【昭和講談】花登筐「番組の主導権を握れ!」 最終回(全三回)
花登筐が協和広告と共同で企画し、獲得したコメディ番組「やりくりアパート」。
その内容をざっとご説明いたしますと……、その舞台は、大阪の下町。通天閣の見える場所に建つ、アパート「なにわ荘」、そこを舞台に大村崑、佐々十郎、茶川一郎の学生三人を中心にしたドタバタコメディでございます。
さあ、その放送時間と言えば、日曜夕方六時からの三十分。
これは当時のゴールデンタイムでございまして、新進作家と無名役者にはこの上ない舞台でございますが、放送局の大阪テレビからは怪訝の声が漏れてくる。
「花登筐いうのは、前に打切られた作家やろ。大丈夫かいな」
「あんな若い奴に脚本任せて大丈夫かいな」
そんなひそひそ話があちらこちらで聴こえて参ります。
しかし、花登はそんな陰口、歯牙にも掛けない。
「これは私が企画し、提案し、獲得した番組や。私が主導権を持つのが当然やろ。言うなら私の番組や」
時は、昭和三十四年四月六日、いよいよダイハツ工業一社提供の、コメディ「やりくりアパート」が始まった。
お茶の間はこれまでと違う新しいコメディ番組に飛びつき、見る間に視聴率はうなぎ登りに登っていった。花登はこの結果に思わず拳を握って喜んだ。
「やっぱり、こっちの思った通りや。コメディのドタバタ喜劇は受ける。これまでやってきたことは間違いやなかったんや」
さらに、評判を呼んだのはダイハツのオート三輪「ミゼット」の生コマーシャル。
オート三輪「ミゼット」を前に佐々十郎が紹介し、大村崑が横で「ミゼット、ミゼット」と連呼する。このCMが受けに受けて、ミゼットの売上も絶好調。花登筐の躍進が始まったのでございます。
さて、この頃、大阪ではテレビ放送網が急激に変わり始めていた時期でもございました。
大阪テレビ放送は出資元の朝日放送と毎日新聞に分かれ、朝日放送もラジオだけでなく、テレビにも進出。大阪テレビを吸収した。
そして、毎日新聞は新しいテレビ局「毎日放送」を開局したのでございます。
ダイハツ提供の「やりくりアパート」は、朝日放送が継続して放送いたしまして、そして、毎日放送では、これも花登筐の作・脚本の「番頭はんと丁稚どん」が、昭和三十四年三月からスタートいたします。
さあ、この「番頭はんと丁稚どん」、これも大阪コメディを代表する番組でございます。
大阪の薬問屋を舞台に、丁稚の大村崑、茶川一郎、芦屋小雁が務め、丁稚をいたぶる番頭役に芦谷雁之助と、東宝のテレビ課制作のドタバタコメディでございます。
「よし、この商人ものは、劇場でもウケが良かったネタやし、テレビでもウケるはずや。コメディはこれから、時代を引っ張る番組になるで」
花登筐の狙い通り、この「番頭はんと丁稚どん」も「やりくりアパート」を超えんばかりの視聴率で、当時、50%を超す数字を記録したというほどでございます。
まさに、東宝に花登ありと言わしめる成果を出し、花登は十本以上のレギュラーを抱え、忙しい日々を送ることになったのでございます。
そんな時でございます。大阪梅田にある、こちらも東宝系の劇場「梅田コマスタジアム」、通称「梅田コマ」から連絡が入った。
劇作家の重鎮、菊田一夫の舞台に、「やりくりアパート」出演中の子役、中山千夏を貸して欲しいとの報せでございます。
「菊田先生のお眼鏡にかなったとは喜ばしいことや。中山千夏にとっても、先生の下で成長できるいい機会になるやろう」
花登筐は二つ返事で快諾します。当時生放送だった「やりくりアパート」にも、梅田なら、穴を空けることなく出演できるという考えもあった訳でございます。
ところが、舞台千秋楽を終えた翌日、梅田コマから東宝に連絡が入った。
「すいませんけど、菊田先生の書下ろしの舞台『がめつい奴』が東京の芸術座であるんですけど、中山千夏さんを貸してくれませんやろか」
この連絡に花登は唖然し、憤然し、猛然と反対した。
「彼女は『やりくりアパート』に出演しているんですよ。東京の舞台に持っていかれたら、大阪に帰って来られないでしょう。絶対にダメです!」
当時はまだ新幹線もない時代で、東京から大阪への移動は一日がかりでございます。
花登の言い分も一理ござますが、困りはてのは、菊田一夫と花登の間に立った、梅田コマと東宝のテレビ課でございます。
あの手この手で説得するも、花登はがんとして首を縦に振らない。困り果てた東宝は、自社の梅田コマの社長・松岡辰郎に説得を願い出たのでございます。
ところは梅田コマ社長室。社長の松岡辰郎と言えば、東宝創業者・小林一三の次男でございますが、松岡家へ婿養子入りし、松岡姓となっております。椅子に深々と腰掛け、肘掛けに肘をつき手を組んだ松岡社長が花登筐へ問い掛けた。
「花登君、君は東宝の専属のはずだ」
「はい、左様です」
「なら、東宝の指示には従うべきではないかね」
花登は口には出さず心の中で、
「その東宝のために、どれだけ台本を書いて、儲けさせているか松岡社長はご存じか」
そう言いたかったがぐっと堪えて社長に尋ねた。
「松岡社長、もし、私が東宝の命令に従わなかったら、どうなりますか?」
「無論、会社にはいられなくなるだろうね」
「それは、つまり…、悪貨が良貨を駆逐するんですね」「悪貨が良貨を駆逐する」。
悪人が跋扈し善人が圧迫される、まことに刺激の強いことわざでございます。この場合、善人は誰で、悪人は誰か、言わずもがなでございます。
さすがの松岡社長も眉がぴくっと動いたが落ち着き払って動じない。これを見た花登筐、これでは話にならんと踵を返して社長室を後にした。
さあ、あれだけの啖呵を切ってしまえば花登筐は東宝にはいられない。
これに東宝テレビ課は大慌てでございます。
「どうすねん。『やりくりアパート』に『番頭はんと丁稚どん』と、色々と花登の企画・台本ばっかりやで。東宝から出てもうたら東宝制作の番組がのうなってまうやないか」
東宝はてんてこ舞いでございます。一方、花登自身も不安だった。
「ううむ、東宝を離れたら、もう仕事依頼が無くなるのではないか」
しかし、商売にかけては船場でもまれた花登筐。この一大事に、何と、東宝のライバル、松竹に接触を計ったのでございます。
事情を聴いた松竹関西演劇担当の重役・白井昌夫、この人は松竹社長・白井松次郎の次男でございます。
「花登君、事情は分かった。どうだろう、松竹の下で劇団を作ってはどうだ」
「白井さん、ありがとうございます。感謝いたします」
色よい返事を貰った花登はすぐさま大村崑、芦谷雁之助、芦屋小雁を引連れ、松竹の支援で劇団「笑いの王国」の創設準備を始めます。
一方、テレビ番組では、「やりくりアパート」「番頭はんと丁稚どん」の放送継続が決まり、制作は東宝テレビ課、それに一部、花登の劇団「笑いの王国」も制作に加わり、花登にも利益が回って来る様、処理された訳でございます。
東宝との専属が解約となった花登筐でございますが、各方面への迅速な根回しと粘り強い交渉で、松竹援助の下で劇団「笑いの王国」を創設し、結果、東宝を離れても仕事を継続できた訳でございます。
「東宝との喧嘩は望むところではないが、役者も揃えて劇団も創設できた。番組制作の利益も出た。この喧嘩、こっちの勝ちと言ってもええんやないか」
今回の結果に満足げな花登筐でございます。しかし、昭和三十四年九月、「笑いの王国」旗揚げ公演でのことでございます。
満員の劇場で、花登筐が緞帳前で挨拶した。
「ええ、コメディアンというものは客前でこそ育てられるものでありまして、この『笑いの王国』がその舞台となる様に頑張って参りたいと……」
そう劇団立上げの趣旨を説明し、会場から大きな拍手を貰ったのでございます。
するとその翌日、協和広告から電話が掛かってきた。
「花登センセ、ダイハツの和田常務からお呼びです」
訳が分からず、ダイハツ工業に足を運んだ花登と協和広告の担当者。
重役室で待っていた和田常務から言われたのが、
「私たちダイハツはテレビ番組を求めているのであって、劇団の応援をするつもりはありません」
ダイハツ工業としては、「やりくりアパート」の提供は、ダイハツのオート三輪「ミゼット」の売上向上のため。
その宣伝活動から外れた、花登の「笑いの王国」でございます。
ダイハツ工業から見れば、それは「ウチの番組を利用した」行為で、とうてい看過できなかったのでございます。
これを聞いた花登筐。
「しまった!」
そう心の中で声を挙げたが、後の祭りでございます。
結局、「やりくりアパート」の終了が、ここで規定路線となったのでございます。
東京での視聴率も上がり、東西視聴率一位を取るほどの人気ぶりでございましたが、スポンサーの逆鱗に触れては番組継続など無理なこと。
「ああ、何て迂闊なんだ。番組はスポンサーの提供があってこそだと勉強したはず。それが、スポンサーに相談一つせずに、東宝との喧嘩に明け暮れるなんて。何てことをしたんや」
花登筐は、今回の件を考えれば考えるほど、悔恨の二文字に胸を締め付けられるばかり。
改めて、テレビ番組が、如何に多くの利害が入り混じり、放送されているかを、痛感した訳でございます。
幸い、ダイハツのコメディ路線はその後も継続し、花登が台本を担当することになりましたが、「笑いの王国」では、ダイハツコメディに関連した舞台は制作しなかったそうでございます。
さて、東宝とのいさかいから十年経ちまして、花登は、東宝の社長となった松岡辰郎と和解、東宝の役員にも就任したりいたします。
そんなある時、若い放送作家との食事の席で、こう忠告したといいます。
「君な、書くんやったら小説が一番やで。単行本になれば印税が入る、舞台や映画、ドラマになれば、その権利料も入る。一粒で何度も美味しいことがある。それに比べてテレビ台本なんて、一本幾らで安く買い叩かれる。こんな割に合わん仕事はないで。でもな、テレビはショーケースや。自分の力を多くの人に見せようと思ったらテレビほど強いもんはない。テレビを甘くみたらあかんで」
誰よりもテレビの本質を見抜いていた放送作家、花登筐。その物語の一遍でございました。
長い一席、お付き合い頂き、まことにありがとうございます。
完