竹美映画評⑬ レリゴーした田舎の男女の末路 「悪人」(2010年、日本)
最近これはと思う映画にも出会えず、そうね、日本映画をまた観ましょうと思い直して、未見だった「悪人」を観た。とても面白かったし、結末までの優しい目線も気持ちがよかったが、同時に、もっと皆のバックグラウンドが知りたかったな、という気持ちになった。この十年の間に日本か竹美さんが老けたのか。竹美さんが老けてオバジになったのは間違いない。三十一歳から四十だからゴゴゴゴゴ…その間の日本の変化を考えると、東日本大地震の体験は結構大きかったのでは?という気もしつつ、私の感じた隔たりは、スマフォカルチャー直前の日本と今の違いなのでは…という感じもする。ぎりぎり、構造改革の冷たさやリーマンショックの下で、人々が孤立すると想像され、「人と繋がる」ことを手放しで信じられた平成時代の感じ、と言ったらいいのかしら。むしろ最近は、個々の孤立性よりもムラ社会性の方が私の中で注目されてしまい、「毒の人間関係から逃げろ」というメッセージの方が私にはよく目に入るようになっちゃった。人々は孤立なんかしてない。むしろ監視の目に対してどう対処しているか、ということを見る方がいろいろ見えてくるような気がしている。
でもそれって私だけの視点なのかしら。ツイッター中毒のせいね。お話はどんな感じかしら。
長崎県の漁村に住む祐一(妻夫木聡)は、祖父母と暮らす口下手な若者。ある日出会い系サイトで出会った若い女性佳乃(満島ひかり)に会いに福岡へ行く。佐賀市に住む紳士服専門店勤務の女性、光代(深津絵里)は祐一と待ち合わせてデートする。その晩、警察がうちにやってきたと知った祐一は、突然光代を連れて車で遠出をし、自分は人を殺してしまったと告白する。
始終真面目なトーンではあるが、光代の側から見れば、不幸すぎて笑ってしまう。この映画、佳乃殺害に至るまでの部分は全て人の告白によってできているため、嘘や脚色がありうる…と考えたらもうコメディなのだ。光代が本気であればあるほどおかしく、純粋に彼女は不幸である。
佳乃の母役は宮崎美子。この方も熊本の人だからかしら、やっぱり九州弁がうまかった。そして夫の暴言に耐えながら傷つく様子が何とも痛々しかった。父役の柄本明、九州の父親のキレ方にリアリティあり。直ぐヒステリーを起こしてモノ投げたり女子供に暴言吐く、中年以上の九州男のイヤーな感じがよく出ていた。自分もどうしていいか分かんない時に言っちゃあいけないこと沢山言うんだよね。それって誰でもそうなんだけど、それを甘んじて受け止めるしか無い母のつらさ。でも本作ではそこにはフォーカスが当たらない。なぜならこの父親は謝罪ができる男だからである。
「孤立」することが困難なムラ的な田舎社会の中で、「孤立」がどのように成立するのか、という観点で観ると、日本を理解するヒントがある。祐一と光代は、どちらも自分がどうなりたい、どうしたい、ということをほぼ観ないようにして生きてきている。祐一のセリフにも「今まで生きてるのか死んでるのか分からなかったよ」と光代に思いを語るシーンがあるが、それなんだな、と思った。光代も「私の人生は国道沿いのあの狭い世界」と語る。私は父方の実家に行く時にあの映画に出てきた佐賀市郊外の道路を何度も通ったことがあるのでどんな感じかよく分かる。少し都会の博多はすごく近くて、「長崎から博多まで一時間半だよ」と話す佳乃も久留米出身なので親は「実家から仕事に通えばいいのに」と話す。近いけど、小さい都会は逃げ場でもあるの。満島ひかりがとても上手いので、佳乃が「やな女」としか描かれないのがちょっと残念だが、母親としては彼女を外に行かせたかったのかもなぁ、と思わせるセリフがあった。
ともかく、毎日毎日が同じで、そこに疑問を感じない限り…つまり、この映画の数年後に公開された「アナと雪の女王」的に言うならば、自分を好きになって「ありのままでいいの」と覚醒する、つまり「世間向きの自分」をレリゴーさせない限りは、結構不満もなく生きてしまうのだ。しかも、九州北部よ。色々女にとっては生きるのがきつい場所ではあるが、皆我慢してるから慣れてしまう。しかし、異様な運命のために、祐一も光代も車で玄界灘の見える灯台へとレリゴーしてしまう。あの場所は彼らにとっての雪のお城である。そして、レリゴーしない人々は、ムラ社会という濃密な関係の中で実は孤立していることに気が付いていないのではあるまいか。「自分」に気が付かないで過ごすから、寂しいとも思っていなかった…そういう風に「孤立」が描かれるのが面白いと思う。「どうしてこんな人間になっちゃったんだろう」という祐一のセリフは、「自分」という個体に気が付いてしまった苦しさでもあるように思う。
孤独の王国、北欧の場合であれば…私の観た数少ない北欧映画「好きにならずにいられない」「ぼくのエリ 200歳の少女」「ひつじ村の兄弟」では、北欧では最初から人々は孤立して寂しいものなのだ、として描かれる。たとえムラの一員であっても大変孤立的なのだ。だから人と繋がることへの願いとそれが時々叶わないのだと描かれる。東北の昔話とかもそうなのかもね。雪女とかさ。冬には寂しくてたまらないのよ。
光代は後半、妹に電話をかける。そこでの妹の反応は、まあ普通の反応なのだと思うが、光代の目に怒りともつかない光が宿る。「どれだけの人巻き込んでるかわかってるのおねえちゃん?」と怒られたとき、光代さんは「結局あなたたち(=世間と言ってもいいかもしれない)のことばっかり!私のことは…それは私しか心配できないんだ」というようなことを怒りも混ざりながら何か悟ったんじゃないだろうか。
奇しくも「アナと雪の女王2」が公開されているが、「レリゴー」の意味とは何か、そして日本の田舎社会でレリゴーすることで知る孤独と自分の本当の願い。それにたどり着いたときはもう失いかけていたりするのよ。本作は、その深みには少し届いていなかったかもしれない。特に、祐一の母(余貴美子)と祖母(樹木希林)にはどんな確執があったのかとか、佳乃と母の関係等…四十路のオバジになった私としては、だけど、九州の女達が言わなくとも抱えている苦しさに、九州出身の原作者が原作ではどこまで肉薄しているのかは気になる。また、李相日監督は今ならどこまで下りていけるのか…と考えたがそれもやはり、私が年取ってしまい、私なりに自分に覚醒してレリゴーしちゃったからなのかもね。そして、そういう目線で見ると、やはり、光代目線で描けばかなりのブラックコメディにもできたようなお話なのだ。
映画の中の懐かしい風景や言葉の中に、どうしたって私の育った福岡県と、父方の地元である佐賀県のことを思ってしまう。あの冬の玄界灘の海を見つめながら、キャリアウーマンであり厳しかった母が後年高次機能障害となってままならない人生を過ごした最期の8年間のこと、それをそばで介護し続け、当たり散らしながらも決して逃げなかった父、それをそばで見続け、色々なことを考えてきたであろう姉の気持ち、そんな我が家の危機を前に、佳乃のように要領よく逃げたように一見見える妹、そしてそれをこうして安全な場所から書く私。博多駅の近くに、天神のバス通りに、あの玄界灘の冬の空の下に、佐賀市から高速道路の大和インターへ向かう国道の風景に、佐賀駅前に、私たちもいた。昔の私には想像もつかないような場所まで来てしまった。映画としては突っ込みがもう少しあれば、と思う一方、レリゴーしなかったのか、あるいはしているのか、私には分からないままの姉や妹の心のことを考える映画だった。