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コンポラ写真とは?

ちょっと前にコンポラ写真が気になりだした。

しばらくちょっとばかり意識して広角レンズを付けて撮影をしてたのですが、うまくあのような写真を撮れないものだから、コンポラ写真ごっこはやめた。

ここ数日急にまたコンポラ写真が気になりだして、昨日と今日とパナソニックのミラーレスに28ミリ相当の画角の広角レンズを装着して街に出ました。

今日は京都市内に出向いたのですが、昨日は大阪市内に行きました。

今日は昨日の大阪市内で撮ったコンポラもどきの写真を投稿します。

ざーっと見返してもコンポラもどきですね。

まぁ、いつもの自分の写真ですが。

普段から自分はなんでもない街の光景とか風景にレンズを向けてますので、自分の写真のスタイルがコンポラ写真って言っても過言でもないわけですが・・・。

自分の場合は結構構図とかもきっちりしてたり、適当にフレーミングしててもきっちりフレーミングしてたりするので、あまりコンポラっぽく見えないところがあるんですが。

ではコンポラ写真の定義ってあるの?っていうっと、これって言う定義はないと思います。

簡単にざっくり説明したら 「なんでもない日常」を撮ってる写真 って言ったらいいのかもしれません。

過去に有名な写真家の大辻清司がコンポラ写真についの特徴を定義付けしてました。

・カメラ本来の形である横位置が多い
・写真表現のテクニックの否定
・日常の何気ない被写体
・誇張や強調をしない
・標準、または広角レンズが多用される
・撮影者の心境を現した、被写体との距離感

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%BE%BB%E6%B8%85%E5%8F%B8

とのこと。


わかりやく定義してますね。

ネットで「コンポラ写真とは?」という検索をかけると、多くのサイトがこの大辻清司の定義を書いてます。

日本では60年代の後半あたりにコンポラ写真というのが話題になってたようですが、それを撮ってる人って特別コンポラ写真っていうことは意識せずに撮ってるはずです。

世の中に認知されはじめってみんなそうだと思いますが。


認知されて定義づけされてしまうとコンポラ写真っていうカテゴリが出来上がってしまいます。

自分が今やってるコンポラ写真ごっこは大辻清司の定義づけに沿ってるわけですが・・・

大辻清司にしても最近出てきたコンポラ写真を見たうえでの全体の傾向を定義としてるわけですが、古い日本の芸術写真といった類の写真の中にもそのような写真を見ることができますので、本当は特に新しいスタイルってわけでもなさそうです。

コンポラ写真が取り沙汰された背景にはカメラが一般的に普及してきて、数ヶ月貯金したら誰でも購入できる時代という背景があったからだと思います。

カメラと言うと昔は金持ちの道楽的なものでしたので。

一般人がカメラを手にすることになって、感光材料も昔よりも手に入りやすい価格になって来たこともあったのでしょうか、日常の何気ない生活にレンズを向けるようになったのだと思います。

仕事で撮る写真とはちがう、個人の日常の身の回りの写真ですね。

自分はそのように日本のコンポラ写真を解釈してますね。

写真の表現の背景って機材の進歩、感光材料の進歩、それにそれらが量産されて価格が下がることや、経済の発展で一般人の収入が上がる、といった工業、経済の発展は避けて通れないと思います。

コンポラ写真の時代背景を考えたら、そういった社会的な背景があったから日常のなんでもないモノにレンズを向けられるようになったのでしょう。

ずっと昔は一部の写真士が金持ち相手に商売してた特殊な職業だったと思うのですが、それから外国製の比較的小型のカメラが輸入され始め金持ちの道楽にまで普及して、それがさらに商業化して写真館などで一般向けに商売として写真を撮るようになってきた背景があると思います。

当然その時代は機材も高価だったでしょうし、感光材料も高価だっと思いますし。

そんな高価なフィルム使って日常の何でもないものにレンズを向けるってあまりしないと思います。

それをやってる人達は金持ちの芸術写真をやってる人たちで。

コンポラ写真が出てきた背景って写真を撮るってことの敷居が低くなったことが一番の要因だと思いますけども。


コンポラ写真で著名な当時の写真家の経歴を調べても桑沢デザイン研究所というところの出身の人がなぜか多いわけですね。

桑沢デザイン研究所というのは大辻清司が教鞭を取ってるのですね。

島尾伸三、牛腸茂雄、畠山直哉、潮田登久子といった写真家が大辻清司の指導を受けてたのですが、日本のコンポラ写真の源流はひょっとして大辻清司?って思ってみたり。

そもそもコンポラ写真って日本が発祥ではないのですね。

ウィキには

1966年12月、アメリカのジョージ・イーストマンハウスで、「Contemporary Photographers, Toward A Social Landscape(コンテンポラリー・フォトグラファーズ 社会的風景に向かって)」という写真展が開催され、ブルース・デヴィトソンリー・フリードランダーゲイリー・ウィノグランドデュアン・マイケルスなどが取り上げられた。また、1967年ニューヨーク近代美術館で行われた「New Document」展でもフリードランダー、ウィノグランド、ダイアン・アーバスなどが取り上げられた。一般には、彼らの影響を受けた写真が「コンポラ写真」と呼ばれている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%A9%E5%86%99%E7%9C%9F

と書かれてる。

そして

特に山岸章二が編集長を務めた「カメラ毎日」はコンポラ写真の中心的な舞台となった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%A9%E5%86%99%E7%9C%9F

とも書かれます。

メディアが取り上げたことと、大辻清司という写真家が日本のコンポラ写真に大きく関わってるような気もします。

それとカメラとか感光材料が中流の一般の人でも手に入りやすくなった時代背景とうまく合致したのでしょうね。

ムーブメントって時代が味方しないとムーブメントって起こりませんからね。

今の時代からコンポラ写真を見た時に、写真に興味のない人も特にカメラが興味ない人でも今の人はカメラを所有してますよね。

その多くはスマホのカメラだと思いますが。

今の時代にコンポラ写真って考えたら意外にも彼らのスマホの中に入ってる何気ない日常の一コマがリアルなコンポラ写真になるのかなって思ってみたり。

そもそも大辻清司が

・カメラ本来の形である横位置が多い

・写真表現のテクニックの否定

・日常の何気ない被写体

・誇張や強調をしない

・標準、または広角レンズが多用される

・撮影者の心境を現した、被写体との距離感


と定義してしまって、その定義が流布されてしまって、そのムーブメントが写真史、定義が教育にまで焼き付けられてしまうと、現在のコンポラ写真ってなんなんだろうな?って改て自分に問いかけてみたり。

コンポラ写真が定義づけされてマニュアル化されてしまうとなにか薄っぺらく感じてしまうのですが、ある意味こういう定義を知らないほうが良いのかもしれませんね。

大辻清司という人は教育者でもありますから、噛み砕いて誰にでもわかりやすく説明する必要があったのでしょうけども、その定義がすべて的確に的を得てるため、今日からあなたもコンポラ写真家になれるわけです。

もはやコンポラ写真っていうのはフォーマットでしかないみたいですね。

と冷ややかに締めてしまいましたが、


大辻清司のコンポラ写真の定義の

・カメラ本来の形である横位置が多い

・写真表現のテクニックの否定

・日常の何気ない被写体

・誇張や強調をしない

・標準、または広角レンズが多用される

・撮影者の心境を現した、被写体との距離感


この定義に沿って写真を撮ることってとても良い写真の練習になりますよね。


っていうかこれだけやってたら良いのでは?って思えたり。

なんどもこの定義を見返してるうちに、この定義が写真そのもののように思えてきたり。


人に「写真を教えてくれ」と言われたら、この定義を書いて渡せば良いのだと思いますね。


自分なんかコンポラ写真もどきの撮影を数回したら飽きてしまって、また違う機材を持ち出していつもの自分の写真に戻ってしまいますが、もうすこし単焦点の広角レンズを付けたマイクロ・フォーサーズでコンポラ写真ごっこをしたいと思ってます。

地味な写真ばかりしか撮れませんが、広角レンズゆえいろんな情報がフレームに入り込んでくるので、自分の撮った写真だけども見ていて面白くなって来ます。


それでは次は、今日撮影した京都での写真を投稿します。

ほんじゃまた。




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