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インドでクリスマスの歌に救われる
目次
インドのプロテスタントとクリスマス曲を歌う
ポップ歌手の信仰歌曲を聴く
神様は時々助けてくれる?
壺壺あんまり言わない方が…
LGBTQと宗教保守の対決
私は元々東京でゲイの合唱団に入っていたくらいで、歌を歌うことがとても好き。でもインドに来てからは、騒音に寛容な社会であるにもかかわらず、大きな声で歌う機会は殆どない。
最近、仕事上の疲労が最高潮に達しており、周辺のほとんどのことに興味を失っていた。家でお酒を飲みながら音楽を聴く…リラクゼーションの時間のようだが実はこれには落とし穴がある。なぜって…
チャンネル選択権は彼氏(北インド音楽8割、洋楽2割しか聴かない)にあり、私の好きだったり興味のあるもの(たまには南インドの音楽も聴きたいし、日本の曲も連続で聴きたい)が阻害されているからだ。奪い合いだ!!
インドのプロテスタントとクリスマス曲を歌う
さて、最近プロテスタントの友達ができた。こっちが心配になる位うちによく遊びに来てくれて、私にもすごくよくしてくれる。
インドでは、建前と本音、裏表の使い分けがすさまじい。人の善意を信じられなくなっている。そう思わされるような人達と何人も見たからだ。しかしそう思う自分に自己嫌悪を感じてしまう。
ところで私はちょっと気になっていた。
彼もまた北インド音楽大好きだが、クリスマスのときはクリスマスの曲を聴くのだろうか??もしかして私も好きな歌を知っているのではないか(そうであってくれ頼む!共通項が無いとまじで狂うわ…錯乱するわよ!?)?
淡い期待のようでいて凄まじい煩悩を隠して訊いてみると、やっぱり聴くらしい。
ほっ…
私の知る英語のクリスマスの歌(キリスト教に関連する歌)の動画を流すと彼はとても喜んでくれ、一緒に歌ってくれた。
私も本当に久しぶりに、喉をしっかり使ってお腹から声が出たのでうれしかった。いくつか歌ったものの『荒野の果てに』が一番よく声が出た気がする。
ポップ歌手の信仰歌曲を聴く
そこでまた別の疑問に行き当たった。ホイットニー・ヒューストンやマライア・キャリーは、ポップ歌手でありつつ、時折信仰に関する歌も歌っていた。
これを聴かせたらどう思うかな?
まず、ホイットニー・ヒューストン『I look to you』を聴いてもらった。
彼曰く、「I look to you」という言葉が聖書にあるとのことで見事繋がれた模様。
As I lay me down
Heaven, hear me now
I'm lost without a cause
After giving it my all
Winter storms have come
And darkened my sun
After all that I've been through
Who on earth can I turn to?
横になっているとき、天国があるなら私の声を聴いて
理由もなく迷っているの
全部を捧げたのに
冬の嵐が来て太陽を陰らせた
色々あった今 誰のところに行けばいいの?
I look to You
I look to You
After all my strength is gone
In You, I can be strong
I look to You
I look to You, yeah
And when melodies are gone
In You, I hear a song
I look to You
あなたが頼りなの
力を使い果たしても尚、あなたの中に居れば
強くなれる
あなたに頼りつづけたい
歌が消え去っても、あなたの中にいれば
歌が聴こえる
あなただけが頼り
聴いていたら私の方が泣いた。こんなに孤独でさみしくて、迷っているのに、画面のこちら側の私たちに微笑み続けるホイットニー。あんときゃ分からなかったよ…声に精彩がないなと思っただけでさ…。
二番の歌詞も重たい。「もうすぐ命は終わる」「もう戦う必要もないし沈んでいくだけ」「選んできた道はすべて後悔に繋がった今、もうだめかもしれないけど、ただ顔を上げてあなたを頼ることにしたの」
こんなに泣かされるとはね。
もう1曲、マライア・キャリーの『Fly like a bird』も泣かせる。
Somehow I know that
There's a place up above
With no more hurt and struggling
Free of all atrocities and suffering
Because I feel the unconditional love
From one who cares enough for me
To erase all my burdens, and let me be free to
なぜか分かるの 上にある場所のことが
痛みも闘いも
残酷な行いも苦しみもない場所
無償の愛を感じているからね
その方の思慮で
全ての重荷が降りて 自由になれる
Fly like a bird
Take to the sky
I need You now, Lord
Carry me high
Don't let the world break me tonight
I need the strength of You by my side
Sometimes this life can be so cold
I pray You'll come and carry me home
鳥のように飛べる
空に私を連れて行って
神様、今あなたが必要なのです
高みへといざなってください
今夜は皆に私を傷つけさせないで
あなたの力がここにあればと思う
ときどき人生は冷たすぎるから
あなたが来て、私を家に連れて行ってほしいと祈っています
正直言ってこの歌を初めて理解したように思う。
そして、このような歌の歌詞に感じ入ると共に、よく知っていたクリスマスの歌(日本ではね)の数々の歌詞の意味にも目を向けさせられた。
神様は時々助けてくれる?
何も考えないで歌っていたクリスマスの歌の数々…ごめんなさい、私入っていた合唱団の指揮者はクリスチャンだったというのに、全然分からなかったわ。きっと私があの頃、今ほど「苦しい」と思ってなかったからだろうけれど。
Joy to the world the Lord is come
Let earth receive her king
Let every heart prepare Him room
And heaven and nature sing
And heaven and nature sing
And heaven and Heaven and nature sing.
そうか!歓喜なんだ!!!神様がここに来てくだされた!!!!お祝いだ!
![](https://assets.st-note.com/img/1728885477-DdxcXkU4StmEB67AKqzlGCZY.png)
神様を人格的に捉えると、面白いことにインドのヒンドゥーの感覚に寄っていく感じがする。
プロテスタントは、私の理解では、もっと自分を厳しく律する自虐的な側面が強いのだと思っていた。むろん、悪魔祓い映画を観てそう思ったのだが。
しかしながら最近観たリー・ダニエルズ監督の悪魔祓い映画『デリヴァランス』では、プロテスタントの印象を改めさせられた。
作中、主人公は
あなたも神に愛されているのだから、信じなさい
と諭される。
また、それにより力を取り戻した彼女に、最後、神様がちょっとだけ力を貸してくれたように見える。
この「神様が手を貸してくれる」という感覚は、他の悪魔祓い映画、言ってしまえばアメリカの白人の悪魔祓い映画ではほとんど見たことが無い(『アンホーリー 忌まわしき聖地』という映画だけはその片鱗が見えたのだが)。
他方、ヒンドゥー映画では、神様は気前よく力を貸してくれるし、そのシーンに観客は拍手喝采する。インドの場合は積極的に人間が神様に力を借りに行くわけだが。
神様が手を貸してくれるという希望が、クリスマスの曲や、黒人音楽のルーツを持つホイットニーやマライアの歌に現れている。それこそが、宗教がベースにある、インドとアメリカの人々の心性なんだろう。
彼氏はいつも言っている:神様は心の中にいる。外にはいない。そして神様は全部一つ。
そういうことを実践することも、信じることも、自分の何かに取り入れることもできない私だが、それがどういうものであるのかというのは理解できた。
『ターミネーター2』最後、ロボットが「何故泣くのかが分かった。自分には泣けないが」というセリフを残すシーンと重なって来て超エモいわ!!!本当はマイケル・ビーン様だけが好きなんだけどパート2にほとんど出さなかった監督、恨むわ!!!!!!!(錯乱)
これの2分ごろからの展開な!!!!!
壺壺あんまり言わない方が…
日本では宗教は蛇蝎の如く嫌われることがある。実際のところ、宗教そのものではなく、それを口実にパーソナルスペースを侵食してくる人達、自他境界がおかしくなっているごくわずかの人たちのことが苦手ってだけなんだろうけども。
日本では統一教会が滅多打ちにされたが、私は何とも言えなかった。
自他境界おかしくなってしまった人たちの被害者に当たる人達のことを考えれば滅多打ちでいいんだろうが…ずっと昔、私に「統一教会なの」とこっそり教えてくれた二人の人のことが頭を離れない。
善というものがあるのなら、彼らのことだと思ったからだ。
1人はこうも言った。「自分で決めなくていいというのは楽だ」と。
それを妄信やマインドコントロールなんだと決めつけることは簡単だ。でも、その人の苦しさや困難を私が分かってあげられたわけではないし、その後どうなったのかもわからない。元気で生きていてほしいと思うが。
私は、壺が壺が、と一方で宗教を馬鹿にしながら(一部の人を非難しているつもりなんだろうけれど…)、ゴスペルやクリスマスの曲に慰めを見出すという矛盾を見ても非難はできない。その人の矛盾を指摘したところで何になるのでしょう?
LGBTQと宗教保守の対決
ところで、LGBTQの脈絡でキリスト教はしばしば批判にさらされている。
皆が神様を信じる国で、「神はお前を愛さない」と面と向かって言われ続けたらそりゃあきついだろう。反発もしたくなって当然だ。
同性愛者(ノンバイナリーの男好きと言った方がいいのか?)であるサム・スミスがサタニズムを模した「Unholy」は衝撃的でもあるが、キリスト教の人々が内面化している神の愛への渇望が逆説的に伝わっても来る。
少し前まで、ドラァグ・クイーンが宗教保守の人と口論している図というのを、私は、そのドラァグクイーン側に憑依して理解していた。「お前たちは地獄行だァ」と同性愛者その他を説教する人を私が支持できるわけがなかろう。
が、今はこう思う:クリスチャンでもないのにクリスマスの曲に救われた私が、何を言えるんだろう?
「神は我々を愛している!」と言いながら、結局はその相手の宗教的価値を毀損し、それを大事に思う人を蔑視することに帰結してしまうLGBTQ運動の悲しさ。どうなったらいいのだろう。
今年のクリスマスには、本当に何年振りだろう、クリスマスらしい歌を聴きながら過ごすかもしれない。是非そうさせてほしい。クリスチャンでもない人間を歌で救う…小さな奇跡だ。
そして、慣れ親しんでいたはずのものの意味を再考させるインド。これもまた、インドのご利益だ!