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ソーシャルスリラーとホラー映画から見る現代社会 ⑩GoodとBadか、GoodとEvilか

『ストレンジャー・シングス』シーズン4のエピソード7までを観た。ヴェクナの正体が明らかになったくだりも面白かったし、ヴェクナによる長々とした中二病丸出しの説明セリフもムネアツで楽しかった。

前回の投稿でいくつか私は予想した。その中で、ヴェクナは人格化されるのかどうかという疑念は、人格を持っていることが明らかにされたので、否定された。一方「アメリカのホラーが基本的に「あちら側」に対峙する形で「私たち」の正義を裏付ける構造を持つ以上、半ば人格化されたヴェクナの本性は邪悪でなければならない」と書いた点は、(最終章2回を観るまで何とも言えないが)当たっていそうだ。

この展開と設定により、エルは邪悪さ(=Evil)属性の疑念から解放されることになる。やったことはBadかもしれない。だが、Evilではない。これは、アメリカホラーを考える上では非常に重要と思うし、もしかすると、日本とアメリカの文化的な違いが表れているのではないかと思う。

Good対Bad、Good対Evil

私としては、『ストレンジャー・シングス』4の博士のセリフ「人間は単純ではない」「GoodとBadを以て人は完全(Whole)になる」「そうならなくてもいい。決めるのは君(エル)次第だ」が好きだった。一方このとき博士はEvilという言葉は使わなかったGoodとBadは一人の人の中に共存し混然一体となっているのだという本作の思想が見えるが、その後の展開で、本作はEvil(邪悪)をヴェクナに引き取らせた形をとっている。アメリカの物語は、Evilを善のヒーロー・ヒロインの中に胚胎させることはよしとしないのだろう。

さて、エルは、今回初めてと言っていいほど、自分と世の中との間にある対立について、自分自身の中にある影(人を殺めたという罪悪感)に紐づける形で葛藤する。これは、むしろ日本のアニメ作品や漫画で何度も取り上げられてきた観点なのではないかと思う。ねちねちと自分の中の闇について独白する悪役と、悪役の葛藤を知って苦悩する主人公の図。少女漫画『海の闇、月の影』ですら明らかだ。故に、エルの葛藤の場面に関しては、私の中で欧化主義者の裏で息づいている尊王攘夷主義者が、暗さと重さがあと一歩足りないと述べている。

ホラーファンとしては、用語については敏感でありたいと改めて思った。善と悪、と日本語にしたときに、GoodとBadの対立とその難しさについて、私たちは日本のアニメ・漫画作品群によって十分理解できていると思う。が、この軸とは別にGoodとEvilが対立しているという発想は、我々は十分意識できていないような気がする。観て感動するといい人になった気がするマイク・フラナガン作品でもEvilは存在している。あれほどの許しを与えた『真夜中のミサ』の中ですら許されなかったり、排除された存在がいるのである。いやむしろ、Evilは物語にとって必須だ。

尚、インドのホラーには、神々(天)という意識があるからなのか、GoodとBadとは別の軸として(十分な研究は必要であるものの)GoodとEvilの対立が見える。Badには許しの可能性があるが、Evilは破壊の対象だ。『バーフバリ』では、バラーラデーヴァはBadからEvilに堕ちたからこそ、天の気を背負ったマヘンドラ・バーフバリの火で焼かれなければならない。

そういう意味では、長らくアメリカ映画の異端児と見えていたシャマラン映画にはインド的な発想が活きてるのだと思う。GoodとBadは対立しつつもどこか「人間」という枠に包摂されている一方、彼の作品は、別軸にどうしようもないEvilという存在があると描いてきた(『ミスター・グラス』において開花した)。一方アメリカのホラーは、Good対Badの対立よりもGood対Evilの方を好んで描いてきた。その形で彼我の違いを強調し、観客がGoodの側にいることを意識できる。また仮に主人公がBadに堕ちたとしても、Evilを別に置いておけば、まだしもGoodに改心する可能性があるのだ。アメリカのヒーローものは大概がそうなのではなかろうかと疑っている。そういう中でシャマラン映画は、アメリカホラーと親和的な要素も持ちつつ独特の温度差を体感させてくれる。

一方日本の漫画やアニメにもむろんEvilは出て来るのだが、EvilとBadを明確に区別していないように思う。原作において『リング』の貞子は生前普通の「女性」(実はもっと複雑だ)だったのだが、非業の死を遂げて悪鬼になる。日本版の映画では『リング0 バースデイ』を許容する幅があり、確かに魔力は有するものの、貞子の本性が邪悪とまで言えない。しかし、アメリカでの解釈は、Wikipediaでの記述を観る限り、貞子に相当するサマラは元々Evilであり、出自も不明(パート2で出自が明らかになるが、それは彼女がEvilではないと擁護するためではない)。

また、ハリウッドで日本の貞子が根本からの性質まで脚色されることを容易く受け入れたのは、日本ではEvilとBadの区別がはっきりしないからではなかろうか。日本でも、非業の死を遂げれば霊魂はEvilにもなり得るのであるが、『呪怨』の生前の伽耶子=ストーカー女をどう見るかがポイントだ。ストーカー女というのは、迷惑であるし祟り神のような存在ではあるし、怖いが、本性はEvilなのか、Badなのか、はっきりしない。加害意識がないのに被害を与える点が怖いのだ。その「迷惑な女」である彼女を、日米の作品がどう脚色したかが、ホラー映画の文化的境界を教えてくれるはず…だったが、同作は、『リング』とは対照的に、日本的演出が米国的演出に勝っているため、アメリカ的解釈の分析はできないと思う。だが、誰も彼女の生前の性格について疑問に思ったりはしない。

Good対Evilの発想は「一つの顔」を要求する!

Good対Evilの形で対立軸が置かれている世界とは、実際のところ、人間という存在を全く信用しない考え方である。外在するただ一つの物差しで人間社会を測り、資格に満たない者を排除したいという欲望を掻き立てる。また、物差しの前に、人格というものはたった一つしかありえない。差別行為をする/許容するなら差別主義者なのだ。この考え方を緩和してくれるのが「常識」なのだと思う。アメリカのホラーを観るまでもなく、今のアメリカを支える思想である。

それと比較してみたときに、日本の文化は、米の発想に比べれば相対的に物事の白黒をはっきりつけないところがあるが故に、「人間は多面的で様々な顔を持つ」という考えに至る契機が開かれている。だが、日本の場合は論理として組み立てられているわけではないため、我々はこれを外に通じる言葉で説明できない。作品や現実が「そうなっている」ということに満足しているのである。突き詰めたところで得られるものも少ないわけだが。

ペドロ・アルモドバルは、同性愛男性の映画監督として数々の作品を世に送り評価を受けたが、アメリカの状況についてこのように述べたことがある。

僕のなかには彼ら(竹美註:アメリカの批評家)の気に触るところがあるからだ。つまり、僕という人間はいろいろなもののごった煮なんだけど、アメリカでは、ただひとつの顔しかもっていてはだめなんだ。アングラなら、ひたすらアングラ。ゲイなら、ひたすらゲイ。でも僕は、ゲットーに閉じ込められたいと思ったことは一度もないし、自分の人格のひとつの側面だけを擁護するために、気色ばんで闘いたいと思ったこともない。僕は、自分が仲間だと思われているある種のグループの喧嘩好きなところさえも批判している。(フレデリック・ストロース編『映画作家が自身を語る ペドロ・アルモドバル 愛と欲望のマタドール』石原陽一郎訳、フィルムアート社、166ページ、2007年)

『神経衰弱ぎりぎりの女たち』について語っていたはずの発言なので、恐らくは80年代終わり付近の頃のことを指しているが、彼は、同性愛者男性として、アイデンティティー政治とは相いれない考え方を表明していた。「僕は、自分が仲間だと思われているある種のグループの喧嘩好きなところさえも批判している」というのは、日本における「LGBT活動家」に対する批判のようで、初めて聞いたような気がしない。

今『オール・アバウト・マイ・マザー』におけるトランス女性エステバンの表象は、「ある種のグループ」の人たちによってどう読まれるだろうか。

しかし、アルモドバルの思想を日本的な発想の解説や擁護には使えないだろう。人間には色々な面がある、と考えて日本のことを想像してみるに、我々は表面上は「一つの顔」をしているべきだと感じている。他人を非難するときには喜んでその相手に「一つの顔」であることを迫り、殺人事件や事故の被害者に同情して積極的に犯人に極刑を求める。一方、アメリカ的な意味合いでは、「一つの自分」を真面目に信じてはいない。そもそもGood対Evilの対立に必要な自分の「顔」が無いのではないだろうか。それもまた、日本的な場における、個々のしたたかな生存戦略であろう。

アメリカのホラーやファンタジーの発想に、日本人である我々がいまいちピンとこない(浅い、怖くない、と見てしまう)のは、この辺に理由があるのではないか。それぞれの社会から出て来る作品の面白さと価値は、それぞれの社会が持つあまりよろしくない側面と美徳が分かちがたく結びついた上に成り立っている。Good対Evilの発想は確実に排除の論理を持っているが、Good対Badという軸での許しの契機もある。アルモドバルにおいては、Good対Evilの発想を迫る保守的な社会からの脱走として、人間の多面性や歪さ、不思議さについての考察が自由の表現として飛び出して来たのではないか。多面的な自分を背負うのは、結局一つの自分という身体と自意識なのだということを、アルモドバルは否定しないような気がする。

多面的な自分を引き受けるのは一回限りで与えられたこの身体

EvilとBadの区別がはっきりしない日本では、心の影の部分を饒舌に語ることができるが、許しというものに対しては非常に厳しい社会になっている。また、一つの自分に対する意識が弱い。多面的な自分という面倒くさい状態は、たった一つ与えられた一回限りの身体によって引き受ける他ないし、そこから生じる自意識から逃れることもできないと私は思っているのだが、日本人としては、多面的な自分という言い方が、その都度一貫しない自己についての言い訳と区別がつかないのである。少なくとも私はそうなのだが、皆の中では区別ができているのだろうか。アメリカ的なアイデンティティー政治の帰結である『ワタシ・セクシャル』の洪水を経験している今、日本ではどんなものが見られるだろうか。日本の山河に降る大量の降雨と同じく、素早く流れ去っていくのかもしれないし、一部は地下水となって滞留し続けるのだろうか。

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