【昭和講談】徳川夢声「間を以て生命とする」 第一回(全三回)

 毎度ここからは、錦秋亭渓鯉でお付き合いのほどお願い申し上げます。
 まあ、今回も、昭和の埋もれた歴史を掘り起こす「昭和講談」を、お聞き願いいたしたい次第でございます。

 さて、時代が変わり、文明が発達しますと私たちの暮らしも様変わりしまして、字を書くこと一つとってもそうでございます。
 昔は墨を磨り、筆で認めていたものが、いつの間にやら、万年筆や鉛筆、シャープペンシルへと変わりまして、さらに、ワープロができ、パソコン、スマホで字を書く、いや、ここまでになりますと、「字を打つ」なんて言い方をいたします。
 かように、字を書くこと一つとりましても、時代によってここまで様変わりする訳でございます。

 さて、今回取り上げます徳川夢声さんのご職業もそうでございまして、その職業とは活動弁士というのものでございます。
 活動弁士、詳しくは活動写真弁士でございます。

 明治期は映画のことを活動写真なんて申しまして、写真が活動するだけで音は一切出なかった。
 そこで必要なのが映画を説明する弁士と音楽を奏でる楽士でございます。

 舞台上手にこの楽士がおりまして、音楽もオルガン一台やバイオリン一挺から、クラリネットやバスなど付けた管弦四重奏に、大劇場ならオーケストラと、様々な編成で活動写真に音楽を付けていた訳でございます。

 そして、舞台下手には、観客と銀幕が見渡せる様に用意された演台に、活動弁士が陣取ると、音吐朗々、映画を説明したのでございます。

時あたかも幕末の頃、弦歌さんざめく京洛の世は更けて、下弦の月の光青く、東山三十六峰静かに眠る深き夜の静寂を破って突如起こる剣戟の響き

 これは有名な月形半平太の一幕で、歯切れが良くて、情景も浮き上がる、こうした文句で弁士たちは活動写真を盛上げた訳でございます。

 しかし昭和の初めに音の出る映画、トーキーが出現し、活弁士という職業は、この世からほぼ無くなった訳でございます。

 その中で徳川夢声さん、漫談や随筆、そしてラジオパーソナリティとマルチな才能で時代を切り拓き、話術の秘訣を会得していく訳でございます。
 その物語を、これからご紹介いたす次第でございます。

 時は、明治二十七年四月十三日、島根県益田にて、警察官、福原庄次郎の一子として生を受けたのが福原駿雄、後の徳川夢声でございます。
 駿雄が幼い頃に、東京・内幸町に居を移し、明治四十三年三月、ここで福原駿雄、父親を驚かすことをしでかした。

 何と、名門、東京府立一中に合格したのでございます。
 募集数百四十名あまり、そこに一千名を超える受験者という狭き門。これを競争率に直すと……、まあ、先を急ぐとしましょう。

 さあ、この駿雄の一中、一発合格に父の庄次郎も喜んだ。
 だが、中学での駿雄はお世辞にも優等生とはいかなかった様で、寄席に通っては落語にはまる有様でございます。

 何とか無事に府立一中を卒業したが、府立第一高等学校への受験はあえなく失敗。
 翌年こそはと臨んだが、それも失敗。後のない駿雄、ここで一つ考えた。

「我家は裕福でもなく、浪人生活のままでは家計にも甚だよろしくない。よし、ここは私が働いて、家計を助けながら受験に備えようじゃないか。だが、そのためには、働く時間が少ない仕事に就くのがいいのだが…」

 そう考え、働く時間が少なく、疲労もたまらない仕事と、出した答えが、落語家でございます。
 家計の助けに落語家になる。まあ、この時点で、駿雄の受験に対する意気込みも、実にあやしい訳でございます。

 早速、自分の考えを父親に打明けた。

「父上、実は、かくかくしかじか…、こういう訳で働こうと思うのでございますが…」
「何、働く? それは殊勝な考え、是非そうするがいい。で、どんな職業に就くつもりだ」
「はい、体力を使わず、労働時間も少ない落語家が良いと考えております」
「何? 落語家とな。それはいかんな。駿雄も知っているだろう、私が政治政党『帝国党』本部に勤めていることを」
「はい」
「私の知り合いや党の代議士が寄席に行って、駿雄のことを知ったらこっちの立場も怪しくなる。それは避けたいものだ」

 なんとも変わった反対理由でございますが、この意見に駿雄は困惑した。

「では父上、どんな職業がよろしいでしょうか?」
「そうだな…。そうだ、映画の活弁士ならどうだ。同じ喋る仕事でもあれなら暗闇で顔が分からない」
「なるほど、活弁士ですか」
「そうだ。活弁士だ。そうしなさい」
「はい。分かりました」

 顔が見えないから活弁士が良い。なんとも頼りない動機でございますが、こうして福原駿雄は晴れて活弁士の道へ一歩踏み出した訳でございます。

 時は大正二年、芝桜田本郷町にある日活直営「第二福宝館」。
 この映画館の主任弁士が清水霊山と申します。なんとも威厳ある名前ですが、この清水霊山に福原駿雄が入門し、福原霊川の名前を貰った。
 この時、駿雄十九歳のことでございます。

 弁士見習いとなった福原駿雄改め、福原霊川。先輩に借りた羽織袴で舞台に立つ日々でございますが、この見習い弁士、実に筋が良かった。
 さらに、師匠の清水霊山もべた褒めした。

「ううむ、これほどの新人は前代未聞。五年に一人、いや十年に一人の天才だ」

 褒め方も弁士口調で大げさです。

「霊川。君の説明は大したものだ。将来は間違いなしと言ってもいいぞ」
「霊山先生。ありがとうございます。ですが、本当に私は成功するでしょうか」
「もちろんだとも。君ほどの才能なら、大阪でなら五十円は取れる。一つ僕が紹介状を書いてもいいぞ」

 この言葉が胸に突き刺さった。その当時の月給が十円で、何とか切り詰めて生活すれば、一家がひと月何とか暮らせるという金額でございます。
 その五倍の額がもらえるとあれば、ここは一つ、霊山先生に従うべきだと、福原霊川、師匠の紹介状を握りしめ、その逆の手で、日活「第二福宝館」への辞表を叩き付け、単身、大阪へと乗り込んだ。

 しかし、待っていたのは現実の壁でございます。
 その当時、開け始めた大阪繁華街千日前。その映画館では、活弁士が舞台の上を駆け回り、わめき散らし、所せましと映画の解説をしていたのでございます。
 これには霊川も面食らった。

 しかし、ここは東京仕込みの映画解説を聴かせてやろうと、鼻息荒く舞台に立った福原霊川。だがしかし、東京言葉の霊川に、大阪の客は、けんもほろろに冷たかった。
「何すましてやっとるんや」
「もっと動いて楽しませんかい」
「おもろないど!」

 これには霊川すっかり参って、数か月で東京に帰ってしまった。すっかりと天狗の鼻を折られた福原霊川は、

「もうこんな活弁士なんて辞めてやる!」

 仕事を放りだし、家にこもり、もう、高校受験はどこへやら。今後の身の振り方に悶々とする日々でございます。

「さて、活弁士を辞めて、これからどうしたらいいんだろう」

 腕組みしながら、でも、日々ぐうたらと過ごしていると、神田にある「万世館」から声がかかった。

「『第二福宝館』で説明していた福原駿雄さんですよね。もし今、空いているならウチで弁士をしてもらえませんか」

 そう誘われると、福原霊川、きっぱりと断れず、また活弁の道へ復帰した。
 しかし、これが茨の道の踏み始め。ここから福原霊川、映画館を巡って参ります。

 神田の万世館を皮切りに、浅草公園のキリン館から新橋の金春館、ずっと北に飛んでは秋田市の凱旋座、三か月で東京恋しや、新宿座。さらに、新人弁士の育成にと、再び秋田に遠征し、朝日館で三か月。そして、東京に戻って来た。

 この一年間で六つも映画館を渡り歩いた福原霊川。その間、給金の方は貰えたり、貰えなかったりと不安定極まりない状態でございます。

「もういいっ。活弁士なんてやってられるか!」

 そう決意をするも、また誘われれば、決心揺らぎ、つい活弁士生活を続けるのでございます。
 大正四年のことでございます。秋田で世話になった西川という男が赤坂溜池の葵館の支配人になったと連絡してきた。

「福原君、また一緒にやろうじゃないか。最初は大変かも知れないが、いずれは主任弁士を任せたいと思っているんだよ。だから、来てくれないか」

 主任弁士を任すから。この一言に福原霊川の心、また揺らぎ、弁士廃業を一旦棚に上げ、日活直営の葵館と契約したのでございます。
 しかし、ここで問題が持ち上がった。

 福原霊川が最初に入った映画館が「第二福宝館」でございますが、ここも日活直営でございまして、福原霊川は、この映画館を辞表を叩き付けて辞めております。

 日活系列で一度辞表を出した者を、同じ日活系列の葵館で雇うなど罷りならんと言われたのでございましょう。支配人に就任したばかりの西川氏、

「福原くん。この件は、日活の上層部をちょっと誤魔化さんといけなくてね。どうだろう、こちらに任せてくれないか」
「はあ。分かりました。万事お任せします」

 さあ、それから二日後、福原霊川が葵館を訪ねると、楽屋の壁に、新しい芸名が貼られてあった。
 その紙に、筆で認められた名前には、大きな文字で「徳川夢声」と書いてある。

「に、西川さん、この芸名は何ですか?」
「ああ、福原君、いや、徳川君。君の名前は『徳川夢声』に決まったよ」
「徳川は幾ら何でも大げさではないですか? 将軍家の名前ですよ」
「いや、我が館の名前が葵なら、その主任弁士となる人物は徳川だろう。これは全員の賛同だよ。そして、弁士は声を夢幻に操る、で夢声だよ。どうだね。気に入ってくれたかね」

 西川氏を始め、その場にいた全員が笑顔で福原霊川を観ている。これを観たら反対など出来ようもない。

「はあ…、そうですね……。なんとも、実に……いい名前ですね」

 後の時代に、日本最初のマルチタレントととして持て囃される、その偉大な名前がこうして付けれられた訳でございます。

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