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同性愛者がしょい込んだ社会的責任

なかなか刺激的なタイトルの苺畑よりさんの記事を読んだ。

5年前の私なら絶対に受け付けなかったと思うが、この5年間の様々な経験や学び、失敗や苦労等から一種の思想転向が進んで「そうも言いたくなるだろう」という位に考えが変わって来た。

苺畑さんの他の投稿も冷静で説得力を感じる。

アメリカはアメリカ、日本は日本

ただ、文明という言葉に関して言うと、「アメリカはアメリカ」「アジアはアジア」「インドはインド」
あなたはあなた!そして私は私!
昨夜は昨夜、今夜は今夜
だから、
又、燃えるの…。

アメリカにおいて起きたことが本当に日本や例えばインドにおいても同じように起こるだろうか。

同性婚相当の制度を入れた台湾やタイ(タイの制度がどういう定義なのかは不勉強により知らないが)では既に少子高齢化が始まっていた。もし再生産が文明の基礎だと言うならば、文明は既に終わり始めているわけだし、日本もそうだ。

徐々に少子化の傾向が始まっているインド(恐らくムスリム以外)では、「結婚のための法律を別に作ろう」と議論されているらしく、おそらく台湾のような方式になるのだろう。

尚驚かされるが、アンチボリウッドで保守派論客のVivek Agnihotri監督から同性婚支持と取れる発言も出ている。

https://www.hindustantimes.com/entertainment/bollywood/vivek-agnihotri-tweets-same-sex-marriage-is-a-need-it-is-a-right-should-be-normal-not-a-crime-101681796831699.html

アジア圏やインドは置いておいて、左翼の映画評論家ロビン・ウッドのホラー映画に対する分析を読むと、アメリカの文明的基礎ははっきりと異性愛核家族の愛と絆(あと銃と聖書)に置かれているものと思われる

そうであるが故に、同性婚を巡る議論は「簡単に通してなるものか」という意見と、「ならばこうしてくれるわ!」という応酬に帰結し、今の超進歩主義で頭の固いLGBTQ∞運動が出現したのだろうと思う。

LGBTQ∞運動はアメリカ文明内部の相互作用によるものだ。一方をグロテスクだと非難したところで消えて無くなることもなければ、訂正されてマシな状況に至る道は模索できまい。

私は何度か書いたように、80年代アメリカ映画が原体験としてあるため、あの当時の保守性の中で実践された「わきまえられた自由と逸脱」がとても素敵に思えている。

ホラーにせよ音楽にせよ、80年代ポップカルチャーってそういうものじゃなかったか。だからこそ「逃げ場」としての役割があったのでは。

したがって、私の中ではトランプ政権誕生で「再びアメリカが私の思い描いていたアメリカになる」(失業中に『ヒルビリー・エレジー』でぼろ泣きしたしなw)のだってしっくりくる。

それと同時に、同性愛者としては、オバマ期以降の虹色リベラルが未だに素晴らしく思えてもいる。だから苦しい。

反対に東アジア・東南アジアは、あくまでアメリカ超進歩主義との比較であるが、ゾーニングと「見て見ぬふり」が絶妙な具合に働いているように思う。

また、インドは家族共同体寄り(カースト制度がそれを志向している)だから、ヒンドゥーの中のホモフォビアは薄いが、家族の拡大という観点からどう扱われるかは分からない。

同性愛者よ、ドント・ブリーズ!?

さて、同性愛が「普通になる」にあたり、性的に過激な、正直おてんとうさまの下でやることじゃないだろう、という数々の事実について世間様が見て見ぬふりを止めたため、批判されている。

故に、「だからホモは薄暗がりの存在のままでいた方がよかったじゃん!それならノンケ食い放題」という、ジャックの相談室的なロジックを言う人は今はほとんど見ない。

だって一般には被害者出ていることが社会的に認定されたからね。「普通」になるなら「ノンケ食い支持」には慎重であるべきであろう。

あの頃彼を持ち上げていた人は今意見をどう訂正しているのだろう。忘れてしまったのかも。

社会的に責任ある存在になるということは、特に今の情勢の中ではどういうことなのか。なぜそれが今さら問題なのか。

日本人の9割の頭は保守派だ。私は不幸にして残りの1割の方に入ってしまったので、多くの日本人にとって違和感のない価値観=マジョリティの感覚をつかみ損ねて来た。

社会的に責任ある存在として振る舞うことが、必ずしもマジョリティ側の価値観と完全に一緒でないといけない、それからの逸脱を許さないと言っているのではなくて、それを無視してはならないし、その価値観を拒否して内に籠もってしまえば確実に社会との接点を見失うという点を強調したい。

少なくとも、一般的な通念や常識と言ってもよいマジョリティの価値観を軽視するのは戦略上うまくない。

そう考えるようになったからこそ、一部のゲイのインフルエンサー(≒活動家)の発信が尽く「世間の一般常識」を否定し、軽視したり、見下していることが大変気が重い。

特に、ドラッグや、放縦や身勝手に対する「わきまえる力」の欠如は非常にまずい。

でもそれはまだかわいい方で、誰かの自由が誰かの安全を脅かす可能性もあるのだ、という現実社会を俯瞰する視点(ホラー映画観たらそんなの明らかじゃないか!)を欠いていることには幻滅した。

屋外で発展行為をしたゲイが殺されたたった1件の事件を未だに忘れないのに(それはよい)、女性の性的暴行被害について「それはともかく」等と言えてしまう感覚は、あまりに視野が狭い。

またそれが長年ゲイの人権のために尽力して来た尊敬すべき人から出て来るのは開いた口が塞がらない。

嗚呼結局あの人達は「自分たちのこと」から一歩も出ず、社会全体を無視し、社会に対する理解度が低い。そう思われても仕方ない。

そして、そういう有様にぼんやりと同調するメディア(ぼんやり支持=理解が表面的であるマスメディアは手のひら返すかもしれない)がある以上、申し訳ないが、冒頭の記事の言うとおり、「同性婚は文明の根幹を壊しかねない」という意見にうなづくしかない。

あの人達は、普通でありたいのだろうか?特別でありたいのだろうか?

少なくともそう思われてるぞ、という自覚を持たなきゃ。

だから、「普通であること=社会の中で生きること」に責任を感じている人達から、「あの人達はLGBTの代表ではない」と当事者側から指弾され、「私たちはアレではない」と言われているのだ。

「わきまえない〇〇」の危なさ

日本人は「特別扱い」が大っ嫌いだ。同質性をバックに皆が我慢を出し合うことで高い安定性と快適さを作り出して来た社会であるからこそ、「私は我慢しません」という言い方にはかちんと来るのだ。

この日本人の考え方は、今炎上している偽装難民の問題含め、異文化交流に関わる人達みんなが分かっておく必要がある。「かちんと来る」感覚を否定しても仕方ないのだ。

そこにあるのに見ないようにしていたら、モンスター化する。

ネットで使われた「わきまえない女」というレトリックは戦術としていまいちだった。その戦術では、今不満があるという心情は伝わって来るが、なぜ「わきまえない」のかをロジカルに説得できない。

「分かろうとしない人たちに丁寧に説明してやる余裕などないのだ、レトリックにケチをつけるのはトーンポリシングだ」とも言われてた。

しかしその戦術では「わきまえないトランスジェンダー自認男性」を効果的に批判できまい。

話がそれたが、「我慢しません」とだけ言い続けていれば、必ず押し返される。押し返しが強まれば、同性愛者や狭義のLGBTは本当に危機に直面するかもしれない。はじめて、本当に戦略的な意味で共通項を見出して戦わねばならなくなる時代が来るかもしれない。それは周回遅れのアメリカの状況である。

日本の脈絡の中で受け入れられるレトリックが必要だ。

自分のことを言うと…

私個人は、同性婚はあった方がいい。他方で、自分がそれを利用したいかどうかについてはひどく悩む。婚姻によって得られる特権があるが、同時に責任も重い。

ちょっと仲悪くなったからって「もう別れるッ!」とか言えない。

大家族制のあるインドならば、私が会ったことも無い親類の面倒を見る羽目になるかもしれない。

少なくともインドにおいて「婚姻に起因する社会的責任を果たす」とはそういう意味だ。

日本でなら、子供は要らないかもしれないが、家族の行事にくらい出て、そこで親類に気を遣うことが「社会的責任を果たす」ことであり続けるだろう。

一心に頑張る姿を見れば必ずやいつかは認めてくれる、そう信じているが、認めてくれなくても仕方ない…それが(皆が好きかどうかは知らないが)日本なのだ。『おくりびと』はその上に成り立つ建前の物語である。

そして我々はそんな建前が本音であってほしいとも願う。建前は悪いもののように言われるけど、色んなことを体験して思想転向、してきた中で言えることは、建前だって、つまんねー常識だって、そこにあるから反発する主体が育つのであり、それ無しには我々はいないのだ、ということだ。

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