【昭和講談】永田雅一「砂上の映画楼閣』」 第二回(全三回)

 大映社長に就任した永田雅一はその翌々年の昭和二十七年、映画産業振興会の会長にも就任いたします。
 益々盛んに映画製作に邁進し、同年の九月には、日本映画史にもその名を残す五社協定を発足させたのでございます。

 五社協定とは、映画製作会社の五つ、大映、松竹、東宝、新東宝、東映による協定でございまして、その中身はと言えば、「俳優、監督、スタッフの引抜き、貸し借りの禁止」でございます。
 映画会社にとって人気俳優や有名監督は大事な宝ですから、会社が守るのは当然でございます。しかし、この五社協定にはもう一つ、永田の思惑もあったのでございます。

 ところは東京駅八重洲のホテルの一室。白のクロスがかけられた大きな円卓に五社の代表が座し、その中で一人起立した永田が各社の代表に念押しを致します。
「皆さん、近い内に日活が映画製作に戻ってくる。この五社協定は日活への防衛線であることを忘れない様に」

 日活株式会社。言わずと知れた老舗映画会社でございます。しかしながら、戦時中は、映画産業の整理統合という憂き目に遭い、それからは、外国映画の配給に従事しておりました。
 その日活が、再び、映画製作へ乗り出さんと動き出し、その準備として、大映や松竹、東宝などから俳優、監督、スタッフを引き抜こうとあの手この手で画策していた訳でございます。

 この情報を掴んだ永田雅一。
「我々が金と時間をかけて育て上げてきたスターや監督を引き抜こうとは、まるで泥棒猫の如き所業ではないか。絶対に許さんぞ」

 さあ、怒り収まらぬ永田は松竹、東宝、新東宝、東映の四社を巻き込み防御策を図る。
 これが五社協定という訳で、永田の頭には「互いに話合い歩み寄る」なんて考えはこれっぽっちもなかった。
 しかしながら、この協定が新たなるライバルを生むことを、永田は全く予想だに出来なかったのでございます。

 日活との激しい攻防戦もひと段落した昭和三十一年の冬、雪が舞い散る寒い朝、大映本社社長室での定例会議でのことでございます。
 永田雅一はいつもの様に社長椅子にでんと座り、静かに頷きながら各部署の報告を聴いておりますと、営業部部長 中野淳史の報告でふと耳が留まった。
「おい、今のもう一度言ってくれ」

 営業部長は恐々再度報告致します。
「はい。テレビ局の方から映画フィルムの貸し出し料で相談できないかという話がありまして……」

 見る間に永田の顔が真っ赤になった。
「それはどういうことだ!」

 これより遡ること三年前の昭和二十八年、この年の一大エポックと言えば、NHKと日本テレビによるテレビ放送の開始でございます。
 しかし、当時、テレビ放送はまだ黎明期。番組を増やそうと躍起になっておりまして、そこで、映画会社にフィルムを借りて日本映画をテレビで放送していた訳でございます。

 そして、三年後のこの年、このフィルムの貸出料について、テレビの担当者が、もう少し安くならないかと相談を上げた訳でございます。

「えぇ……、先方は『どうせ倉庫で埃をかぶっているフィルムなんだから、もう少し安くしてもいいでしょう』と……」
「な……、そんなことを言ったのかっ?」
「いえ、そう言いたそうで……」
「ふざけるな!」

 もう怒り心頭で、永田は手あたり次第の書類を投げつける。

「我々が身を削り魂込めて作り上げた作品を愚弄するなど言語道断! 絶対に許せん。もう誰がテレビごときに貸すものか。良いか、大映だけでないぞ、五社共闘で映画の貸出を止めてやる」

 とうとう五社でテレビ局へ映画の貸出を止めてしまいます。さらに、映画スターのテレビドラマへの出演も厳禁と通達したのでございます。

 いくら映画スターが会社の宝といえども、他社の映画だけでなく、テレビドラマにも出られないでは、あまりにも束縛がきつい。マスコミも一斉に報じます。
 しかし、永田はどこ吹く風で相手にしません。
「良い企画、良い映画でこそ、俳優・女優は輝く。良い映画を作ればそんな不満は出てくる訳がないのだ」

 しかし、時代の流れは永田の思惑通りとは進みません。
 時は昭和三十七年七月、ジメっとした雨の日でございます。大映の看板女優・山本富士子の契約問題が立ちあがった。

 もともとは永田と交わした契約に、二本だけ他社の映画出演を認めるとあったのですが、それをいいことに、山本富士子の周りの者が出演話を勝手にまとめたのですが、これが、大映には一言も無しに進めたものだった。
 しかも、既にその出演料の一部を受け取っていたことも発覚いたします。

 さあこれは一大事、山本富士子側は、大映に対し代行人を立て、これら万事を何とか了承してもらおうとした訳でございます。

 これを聞いた永田はまたも大噴火でございます。
「ふざけるな! 無断で出演を決め、しかも本人が詫びを入れず、代行人をよこすなど生意気千万だ!」

 裸一貫から万事体当たりで突き進んできた永田にとって、代行人の後ろに隠れ、物事を進める卑怯なやり方など到底理解できない。
 結局、この問題は揉めに揉め、山本富士子は大映を追われてしまいます。

 喧嘩別れしたとはいえ、大映の看板女優、映画スターですから、その次は引く手数多かと思えば、そこは永田雅一、先手を打って全ての映画会社に山本富士子を使わせない様に圧力をかけた。

 しかし、そんな中で東宝は、映画が駄目なら舞台でも、と山本に手を出したが、永田はその舞台も裏から手を回し潰してしまいます。

 永田雅一の、ワンマンかつ唯我独尊ぶりに、他の映画会社や興行主は完全な及び腰でございます。
 さあ、追い詰められた山本富士子が永田に詫びを入れ、許しを請うかと思われたその時、救いの手を差し伸べたのがなんとテレビ局だった。

 それは、TBSのプロデューサーで、あの「渡る世間は鬼ばかり」など数々の名ドラマを生んだ石井ふく子でございます。
「山本富士子さん、どうでしょう。テレでならあなたの演技を活かせると思いますよ」

 この誘いに乗らない訳がない。これで山本富士子は東芝日曜劇場「明治の女」に出演し、その後、テレビに活躍の場を移します。

 映画で干されてもテレビが受け皿となる。むしろ、積極的にテレビに挑戦することもできる。
 皮肉にも、永田が打った追い込みが俳優、女優の活躍の場を拡げた訳でございます。

 この一連の流れがあった昭和三十年代、テレビの台頭が、映画会社の土台を崩す大きな風になっていったのであります。


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