのとおりだという答え。
進化心理学や進化人類学的に言えば、人間は進化の過程で昔の心理反応や行動傾向を保ったままなので、相手と自分を比べ合い、マウントを取って群れの上位に行けば、ひどい言い方をすれば餌も異性も手に入れる確率が高くなる。
その性質が残っているので、テレビやネットで勝ち組負け組やマウントを取るという言葉をよく耳にするわけだろう。
しかし、それに任せていては動物とおんなじである。まるで猿そのものだ。
僕の好きな禅宗では他人と自分を比較するなという教えがあるので日頃からそういう意識を自分に叩き込むようにはしているのだが、マウント的心理というか煩悩は止むことはないな。最近はそれほど比較で怒ることはなくなったが。
話を進化人類学に戻すと、人の心理って一定のパターンがあって、群れの中で優位性を保ち、食料と異性を獲得するという習性が抜けていないらしい。
そういう説がどこまで正しいかは不明だが、人間の心理状態が突出して理知的というわけではないだろう。
だから、会社や組織でも序列を作り、報酬を与え、動物的感性を満足するように自然に作り出された制度なのかもしれない。人間を大きな群れの猿のようなものと捉えれば、嫉妬や比較、お金に対する欲望も霊長類の進化に基づく心理状態が影響しているのかもしれない。
今度、進化人類学者の長谷川眞理子さんの「進化的人間考」という本でも買って、人間の本質に触れてみようかな。縁起物の置物を立て続けに買ったので今は本代が無いのではあるが、知的興味があるので、僕の比較とマウンティングを密かにしてしまう謎を解明したいと思う。
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