先生がいない方が子どもはよく学ぶ

教員11年目…教職大学院へ入学すぐ
大学の先生に
「どうすれば子どもは主体的によく学ぶようになりますか?」
と聞きました。
すると、
「先生がいなくなれば、子どもたちはよく学ぶようになりますよ。」
と言われました。
この言葉を聞いて
「そんなことはない。先生がいなくなったら、授業が成り立たないのではないか。」
と反論しました。
しかし、
教職大学院での2年間で、この言葉に間違いがないということを痛感しました。
教職大学院では、
自分の授業実践を動画に録画し、幾度となく視聴して分析をします。
自分の言動に注目して授業を視聴すると、
・導入時に、子どもたちがもう考えたいという合図を出しているのにもかかわらず、
長々と説明する
・子どもたちが考えているのに、無駄な補助発問をする
・必要がないのに、ヒントを出す
・班で話し合いが続いているのにもかかわらず、時間だからと言って全体に戻す
・そばに来てほしくないのに、気になる子のそばにいく
・子どもたちに学びの時間をあずけたのにもかかわらず、すぐに発問をする
・子どもが発言しているのに、口をはさむ
・とにかく待てない
などなど
出せばきりがないほど、子どもたちの学びを邪魔する行為が見えてきたのです。
佐伯胖氏は「「学ぶ」ということの意味」で次のように述べています。
「要するに「教師が何もしないのに、子どもたちがどんどん追求し、学びを深めていく」ようにしなければならない。教師に要求されることは、「教えないで、教える」ことであり、「子どもが自主的・主体的に動くように動かす」という、まさに手品のようなわざを身につけることになるのである。…(中略)そうなると、開き直って、よい授業とは教師か教室で子どもを思い通りに動かすことなのだ、と宣言した方がスッキリするように思えてくるだろう。さらに、教えるには、「教える技術」があるのだとみなして、教師はそういう技術を身につける(「腕をみがく」)べきだということになる。子どもの心理をすばやく読みとり、合理的手順が実行できる道具だてを教師の意図通りに「動かす」技術をあからさまに示し、普及させていくのである。それぞれの教材ごとに、「発問」のあり方や板書の仕方までが、ことこまかにこうやるのがよいと一般的な形で抽出され、手本にされ、「追試」が推奨される。…(中略)こうなると、子どもの「学び」とは、まさしく、そういう教師のうまい指示にしたがって子どもが見事に動くことだ、ということになる。これはもはや人間の学びではなく、性能のよいロボットの動きに過ぎない。」

では、教師は授業で何をすればいいのでしょうか。
・考えがいのある課題の吟味
・子どもたちの学びを助ける可能性がある教材の準備
・前時までの子ども一人ひとりの学びに実態の把握
・どんな学びが引き起こる可能性があるかを想定し、その想定を可能な限り広げる
・授業中の子ども一人ひとりの学びに見取り
・子どもたちの思考に沿った「出」と「待ち」の吟味
・子どもたちの声を聴く
こうして教師が授業ですることを洗い出してみると、その多くは授業前にすることだ
ということが見えてきます。
また、
授業中は、子どもの学びを見取ること、そして、子どもの学びに合わせて授業を臨機
応変に修正していくことだということが見えてきます。
この授業中の教師の役割を達成するためには、
第三者として教室に居ることが必要になると思います。
子どもたちに授業を預けることで、教師は第三者として教室に居ることができ、じっ
くりと子どもの様子を見取ることができるようになると思います。
また、
子どもたちの声にしっかりと耳を傾けることができるようになると思います。
そして、
いつ、どこで、どんなことを問うかを吟味し、ここぞというタイミングで「出」るこ
とができるようになると思います。
「先生がいない方が子どもたちはよく学びますよ。」
これは、先生が教室にいないということではなく、授業前にしっかりと上記で示した
役割を果たし、授業中に第三者として教室に居るということなのではないでしょう
か。
引用文献
「学ぶ」ということの意味 1995 佐伯胖 岩波書店

note 授業において教師に求められること 村山豪
note 子どもたちが学び続けるために 村山豪
note スキルをまねしても… 村山豪

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