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実さん、ありがとう、さようなら。

2019年 9月4日 0:11 父・竹中 実が他界した。69歳だった。

病院から帰った翌朝、実家の洗面台にある汚れたT字の髭剃りを見て不思議な気持ちになった。最初は、いつもここにあるけど、なんでここにあるんだろう?そう思った。そして、すぐにこれを捨てなくては、と考える。持ち主がいなくなった髭剃りだから捨てるしかない。当たり前の話だ。

でも、それを捨てることが今はとても残酷なことに感じた。そのままにしておくことに大切な意味があるように思えた。いつもいらないものは捨てるのに。全く逆だ。

居間に戻ると近所のおじさんが来ていた。白いシャツにグレーのスラックスという簡素な格好なのに靴下だけが赤と白チェック柄だった。ずっとそこばっかりが目についてしまう。おじさんは、これからの段取りを説明してくれるんだけど、全然頭に入ってこなかった。


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肺がんに加えて、血管炎という血管に炎症を起こす膠原病の併発が発見されたのが1年8ヶ月前。最初、血管炎はよく知らないけど、肺がんなら今は免疫チェックポイント阻害薬があるから大丈夫だと安心していた。

がんは、もともと自分の細胞から生まれる。がん治療のやっかいな点は、元が自分の細胞だから身体の免疫機能が、がんを自分の敵だと認識してくれないところにある。免疫チェックポイント阻害薬は簡単に言うと、人間が通常持っている免疫力を下げてがんを倒すという治療法だ。ブレーキを外してアクセルを踏む、みたいなことを可能な限り身体に負担がないようにやる。

この治療法の研究で、本庶佑先生が2018年のノーベル賞を受賞すると新しいがん治療として一躍脚光を浴びた。僕はがん治療を取材する仕事もしていたから、この治療法が有名になる前から知っていた。

だから、家族にも父にも、今は肺がんでも良い薬があるから心配するなと伝えた。免疫チェックポイント阻害薬のひとつオブジーボを使う想定があったからだ。でも、医師の説明は違った。免疫を低下させるをオブジーボを使うと併発している血管炎の炎症が活性化するので使用できないと言われた。簡潔に言うと、オブジーボを使って肺がんを治療すると、肺の炎症がおきて血を吐いて死ぬ、と。

あまりにも理にかなった説明で返す言葉がない。狼狽を隠して家族と本人に説明するのが大変だった。この時点で宣告はステージ4。

医療関係の仕事で本当に良くしてくれてる先輩を頼って、慶応大学病院のセカンドオピニオンをお願いしたり、ほうぼう手を尽くしたんだけどやっぱり難しかった。最後は狭心症と間質性肺炎も発症した。

父はユーモアのある人だった

最後は大病をいくつも患ったけど、そこまで苦しむようなことはなかった。せん妄も殆ど無かったし、最後まで変わらず、誰かを笑わせようとする姿勢を崩さない父だった。

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いくら調子が悪くても写真を撮ろうとするとシャキっとするし、なにかとボケる。僕の奥さんが元気を分け与えようと、父に会うとハグをするようになったのだが、この習慣に父は味をしめた。

母や、看護婦さんに、ハグしようぜー!と言うようになったのだ。 瀕死のジジイの懇親のギャグ。笑えないけど、笑うしかない。そのくせ、寂しそうにしたりするので僕がハグしようとすると「なんだ!気持ちわる!おまえは、いーよ!」と真顔で嫌がる。マジでぶん殴ったろうかと思った。


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電気シェーバーでボケようとしたけど思いつかなくなって、変顔で乗り切ろうとする父。

父が亡くなってから、火葬の関係で通夜まで3日あった。その間に色んな人から沢山の父の思い出を聞いた。父には沢山の顔と名前があった。


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お祭り大好きの実さん。土浦で一番大きい祇園祭の連合実行委員長なんかも任されたりしてた。僕も小さい頃はお祭りに出ていたけど、今思うと、まわりにはパンチが強い人が多かった。

写真の右が父で、一番左の上野さんは縫製屋さん。見た目怖いけど、優しい人だった。たぶん、表の顔が縫製屋さんなだけじゃないかな。真ん中のおじさんは板金屋の南波さん。小指が無かった。子供の頃、なんで指無いの?って聞いたことがあるんだけど、お仕事の事故だよ〜って言ってて子供でも絶対に嘘ついてるのがわかった。この頃は蕎麦の大食いしたり、土鍋の蓋で日本酒の一気飲みとかして楽しかったそうだ。


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ボーイスカウト時代のみーちゃん。父は、ここでは、みーちゃんと呼ばれていた。僕はカブスカウトまで入っていたので、このボーイスカウトっていう組織をなんとなくは知っていたけど、この組織での父を知る皆さんは本当に熱く、面白く、当時の悲惨な話をしてくれた。

父は20代の頃、めちゃくちゃ怖い教官とか隊長みたいなことをしていたそうだ。隊員だった方々から、よく殴られた蹴られたとか、むりやり正露丸を飲まされたとか、本当にひどい話を面白おかしく聞かせてくれた。中には「僕の青春を返してくれ!」と言う人までいた。

でも不思議なもんで、隊員の子供達が大人になると、その人達からも"みーちゃん"と呼ばれるようになり、一緒に酒を飲む関係を築いていく。ボーイスカウトの先輩達にもよくしてもらっていたそうだ。なぜか後輩からも先輩からも慕われて、ここの関係で仕事までもらっていた。カーテンの取り付け作業の手伝いとかしたけど、ここのつながりが大きかったのは知らなかった。


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バブル期、父はエアロビクスにハマっていた。なんかものすごい。80年代後半から90年代初頭にかけて茨城県のエアロビクス大会でヒョウ柄のスパッツを履いて活躍したそうだ。優勝経験もあったらしい。子供の頃は気づかなかったが、今見るとトレンディドラマやツルモク独身寮でしか見たことのない空気を父がまとっている。

エアロビクスで知り合ったお友達にはお酒を飲むと、自分は日系三世で普段はハワイ在住というお決まりの設定があったらしく、その時の名前はミノルさんからミッキーさんに変わっていた。中国人風のマスクってこの頃からあるんだな。メチャクチャ楽しそうだ。

写真には必ずフィリピン人のミーさんという女性が写っていて、とっても関係があやしい。

家族から見る父の姿もコミカルだったが、同じくらい文化的な人という印象もあった。落語や映画が好きだったし、何よりも本の虫だった。僕の幼い頃のイメージは、家業がふとん店なんだけど、そこのデスクでアメリカン珈琲をすすりながら、タバコの煙の中でずっと難しい本を呼んでいる人だ。

後から知ったけど本のジャンルは古典芸能やルポ、戦争、イデオロギーがテーマなものまで本当に幅広く読んでいたようだ。なんとなくだが、教養の美しさは父から学んだように思う。

また、主義主張に寛容な目を持つ人でもあった。わりと自由主義。わがままだけど、何かに固執はしないし、一切の差別を嫌っていた。内容によるんだろうけど意見を押し付けたりすることもなかった。

しっかりと、父を偲びたいと思う

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喪主は長男の僕で、亡くなった次の日から怒涛の忙しさだった。気温が30℃を超えるとドライアイスを敷いても長い間は遺体を家に置いておけない。

葬儀屋さんに市営斎場の空きの状況を確認してもらって、できるだけ多くの方に訃報を知らせつつも、最短で納棺と告別式を実施しなくてはならない。寝る間を削って、生花、芳名板をいただく方々の調整をする。他にもやることはある。返礼品をどうするか、通夜ぶるまいを何人前用意するか、お寺さんへのご連絡・戒名のお願いはどうするか、役所にも死亡届ださないといけない、とにかくやることが沢山あった。

だから、泣いている暇はなかった。気を張っているしかなかった。

告別式が終わって、翌日は銀行とか戸籍関係の残務をしてから、わりと急いで東京に戻った。実家の居心地が悪かったわけじゃないが、やりたいことがあって早めに実家から離れたかったのだ。

それは母も、弟も、奥さんの陽子もいないところで故人と向き合うことだ。

一人で、父を偲ぶこと。
しっかりと、そういうことをしたかった。

もうこれを書いてる時点で偲んではいるんだけど、改めて僕には噛み締めたい写真がある。

それは、一時退院してきた時の父の写真だ。



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この写真を撮った頃、余命が3ヶ月もないことを家族はわかっていた。でも誰も本人に、この事実を話せなかった。父は強いけど臆病なところもある人で本当のことを知りたがらなかったから。

だから、父から未来の話をすることがあった。

「元気になったらみんなで鰻を食べに行こう」

「陽子ちゃんに大洗の漁港を案内してやるんだ」

「オリンピックが楽しみだな」

この写真は病床でもオリンピックを楽しみにしている写真だ。撮らなくてはいけない気がして撮った。

もう歩けもしないのに本当にやめてほしかった。
泣かないようにするのにとても困った。

もう父は東京オリンピックを観ることができない。

楽しみにしてたけど、本当にもう観ることができない。
全部、叶えられなかった。

この当たり前のことが、とても悲しい。


でも、いつまでも悲しんではいられないんだな。

まだうまく処理できないでいるけど、この人がもっと観たかったもの、もっと触りたかったもの、もっと感じたかったものを代わりに家族で引き継いでいこう。そして、それを目一杯楽しんで生きていこう。

あー、なんか、ようやくまとまったかな。書くって大事だな。
noteありがとう。

最後に感謝を。

葬儀にご参列いただいた方々、また、参列はできずとも、お悔やみの言葉をいただいた方々に感謝です。僕の友人も、たくさん来てくれた。一人一人にお話がちゃんとできなくて申し訳なかったけど故人も喜んでいると思います。

主治医の土浦協同病院 川上先生は、おおよその余命がわかっていたように思う。川上先生のことを最初は、なんか冷たい先生で苦手だなって感じていたけど、本当のところは川上先生自体が感情移入しないように頑張って患者との関係に線を引いていただけだった。本当にお世話になったから、今はちゃんとお礼をしたいと思っている。

葬儀では地元の葬儀社「鈴文」さんに大変お世話になった。特に御担当いただいた塚本さんは、病院の移送から最後まで完璧に滞りなくサポートしてくれた。塚本さんも父のボーイスカウトの後輩だった。ありがとうございました。

そして、実さん、僕の父でいてくれてありがとう。

飲み会終わりの決め文句「それでは、宴もタケナカ(たけなわ)ですが!」のボケは僕が受け継ぎます。

安らかに。

2019.09.13 竹中 直己

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タケナカリー/竹中直己
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