【昭和講談】徳川夢声「間を以て生命とする」 第二回(全三回)

 赤坂溜池の「葵館」で活動弁士を始めた、福原霊川改め、徳川夢声。
 時は大正十年。東京銀座に「金春館」という松竹キネマ直営の映画館が開場した。
 映画館が出来れば、当然、活動弁士が必要になる。そこで金春館は、徳川夢声を引き抜きにかかったのでございます。

「月給、よ、四百円ですか?」

 徳川夢声は思わず声が上擦った。
 葵館での月給も順調に上がり、その額、百六十円。ところが金春館はその倍以上の四百円でございます。

「はい徳川さん。金春館では、東京でもひと際名の知れた徳川先生を招聘するにあたり、四百円をご用意させて頂きます」
「ああ……、そうですか。四百ですか、それは誠に結構でございますね」
「いかがでしょうか。我が金春館で映画説明の方、お願い出来ませんでしょうか」
「そうですね。まあ一度考えておきましょう」

 一応間を置いたが、言わずもがな夢声の心は決まっております。
 こうして、月給四百円、前金四千円で、銀座・金春館で弁士を勤めることになったのでございます。

 金春館で映画説明を始めた徳川夢声。仕事場では、弁士仲間もできて、和気あいあいと過ごしております。
 するとその内、有志が集まり、楽屋で寄席芸の真似事もする様になった。
 わずか四坪ほどの狭い楽屋、テーブルに赤い毛布を掛け高座に見立てると各自が思い思いに寄席芸を披露する。

 その中で特に、落語が上手かったのが夢声の二つ下の大辻司郎と名乗る弁士でございます。
 三代目柳家小さんの声色で「ずっこけ」や「うどん屋」のさわりをやって見せると、他の弁士たちがワァっと拍手喝采を送る。
 この大辻の落語に感嘆した徳川夢声。

「大辻君。君の落語はすごいもんだよ。君は弁士なんかより、落語をした方がいいんじゃないかね」
「本当ですか、徳川さん。そう言ってもらえると本気にしてしまいますよ」
「いや、これは大真面目だよ。弁士なんてものより、落語家の方がよっぽどいいよ」。

 なんとも無責任な転職の勧めでございますが、徳川夢声にも思いはあった。
 夢声たち活弁士が頼りとする無声映画は、何も、映画説明を当てにして制作された訳ではないのでございます。
 汗水流して、映画弁士が真剣に説明しているのにも関わらず、映画の方は、活弁士など眼中にない、それが夢声には何とも虚しく映るのでございます。
 そんな思いで一杯飲めば、つい愚痴もこぼしたくなる。

「なんだい、弁士なんてものは映画の添え物、刺身のつまみたいなもんじゃないか」

 そんな思いがあった夢声。つい大辻司郎に別の道へと勧めてしまった訳でございます。
 さて、数日後のこと、大辻司郎が真面目な顔で夢声に話しかけてきた。

「徳川さん、実はあれから、三代目小さんの所へ弟子入りを志願したんですよ」
「なんだって。本当かい?」
「ええ、それが本当なんですよ」
「で、どうなったんです」
「それが、師匠いわく『今更、落語家として寄席に出るのは看板の上から言っても損だ。小さんの弟子としてではなく、始めから一本立ちで看板を上げなさい』と、こうなんです。弟子入りは辞めにしました」

 これを聴いて夢声もなるほどと嘆息した。
 後に、この大辻司郎さん、弁士を廃業した後に一人で寄席舞台に立ち、「漫談」の第一人者として、芸能史に名を残すのでございます。

 さて、お話を徳川夢声へと戻しましょう。
 金春館に移った同じ年の大正十一年の十二月。東京神田に新しく出来た「東洋キネマ」に移ると、大正十二年九月一日、あの関東大震災に襲われた。
 東京はほぼ壊滅状態。一命をとりとめた徳川夢声、只々呆然とするばかりでございます。

「ああ、きっとこのまま五年は映画の上映なんてないだろう」

 だが何と、二か月後には映画上映を再開した。
 目黒にあった「目黒キネマ」が奇跡的に焼け残り、わずか二月で再開にこぎつけたということでございます。

 しかも、娯楽に飢えた民衆が押掛けたということで、夢声も「目黒キただただ映画説明に没頭いたします。
 そして、主戦場の「東洋キネマ」復興の折にはすぐさま、そこで熱弁をふるったのででございます。

 勤務地はコロコロと転任いたしますが、熱心に活弁士として働いた徳川夢声。
 ですが、時代の波、時代の進歩は、確実に押し寄せていたのでございます。

 時は、大正十三年十月二十五日。東京上野の不忍池畔で「無線展覧会」が開催された。
 これは簡単に申せば、ラジオの実験放送でございます。
 不忍池の会場の一角に、十畳ばかりの広さを、黒のビロードで囲った仮説のスタジオを拵えまして、そこから放送電波を送ります。
 すると、会場の不忍池周辺はもちろん、遠くは日比谷公園と、各所に設けられたスピーカーから聞こえるという仕組みでございます。

 司会は、展覧会主催の報知新聞社社員が務めまして、お喋りに音楽にと孤軍奮闘しております。
 そのラジオの実験放送に呼ばれたのが徳川夢声に講談師と歌舞伎役者の三名でございまして、各々それぞれがマイクの前で、その話芸を披露するという趣向でございます。

 ここで、少し説明を致しますと、ラジオの本格放送は大正十四年三月二十日、NHKが、東京、芝浦の東京高等工芸学校に設けた仮設スタジオから放送したのが、日本で最初のラジオ放送と言われております。
 それより半年も早くラジオ放送を経験する訳でございますから、徳川夢声はじめ出演者らは、「果たして、ラジオとは一体何であるか?」という具合でございます。

 さて、歌舞伎役者、続いて講談師と、それぞれが舞台台詞や話芸を披露いたします。
 講談では「荒神山」が掛けられた。しかし、この放送を聴き、夢声がなんとも変な顔をした。

「なんだこの音は、講談らしき声はあるが、何とも音が割れて割れて聞き苦しいことこの上ないぞ」

 プロの講談師が情けないと、言いたい放題の夢声でございますが、その夢声も、実は緊張で足が震えております。

 それでも、なけなしの勇気を奮い起してマイクの前に立った。
 司会がキューを振る、夢声、冒頭の自己紹介が震えている。

「ええ、私の商売は活動写真が映るに連れまして、お喋りをする商売であります。この様な写真なしの説明だけでは、パンなしでバターだけ舐める様なものでございまして…」。

 足は震えても流石は弁士、一旦喋り出すと肝が据わり俄然エンジンがかかる。さあ音量を一気に上げて、本業の説明へと入っていく、

「蛇の腹から毒蛇が生まれ、その毒蛇は鳥を喰らうぞ」

 「東洋キネマ」でも評判を取った「サロメ」の一説を大声で一気にまくしたて終了。
 マイクの前から離れる時には、司会から「ベリーナイス」と小粋な言葉を貰い、元の席に戻った夢声でございます。
 上機嫌でいる夢声に、隣にいた講談師。

「徳川夢声さん。冒頭のあいさつは流暢ながら、本編の説明では、随分と声が割れていましたな」
「いや、私は、あの司会の人に『ベリーナイス』と呼ばれておりましたよ。あなたの方こそ、割れていたじゃありませんか」
「いや、私も終わり掛けに司会に『ベリーグッド』と声を掛けられましたよ。私の声が割れたなどとはあり得ませんな」

 「私は上手く演じられたはずです」「いや、私こそ。あなたのは割れておりましたよ」「いやいやそちらこそです」。
 二人の押し問答でございますが、結局、出演した全員の声が割れていたのでございます。

 これは機械の故障ではございません。この時の夢声の心境は
「よし、ここから日比谷まで響かせてやるぞ」

 そう意気込んだから、マイクのすぐ前で、酸欠になるほどの大声を出した訳でございます。
 そうなれば、声が割れるのも無理はありません。

 しかし、徳川夢声はじめ演者たちは、そんなこと知る由もありませんから、それぞれが大声を張り上げてしまったという訳でございます。
 ラジオ放送が始まる前の微笑ましいエピソードではございますが、徳川夢声の意識しない所で、メディアの進化がすぐそこまで迫っていた訳でございます。

 そして、メディアの進化と言えば、昭和に入り、映画から音が出て声がする、あのトーキー映画が誕生する訳でございます。

 最初の頃は、音が悪いだの、映像と合わないだの、ましてや、字幕がついていないだのと、その不備が指摘され、こき下ろされていたトーキー映画。

 徳川夢声と活動弁士たちは、その批判に胸を撫で下ろしておりましたが、昭和六年、スタンバーグ監督の「モロッコ」が封切られると、評価は一変いたします。

 ゲイリー・クーパー、グレタ・ガルボ、マレーネ・ディートリヒの輝きに、観衆はグイグイ引き込まれた。
 何よりも字幕がついている。まだ、字幕の位置があっちこっちと移動して見にくかったと言いますが、活動弁士たちは唖然とし、皆、内心大いに焦燥した。

 「モロッコ」の試写が終わると、一人の男が徳川夢声に寄って来た。都新聞の小林いさむ記者でございます。

「徳川先生。これは大変ですね。いよいよ弁士の皆さま方のおまんまの喰い上げですね」
「ああ。確かに、この字幕がある上は、映画説明など付ける必要はないね。ただし、この『モロッコ』なるものに、無字幕版で絵説明をつける場合と、字幕だけでみせる場合といずれが、一般大衆を面白がらせるかは疑問だよ」
「またまた。徳川先生、そいつは強がりでしょう」
「いやいや。君こそ、映画評論を書いているからには、果たしてどちらが良いか、理由を付けて説明できるんじゃないか」

 ここまで言われ、小林記者もムッとして引下がる。その直ぐ後で、弁士仲間が入ってきて
「あの小林、弁士が困るのが嬉しくってたまらないんですぜ。全く腹が立ちますよ」

 そう憤慨して見せたが、徳川夢声は内心、

(ああ、我が弁士人生もいよいよ進退窮まったか)

 どうにも救われない気持ちになったのでございます。


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