【昭和講談】三波春夫「歌の道、ひたすらに」 第一回(全三回)

 えー、ここからは錦秋亭渓鯉で、昭和の埋もれた歴史を掘り起こす「昭和講談」で、お付き合いのほど、お願い申し上げます。

 さて、浮世を賑わす流行歌に、「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉がございますが、時代につれて、歌も随分と変わって参ります。
 明治、大正、昭和の戦前と、隆盛を誇った「浪曲」という日本の歌も、時代の波に流されて、お若い方には随分と遠いものになってしまったのではないでしょうか。

 ところが、その浪曲を、歌謡曲と融合させ、昭和の時代に見事な作品を創り上げた歌手がございまして、その歌手の名を、三波春夫と申します。

 三波春夫と言えば、真っ先に思い浮かぶのが、あの言葉、「お客様は神様です」。この名文句を思い浮かべる方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。

 「お客様は神様です」、この言葉が生まれたのは昭和三十六年の春、とある地方の体育館での、ショーの途中のインタビューでのことでございます。
 舞台には司会の宮尾たかしと三波春夫の二人が立っておりまして、

「どうですか三波座長、この会場の熱気は? 嬉しいですね」
「ええ全く。僕はさっきから悔やんでいるんですよ」
「それはどうして?」
「こんないい所、なぜもっと早く来なかったのだろうと」

 この三波の一言で会場がワアッと沸く。ここまではいつもと同じ構成でございますが、ここで宮尾たかしが付け加えた。
「三波座長はお客さんをどう思いますか?」

 偶然かけたこの問いかけに、三波春夫、咄嗟に、

「僕は、お客様は神様だと思います」

 客席から沸上がる様な拍手が起こる。
「カミサマですか?」
「ええそうです」

 そこで宮尾がフォローを入れた。
「なるほど、日本には沢山の神様がいらっしゃる。お米を作る神様から、ナスやキュウリの神様に織物を作る織姫様、あそこには子供を抱いている慈母観音様、中にゃうるさい山の神なんてのも」

 このくだりが受けて、それ以来、このパターンが続く様になります。すると、
「おい、三波春夫がお客様は神様だと言ってるってよ」

 そんな噂が立ち、テレビでも取り上げられ日本中に広まったという訳でございます。

 が、しかし、この「お客様は神様です」が独り歩きしますと、厄介なことも起こる訳でございまして、
「おう、俺は客だぞ。『お客様は神様』って言うだろ! この野郎」

 お客さんが店員に難癖を付けるなんてことも、あちこちで聞こえる様になる。
 こんな歪んだ解釈に心痛めた三波春夫。後に、「お客様は神様です」の言葉の意味に、さらに説明を加える様になったのでございます。

「私は歌う時、あたかも神前で祈る時の様に雑念を払って、心をまっさらに澄み切った状態にしなければ、完璧な藝をお見せすることはできないのです。ですから、お客様を神様と観て歌を歌うのです」

 完璧な藝をお見せるため、あたかも神前で祈る時の様になんて、なかなか言えたものではございません。
 己の歌、これを歌藝と称し、ただひたすらに修練重ねていく。それが、三波春夫という歌手の生き様でございます。


 三波春夫、本名、北詰文司。生まれは、大正十二年七月十九日、新潟県越路町、今の長岡市中部に位置する、その越路町で、文房具や印刷を商いする店の次男坊として生まれます。

 十三の時に商売が傾き、一家共々東京へ移住すると、文司は家計を助けるために米問屋から製麺所、そして、最後は叔父の店である魚河岸の魚問屋と、転々と奉公に出るが、その奉公の間に覚えたのが、浪花節、つまり浪曲でございます。

 この浪花節というのは、曲の部分である節と、台詞の部分である啖呵とを巧みに組み合わせ、人間ドラマを歌い上げるというものでございまして、大正に入り、浪花節から浪曲へと名前を改めたという、日本の歌、邦楽のことでございます。

 北詰文司は、米の配達の途中で、電気店から流れる浪曲のレコードにあっと言う間に夢中になり、ひと月小遣い五十銭という時に十銭はたいて浪曲集を買求め、一心不乱に浪曲を覚え込んだといいます。

 月日は進み、魚河岸勤めのある日のこと。魚問屋の大将で、これまた大の浪曲好きという、小峰甚太郎に連れられて、浅草の劇場へ、浪曲界の大看板・寿々木米若の舞台を観に行った時のことでございます。

 声も節も至芸の域、寿々木米若の唸る「佐渡情話」に、北詰文司がすっかり酔い痴れておりますと、その文司を、周りの者がちらちら見ている。

「何だろう、不思議だな」

 そう思った時、小峰甚太郎が声をかけた。

「おい文司、文司よ。お前さん、声に出てるよ」
「え?」
「お前さん、唄ってんだよ」

 この一言に驚く文司、知らぬ間に寿々木米若の節に合わせて自分も歌っていたのでございます。そして、この一件で文司は、

「ああ、何としても、私も浪曲で身を立てたい」

 そう自分の気持ちに気づいた訳でございます。
 自分の気持ちに気づくと、人間はそのことばかり考えてしまうもので、ある時、仕事の帰り道に「浪曲学校」の看板を見つけると、居ても立ってもいられず、父親と魚問屋の叔父の承諾を得て、その浪曲学校に入学した。

 朝は魚河岸、夜は学校の毎日、しかも、学校が始まる三時間前には独り教室に入り、大声で浪曲を唸っているというのめり込み様でございます。

 そして、ひと月後に、学校主催の浪曲大会に出演が許されると、そこで「南条文若」の芸名を貰う。
 北詰文司、改め南条文若、この時十六歳。いよいよ浪曲界への船出でございます。

 そこから方々の劇場へ出演する様になると、ある日、あの浪曲好きの小峰甚太郎から声がかかった。

「よう、南条文若さんよ、仕事が終わったら家に来なよ」

 なんだろうと思って小峰の家を訪ねると、六畳の客間をひょっと見る。するとそこには白地の綿のテーブル掛けが畳の上に広げてあった。

 浪曲は、演台にこのテーブル掛けをかけて唄うものでございますが、その形がいい。
 演台を覆い、その下の、舞台で広がるその姿、まるで富士の裾野の末広がり。
 白の布地をずらっと見れば、左の上には「南条文若丈江」の文字。中央には南条文若と魚市場の印が入り、右の裾野に「魚市場近海第二売場有志より」と書いてある。
 実に見事な、魚市場の仲間が誂えてくれたテーブル掛けでございます。

「市場の奴らに一声かけたらよ、河岸の大将方は喜んで出してくれたんだよ。南条さんよ、しっかり浪花節を勉強して大きくなりなよ」

 この小峰甚太郎の言葉に南条文若、あふれる落を止められず、

「ありがとうございます。一生懸命頑張ります」

 何度何度も頭を下げて、礼を言っていたということでございます。


 さあ、若き浪曲師、南条文若は、十七になるとプロに転向し、さらに、一年後には座長となり、静岡、大阪と、巡業の旅に明け暮れて喉を鍛えて参ります。

 しかし、浪曲師としての道を順調に進むかと思いきや、昭和十九年、招集礼を貰ってしまい、二十歳の南条文若は、本名の北詰文司に名を戻し、北満、つまり満州北部の戦線へと送られたのでございます。

 北満の弾丸飛び交う戦線で、北詰文司は周りから、浪曲上等兵と呼ばれ、

「おい北詰、一席頼むぞ」

 上官、仲間に頼まれる度、「はいっ!」と喜んで浪曲を歌っておりましたが、昭和二十年八月十五日の終戦で捕虜となった。

 捕虜となった北詰文司、日本に帰れるかと思いきや、船に揺られてハバロフスクへ、そこからさらに奥へと送られて、着いたところが秋のシベリア。 もう寒風が吹きすさぶその大地。北詰文司、強制収容所へと、送られたのでございます。

 帰国叶わぬ絶望と、堅く凍った大地を削る重労働、食事と言えば、堅い黒パンと塩水のスープ、それを涙と共に食べる日々、収容所は重く冷たい空気で、みな無口でございます。
 そんな暗い、重い空気の中で北詰文司、

「今、私に出来るのは浪曲で皆を元気付けることなんだ」

 そう気持ちを奮い立たせて、机に日章旗をかぶせ演台にすると、元禄忠臣蔵の内「俵星玄蕃情けの槍」を一席、声高らかに歌い上げた。
 歌い終わるや、拍手と喝采が吹き荒れる。この一件で、夜ともなれば、北詰の浪曲が収容所に響き渡ったのでございます。

 毎夜毎夜の文司の一人浪曲大会。ネタが尽きれば自作の浪曲を披露した。しかし、そんな浪曲も、月日がたてば飽きが来る。
 北詰の熱演をよそに、一人二人と就寝していく。すると、かつての重い空気が漂い始める。

「浪曲だけでは皆の興味が薄れていく。このままではだめだ」

 そこで文司は決意して、浪曲を一時中断し、演劇へと切替えた。
寛一お宮の「金色夜叉」を土台にした簡単な喜劇。だが、いざ演じると、皆の目の色が瞬時に変わった。

 拍手と笑いが、収容所内に響き渡る。さらに、劇が終わると仲間から、
「おい北詰、俺も出してくれ」
「何か手伝えることはないか」
「合唱くらいなら俺もできるぞ」

 浪曲は聞くだけだが、演劇なら自分も参加できる。我も我もと手を挙げる仲間たち。その高まる熱気に、

「大衆演芸というのは何て熱いエネルギーを持ったものなんだ」

 北詰文司、改めて芸能の力を感じたのであります。
 毎夜盛り上がる北詰劇場、評判が評判を呼び、文司の浪曲と演劇は、各地の収容所で演じられるほどに広がりを見せていったのでございます。

 そして、昭和二十四年九月、北詰文司は舞鶴港に降り立った。夢にまで見た本土復帰を果たしたのでございます。
 さらに、シベリアでの過酷な労働と必死の芸能活動で、北詰文司、復員時には、二十六歳の堂々たる芸人となっていたのでございます。


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