ハノイ読書会「見える人は二次元、見えない人は三次元?」
先日ハノイで行われた読書会、課題図書は伊藤亜紗著の『目の見えない人は世界をどう見ているのか』でした。
「見える人は二次元、見えない人は三次元?」
あとの感想文に詳しく書いてありますが、今回はこの一言に目から鱗というか、空間認識についていろいろ考えさせられました。
以下、感想文ーー
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』 伊藤亜紗著 を読んで
本書は「空間」、「感覚」、「運動」、「言葉」、「ユーモア」の5つのキーワードに沿って、目の見えない人がどのように世界を認識しているか書かれている。実際に見えない人に直接聞いた話から構成されている。著者が何度か触れるように、見えないことをハンディキャップではなく、個性や一つの特徴のように捉えている。
「空間」の例は大岡山を歩いたときに認識する空間についてだ。晴眼者がただの坂道と感じる道に対して、見えない人が山の斜面と認識する。これは大岡山の「山」からの連想で山の斜面が「見える」ことから、「言葉」にも通じるエピソードだ。「感覚」では、視覚以外の感覚について、晴眼者と見えない人の違いを説明している。見ない人の視覚以外の能力が決して特別に優れているわけではない。見えないことを前提に工夫して物事を知覚している。視覚からのインプットに限ったものではなく、点字を読む手の触覚からでも街の中の音を聞く聴覚からでも「見る」「眺める」ことは可能なのだ。「運動」によると、見えない人は足などで障害物を探るサーチ能力、サーチした情報から描いたイメージの中で体を動かしている。「言葉」では主に美術観賞が例に出される。見えない人は一緒に見ている晴眼者が説明する言葉によって、美術作品を理解し観賞する。著者はこれに「他人の目で見る」という副題を付けている。近年では他人の目で見ることを前提とした現代アートがつくられていることも興味深い。「ユーモア」は他の4つとは少し違って、知覚や肉体のことではなく、社会との関係や障害との接し方にについて、見えない人やその他の障害者のユーモアを通して語られている。
全体を通して印象深いのは、自分を含めた晴眼者が物事を知覚する時にいかに視覚に頼っているかということだ。本書によれば、晴眼者の空間認識のための知覚は視覚が80%程度を占めている。普段の見るという行為がいかに曖昧に行われているかも改めて認識させられた。本書の中で僕が一番興味を持った章はやはり「空間」だ。特にこの章の副題の「見える人は二次元、見えない人は三次元?」という言葉がとても示唆的である。空間を設計するために視覚情報がいかに重視されているか。ルネサンス時代にアルベルティが、紙で空間を表現する図面システムや透視図法を発明した。そのときから、空間を二次元で表現することと、空間を二次元で認識することは、相互に作用してその傾向が強まっていったのではないだろうか。
去年の今頃、レオナルド・ダ・ヴィンチの評伝をこの会で読んだ。その感想文でも紹介したが、その頃、弊社ではスタッフと一緒に毎日スケッチを一枚ずつ描いていた。空間や概念についてより深く思考するため、またそれを誰にでも理解しやすくするためにビジュアル化するトレーニングが目的だった。それはそれで一定の成果を得たが、1年経って何か物足りなく感じている。最終的に取り扱うものは建築というのは三次元なのだが、透視図法などのテクニックを使ってもどうしても絵としての認識の方が勝ってしまうのだ。自分でつくった二次元から抜け出せなくなってしまう感覚だ。そこで今年もっと強化しなければいけないと考えていたのが言語化だった。
また、都市や建築の空間が、見える人という大多数の人間のためにつくられてきたかも再認識させられた。それらは「空間」だけではなく、他の章を含めた本書全体から、見えない人の認識を知ることによってよくわかった。これからの建築や都市の設計が、例えば音楽、水が揺れる音の聴覚から、また材料の手触りの触覚から、木や花の匂いの嗅覚から、または「言葉」によって見えるものから、など様々な知覚からを想定するとより豊かで多様になりそうだ。
著者は本書全体を通して、障害とは何かについて、障害と社会の関係を問う。目が見えない人や足の不自由な人ができないこと自体が障害ではなく、社会に存在する彼らの活動を不自由にするバリアが障害なのだという。こうした個人の「能力の欠如」としての障害のイメージは、産業社会の発展とともに生まれたとされている。交換可能な労働力が必要とされると、いわゆる障害者は部品として不具合があった。では僕たちはどうか。一見、何の不具合もなさそうに見えるが、やはり現在の社会に生きづらさを感じることもある。それから抜け出すヒントは「ユーモア」ではないか。僕は障害者の芸人を見ると、その芸の源泉やモチベーションは自身の状況に対する諦めによる達観だと思っていた。しかしあのユーモアは彼らの自己認識力の高さから生まれる心の余裕だ。そしてその心の余裕は、取り巻く世界のイメージを頭の中で描き、そこで自分自身の現在地や居場所が見えるのではないか。実践することは簡単なことではないと思うのだが、彼らの生き方から自分の仕事や生活のヒントを得ることができた。