【昭和講談】徳川夢声「間を以て生命とする」 最終回(全三回)

 昭和七年に入り、映画がトーキーへと転換し始めますと、関東、関西の松竹系の映画館では、活動弁士たちが、トーキーによる人員整理に対する争議、いわゆるトーキー争議を起こし始めたのでございます。

 このトーキー争議、それは松竹だけでなく、日活系の映画館にも波及し、徳川夢声のいる新宿武蔵野館にも火の手が回って参ります。

 時は、梅雨には早い六月二日。夢声は、武蔵野館、重役の市島亀三郎に呼ばれますと、武蔵野館三階事務所へと向かう。事務所の扉をノックし入ると、そこには困り果てている市島が待っております。

「夢声さん、わざわざすいません。実はですね、夢声さんもご存じかと思いますが、この武蔵野館も松竹とパラマウントの合同会社に経営を譲渡することが決まりましてですね」
「ははあ、いよいよですか」
「それで、従業員は引継ぐということに決まってはいるのですが、しかし、あなた方弁士の方々はですね、その……」
「クビという訳ですね」
「クビというか、継続雇用できないということでして…」
「クビには変わらないでしょう。いつ通達なさるのですか」
「いや、そこで、ご相談なのですが、今、あちこちの館で争議が起こっておりますが、ここではそうならぬ様、一つお知恵を拝借できないかと思いましてね」
「なるほど。まあ、私の一存ではどうにもならぬことですが、説明部の皆と相談しましょう。ただし、相談にしても手ぶらとは参りませんので、その、なにがしかの額が必要かと思いますが」
「手切れ金ですか?」
「手切れ金…。退職金です」
「あ、はい、退職金ですね。それは幾らぐらいがよろしいかと……」
「そうですね。これまでの争議を見ると六か月分くらいが相場かと」
「分かりました。そのお返事はするとして、何卒、弁士の牧野君たちにくれぐれもお願いいたします」。

 さあ、こうして、徳川夢声が代表となり、弁士解雇の談判が進められたのでございます。
 その夢声が武蔵野館に入ると説明部の牧野周一、丸山章治に、実はかくかくしかじかと今回の件を説明した。
 すると二人とも、落胆の色は隠せずとも

「了解しました。この件は夢声さんに一任します」

 この返事に夢声、少しは胸をなで下ろした。
 これで、武蔵野館の事業譲渡はまあ、ひと悶着くらいあるかも知れないが、滞りなく進むだろうと、そう思った訳でございます。

 しかし、三日後の六月五日、夢声は舞台の仕事で、別の劇場の楽屋で化粧をしておりました、その時でございます。説明部の牧野周一が駆け込んできた。

「夢声さん、ストライキが始まりそうです」
「とうとう来たか」
「私たちはどうしましょう?」
「君たちも参加するしかないだろう」
「了解しました」

 翌六日。時事新報の朝刊に、武蔵野館の争議勃発が大見出しで載った。
 その記事を読むと、昨日曜の五日午後二時頃新宿武蔵野館に於いて、昼間第二回目興行中、実写物を映写して次の映写に入らんとした際、突如スクリーンに幻燈で「本日より我々従業員は総罷業を結構することになりましたので、これで映写を中止します。皆様にご迷惑をかけてすいみませんが、どうか我等の争議に応援下さい、観客各位」という争議宣言の文字が映写された、と書かれている。

 一体どこで間違ったのか。弁士たちは退職金を貰って退くはずが、従業員は気勢を上げて、
「我々は、君たち弁士たちのために決起したのだ」。

 こう大見得をきられては夢声も参加せざるを得ません。
 こうして引きずり込まれる様に映画館籠城と相成ります。
 それから始まる七転八倒の籠城劇を経て六月十九日、武蔵野館の解雇撤回を勝ち取ると、見事、争議団の勝利となった訳でございます。

 ……と、勢いがあったのははここまでございまして、結局は翌年の昭和八年、徳川夢声他、武蔵野館の弁士たちは、三月いっぱいを持って武蔵野館を退職することになったのでございます。

 しかしながら、退職金だけは、最初の約束通り六か月分の額が渡されたという、徳川夢声、これだけは何とか勝取った訳でございます。

 思い返せば、夢声にとっては大正十五年より始まった弁士生活、時代の波にさらわれて、流されて、結局、活動弁士という職があえなく泡と消えた訳で、数えれば十九年七か月を持って、終止符を打ったのでございます。

 しかし、時代は昭和初期、時代の進歩が、トーキー映画始め、様々なメディアを作り上げていた時代でもございます。
 今度は新しい時代の波が徳川夢声をさらって参ります。

 簡単に紹介しますと、弁士廃業と同時に始まった映画出演に、弁士時代から続くアチャラカ芝居の舞台「ナヤマシ会」も好評を博し、小説に随筆と成果を上げ、そして、弁士と同じ話芸と言えば、外せないのがラジオ出演でございます。

 昭和直前、大正末期の十四年から始まったラジオ放送。
 当時のラジオ放送といえば、NHKの一局のみで、開局当初は東京芝浦の仮放送所から番組を放送しておりました。そこでは、一つ一つラジオ放送の土台を、試行錯誤しながら創り上げていたという時代でもありました。

 時は、大正十四年三月のことでございます。
 徳川夢声は、ラジオで「シラノ・デ・ベルヂュラック」の説明を担当することになった。
 「シラノ・デ・ベルジュラック」と言えば、長い鼻がコンプレックスの騎士の映画でございますが、徳川夢声が話すその演目について、ラジオ局の煙山二郎が夢声に相談を持ち掛けた。

「夢声さん、この演目は何て書いた方がよいでしょうね?」
「どういうことです、演目とは?」
「ほら、落語なら落語何々とかあるでしょう。義太夫何々、洋楽何々とかあるじゃないですか。この『シラノ・デ・ベルジュラック』も、いきなり『「シラノ・デ・ベルジュラック」をお聞き頂きます』ではちょっと……。どうでしょう演題の前にもいい演目の名前がないですかね」
「そうですね。映画説明ではいかがでしょうか」
「説明ですか……。映画を観るなら説明でしょうけど、ラジオでは説明ではないと思うのですけど」

 確かに煙山の考えは尤もでございます。あれこれと考えていると、当の煙山が思いついた。

「そうだ、『映画物語』ではどうでしょう」

 映画物語「シラノ・デ・ベルジュラック」、これは何ともしっくりくる。 
 これには徳川夢声も「なるほど、それでいきましょう」と二つ返事。
 ラジオ放送黎明期、こうして、番組を一つ一つ創り上げていった時代でもございます。

 こうしたラジオ放送の濫觴に、徳川夢声は弁士活動と並行しながら、洋の東西問わず、物語ものを朗読しておりました。

 さらに徳川夢声、その頃から、朗読用台本も自作しておりました。
 自作と言っても、赤鉛筆と青鉛筆を持ち出して、物語の書いてある本に、カットする部分、協調する部分に線を引いていく。
 それを朗読したんだそうで、本人曰く「文章の編集」をして、朗読台本を作成していたんだそうでございます。

 さて、NHKの放送と言えば、宣伝広告はご法度というのはご存じの通りでございますが、放送開始当初からも同様でございます。
 昭和七年六月十八日、徳川夢声と、戦前を代表するコメディアンの古川ロッパとの二人漫談「1932年の風景」という三日に渡る番組のことでございます。

 番組内容は二人が東京の盛り場を三日に渡り三か所を巡るという掛合いもの。その盛り場三か所が、銀座の銀ブラ、浅草の浅ブラ、新宿の新ブラというものでございます。
 当代きってのコメディアン古川ロッパと夢声ですから、そのお喋りと内容に期待が高まるところですが、これが、放送中、六回も切られた。

 「切られた」というのは放送不適格な言葉が混じり、放送を切られたということでございます。
 一体何が放送不適格なのか、それは、「三越」や「松坂屋」、「資生堂」など、百貨店やブランドの「固有名詞」が出たからでございます。
 これには夢声とロッパも大弱りでございます。

「夢声さん、お題は銀ブラですよ、三越や松屋を出せずして、銀ブラの雰囲気なんか出せますか」
「実にその通りだ。三越や資生堂に寄らない銀ブラなんて、イモを使わぬコロッケ、卵を使わぬ玉子焼きってなもんだよ」

 そうくさりますが、明日からは浅草、新宿とある訳でございます。

「しかし夢声さん明晩の放送はどうしましょうか」
「さあそれだ、固有名詞を出さずして浅草の雰囲気を出さなければならないが…」
「そんなこと出来ますかねぇ」
「それは一寸、不可能かも知れんぞ」
「これが劇場なら、『ええい、辞めちまえ』と行けるんですが、相手が相手だけに投げ出すこともできませんし」
「全く始末が悪いもんだよ」

 結局、徳川夢声と古川ロッパ、翌日明朝、二人して浅草へ出向き、材料を集めて、放送したということでございます。

 そんな失敗なんかも繰り返しながら、昭和十八年、ラジオでの夢声の代表作ともいえる朗読劇が誕生した。
 それが、ご存じ吉川英治原作「宮本武蔵」でございます。

 実はこの「宮本武蔵」、夢声は昭和十四年と十五年の二回、連続ものとして放送しておりました。
 しかし、その時は演者が複数人おりまして、それが順繰りに朗読するというもので、夢声自身、朗読を完遂したとは言い難いものでございました。
 それが、今度は夢声一人での朗読でございます。

 今回、「宮本武蔵」が再登場した、その背景、そこには、戦争という非常事態が深くかかわっておりました。

 ラジオ局での会議室、制作会議はどうにも行き詰っておりました。そこでとうとう制作部長がぶっちゃけた。

「夢声さん、もうこうなれば、『宮本武蔵』でいいんじゃないかと思うんですがね」
「また武蔵ですか?」
「ええ、またですよ。何しろ軍部からの検閲は無理難題ですよ。この戦局で、西洋ものはもちろん、色恋ものも駄目、購買欲を刺激するものも跳ねられる、これで何をやれというんです。『宮本武蔵』ならラジオを聴いている人の評判も良いし、もうこれでいんじゃないかと思うんですよ」
「まあ、それは仕方ありませんね」

 昭和十八年と言えば、検閲が厳しくなっていく時代でございます。
 当時、人気歌手、小唄勝太郎の「島の娘」で「娘十六恋ごころ」という歌詞があり、これがけしからんと改正させられたというほどでございますから、演題選びにも相当苦労した訳でございます。

 そこで、無難なのが「宮本武蔵」だったという訳でございます。
 そんな事情もよく承知している徳川夢声でございますから、「宮本武蔵」の提案を素直に受けた訳でございます。

 しかし、ただ演じるのでは工夫がない。

「あの、すいません」
「なんでしょう、徳川さん」
「今回の武蔵ですが、出来れば素バナシで行きたいのですが、どうでしょうか」「素バナシ。音楽や効果音を付けずに話す、あの素バナシですか?」
「はい、その方が『宮本武蔵』の素材が生きるかと思うのです」
「なるほど、分かりました、それで行きましょう」

 BGMや効果音を付けずに己の話芸で勝負できる素バナシ。
 装飾の少ない放送の方が、聴く人を引き付ける朗読が出来るのではいないか。徳川夢声はそう感じておりました。

 さらに、朗読する部分も吟味いたします。
それは、色恋の出るお通の話や、だらしなさが可愛い又八の話、こんなところは放送に不適格でございます。

 さらに、夢声の好みの話、それは武蔵が無敵のヒーローと描かれるところではなく、一人の人間として弱みや苦悩が滲み出る話で、そこは、水の巻の宝蔵院の槍の様な話でございまして、第一回目の放送では、その話に絞ったのでございます。

 そして時は、昭和十八年、九月五日。夢声自身のこだわりが詰まった「宮本武蔵」の朗読が始まった。
 吉川英治の綴った「宮本武蔵」が、徳川夢声の話術、夢声の間で語られたのでございます。

「敗けた。おれは敗れた」。暗い杉林の中の小道を、武蔵はこう独り呟きながら帰っていく。時折、杉の木陰を、迅い影が横に飛ぶ。彼の跫音に驚いて駈ける鹿の群れだった。

 宝蔵院を後にする宮本武蔵、その情景を徳川夢声の声は見事、描き切ったのでございます。
 これが回を追うごとに評判が高まる。そして、昭和二十年、寒の厳しい一月十五日、巌流島の決闘を持って「宮本武蔵」放送終了したのでございます。

「雪の夜 長き武蔵を 終わりけり」

 夢声はそう感慨を一句に認めたということでございます。

 素バナシで挑み、自分の間を掴んだ徳川夢声。この経験をこう語っております。

「『話術』とは『間』を以て生命とするものだ。『間』さえ巧くとれて居れば、ノッペラボーに喋っても、聴く人を引き付ける力を持つ。私は今や、そう信じている。そうした信念を得たのは、この『宮本武蔵』の体験からである」

 トーキー映画の出現で活動弁士の廃業しなければならなかった徳川夢声でございますが、ラジオという新しいメディアが、その話術の極意を夢声にもたらしたのでございます。

 徳川夢声が己の話術を掴むまでの長い一席。お付き合いありがとうございます。

                                完


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