彼女とネパールとインドカレーと秋の夜
秋の風が少し心地よく感じられる夕暮れ時、僕はいつものインド料理屋に足を運んだ。 大阪の路地裏にひっそりと佇むその店は、入り口のガラス扉が少し曇り、外からは店内の様子がわからない。でも、中に入れば、ほんのりとしたスパイスの香りが心を落ち着けてくれる。ネパール人店主のラジュとは長い付き合いだ。彼は僕を見ると、目を細めて笑い、「キーマカレーとチーズナン」でいいね?」と問う。
僕がうんと答えると、彼は厨房に消え、店内はしばし静けさに包まれた。ふと目の前のテーブルに目をやると、一人のネパール人らしき女性がいた。彼女は、淡いブルーのスカーフを首に巻いていた。 顔立ちは整っていて、その瞳には遠くを見つめるような、少し憂いを呈した光が宿っていた。
カレーが運ばれてきた頃、僕と彼女は、ふと偶然目が合った。彼女は少し照れくさそうに微笑む。「こんばんは」と彼女が口にする。僕もそれに応じて「こんばんは」と返す。それから、何かが動き出すように、以降は片言の英語で会話を始めた。
「インドカレーは好きですか?」と彼女が尋ねる。
「はい、よくここに来ます。大阪で一番美味しいキーマカレーだと思います。それで、あなたは?」 僕は微笑みながら言葉を返した。
「ああ、私も好きですよ。しかし今日、私は何か新しいことに挑戦します。パラック・パニール。 友達が勧めてます。」彼女は頬に手を当てて、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「良い選択だね。」僕はそう言いながら、カレーを一口すくい、口に運んだ。スパイスの辛さとコクが舌の上で広がって、チーズナンの柔らかな味わいがそれを優先している。心地よい暖かさが体中に染み渡るような気がした。
会話は途切れ途切れだが、しかしぎこちなさを感じることはなかった。彼女の笑顔が、秋の夕暮れの中で穏やかな暖かさを感じさせてくれるようだ。
「大阪が好きです。ここの人々は親切です。」
彼女は少し遠く見るように言った。
「はい、でも時々うるさすぎると思いませんか?」 僕は冗談めかして返す。
彼女は笑い、目を細めた。「生活音ですから。」
僕たちはその後もしばらく、取り留めのない会話を続けた。 彼女の片言の英語がよく理解できた。 言葉はあまりなかったが、しかし言葉以上の何かが漂っていた。 ラジュが時折、ちらりと僕らの方を見て微笑んでいるのが見えた。
僕はその瞬間、この不思議なひと時が長くは続かないことを知っていた。彼女がこの街をいつか去っていくかもしれないし、僕がまた一人でこの店を訪れる日が来るだろう。でもいい。今、この瞬間が大切なのだ。
カレーをほぼ食べ終わる頃、彼女が小さな声で「初めまして。またどこかで。」という。僕は、少しだけ間を置いてから、「はい、多分。この世は狭いからね。」と返した。彼女は微笑んで、軽く手を振った。
店を出ると、秋の冷たい風が頬をなでた。 僕は手をポケットに遊びながら、彼女の姿を一瞬だけ見る。 彼女もまた、一瞬だけこちらを振り向いて、その後、静かに歩き出した。
それが、最後のささやかな秋の夕暮れの物語だ。
彼女の姿が路の向こうに消えるまで、僕はその場に立ち尽くしていた。 街灯が淡く石畳を照らす。それが彼女の足元に消えると、秋の夜の静けさが耳を包み込む。香りがまだ鼻先に残っている。なぜだろう、胸の奥に小さな灯火がともったような、穏やかな温かさを感じていた。
私は再び店内に戻り、カウンター席に腰をおろした。 店主のラジュが、私を見てニヤリと笑う。チャイを一口飲みながら、軽く肩をすくめた。
「はい、優しそうですね。少しシャイですが、優しいです。」
ラジュは大げさにうなずいて、皿を片付けながら「また彼女に会えるかもしれない。運命ってそういうものだよ、時々」なんて言った。 彼の言葉に、僕はただ笑っていた。 僕も彼の人柄をよく知っている。
店内は静かで、スパイスの香りが漂っている。 僕は手元のカップを見つめながら、彼女の笑顔や片言の英語の響きを思い出していた。 言葉はたくさんなかったが、その一つ一つが心の中で聞こえる。彼女が大阪の街で何を見て、どこへ向かおうとしているのかはわからない。でも、あのひとときが僕にとって、そしてもしかしたら彼女にとっても、小さな記憶として残っているように思えた。
ラジュが店の片付けを終え、僕にもう一杯チャイを注いでくれた。 僕はその甘いスパイシーな香りを深く吸い込みながら、「ありがとう」とだけ言った。 彼は笑顔で返し、また厨房に戻っていった。
店を出ると、秋の夜風が頬をなでた。 路地の先には夜が広がり、遠くの街の喧騒がかすかに聞こえてくる。僕はポケットに手を入れて歩き出した。石畳が湿り気を伸ばしているのが感じられる。日常の中に埋もれた、この街の風景の一部が、今日は少し変わって見える。
空を見上げると、雲の隙間からいくつかの星が覗いている。 僕はその星に向かって、心の中でそっと「またね。」とつぶやいた。 秋の冷たい風が僕の言葉を遠くに運んでいくように感じられた。
その夜、家に帰ってベッドに横たわった僕は、なかなか眠りにつけなかった。 街の明かりが窓越しに差し込む中、彼女のことを考えた。
眠りに落ちる前のぼんやりとした時間、その瞬間、僕は短いあの出会いが、僕の中でひとつの物語として永遠に残ることを感じていた。