思想教化という怪物
色々書き足していたらものすごく長くなってしまった。でも、やっぱり書いておきたい。
今、まさかの思想教化が熱い!
コトバンクで「思想教化」を調べてみた。
「思想善導」という言葉が、思想教化の同義として使われていたらしい。「いい方向に人を教え導く」というのがその意味である。思えば人類の歴史は、「善悪を決め、集団を率いる人」の立ち位置を巡るあくなき血みどろの闘争だった。
私は、マルクス主義や左翼的な発想をある程度内面化していたのに、当人の不真面目さ、怠け癖、注意欠陥などが災いして、完全体左翼になり損ねた人間だ。一方左翼学者と他称される人達は、その言動から察するに、子供の頃からきちんと宿題やってそう。お勉強できて、先生の言うことちゃんと聞いてすくすくと育っているからこそ、自分の思想に疑問を持つことなく社会を疑う資格があるのだッ。立派な人達だ。自分を疑わない位、ちゃんとした人間なのだと思う。私とは大違いだ。
一方で、私はと言えば、左翼にもなれなければ、そこから完全に脱することもできない、だらしなくて中途半端な自分を嫌悪の眼差しで見て来た。と同時に、左翼的思想が実際の世界で何を引き起こしたかについても考えることになった。思想は確実に人を操る。現に私は、左翼的農本主義から大学で農学部を選んだのであるし、大学卒業の段階では企業は悪の団体だと思い込んでいたから就活に二の足を踏んだ。そこにあって自分の意思はあいまいだった。
なりそこない左翼の私は、人生の途中で北朝鮮というこれぞ思想教化と言える政治運動体について学ぶ機会があったが、それは「何だか異様な外国のこと」でしかなかった。人の善意や欲やトラウマや恨みを媒介に心に入り込んで、思想の命じる通りにその人を操る現象…思想教化とは人の集合意識に取り憑く怪異だ。マーケティングや洗脳という形でのそれらは、やはり自分の外にあるものであった。
でも、その思想教化という怪異は、意外と近くに息づいていた。
LGBTQ概念の思想教化的な素顔
それはLGBTQという名前だった。こんな形で、またその名前でそれに遭遇するとは思っていなかった。自分としても信じたくないし、まだLGBTという記号には希望を持っている。だから毎日悩んでいる。
以下で引用したツイートは、100%善意からなされていると私は理解しているものの、まさにそこにこそ、運動体としてのLGTBQの思想教化的な顔が読めるのである。非常に申し訳ないが取り上げさせていただく。私自身、数年前ならこれをはっきり支持したと思う。
一体これの何が問題だっていうのだろう!私がついにおかしくなったってことかもしれないから、ここまで来て合わなかったら読まないでね。
では早速、何が気になったのかを挙げてみる。
①「反LGBTQ法案」という呼び方は適切か
②LGBTというあり方がノンバイナリーの思想と矛盾するのではないか
LGBTQまで含めたアンチの法案とは実際どういうものなのだろう。ゲイは公共空間に来てはいけない、というような内容も出されてるのだろうか。少し前に、一定年齢未満の子供に学校で性的志向について教えてはいけないという法律がアメリカの州で成立したというニュースがあったが、それが成人に対してまで適用されるのだとしたら恐ろしく反動的だ。この法律自体をどう思うかはここでは書かないが、「反LGBTQ」と言うなら、性的少数者全員に共通して被害がありそうではないか。実はこの番組は、子供に対する性別移行の医療的手術を禁止する法律が立案されたり通過したりしている状況を批判している。
これは、反トランス法案だ、と言うべきなんじゃないだろうか。しかし上記のツイートでは「反LGBTQ法案の存在」が事実として立ち上がっている。この飛躍には、現実的に大した意味は無いのだろうか。飛躍に意味があるとすれば、より広い層の関心を引くという効果はあるだろう。
私の考えすぎなのだろうか。
次に疑問なのは、ノンバイナリーとLGBTが同居できるのかという疑問だ。ノンバイナリーというのは、性の二極性を否定する立場だ。それが、性というものが(自認であれ何であれ)明確なLGBTと理論的に共存できる地平はあるのだろうか。そこが矛盾だと感じられないのだとしたら、ノンバイナリー思想を尊重していないことにならないか。今やQという概念の中ですべてのありようが入って来るわけだが(だから私は∞と呼んでいるが)、男女という身体に基づく分け方のみならず、それまでのLGBT概念を根底からひっくり返すようなハイパーラジカルな思想が、今後旧LGBTをどのように相対化・脱構築していくかは見ものかもしれない。全体の方向としては、身体の性は2つしかなく、人の多様性を反映していないと考え、性自認、つまり頭の中にある性で生きることが最もよいのだ、という思想が出て来ている。一見何の問題も無い気がする。それで皆が幸せになれるのであれば、そうなっても構わないと私も思う。しかし、その進め方が問題だ。身体による二区分を否定するという動きに対する反発なり疑問なりが出て来たときに、「あなた方は進歩していないからだ、進歩せよ、アップデートせよ」と迫っているからである。私には、一人の人間として現実的に感じている「実感」をより低い欲求と見なし、アタマの中をアップデートすればいいと言っているように聞こえる。つまり、性自認に基づいた社会で幸せを感じられないのは、あなたの思想に問題があると言っているのだ。それって思想教化って言うんじゃないか?
私のように、起きていることの真偽をいちいち問うことは、ことがデリケートな話であるが故に、人の内面の自由に対する人権侵害でもあると言っている人もいる。確かに、個人主義をとことん突き詰めれば個人の欲望は社会と正面衝突するだろう。この映画のように。
https://note.com/takemigaowari/n/na4c817f2872f
社会は、我々にサイズの合わない服を着せ、時に拘束具を強要する。そんな抑圧は許されないと考え、社会というものをより抑圧の少ないところに変えていく…言い換えれば何でもありにして、各自が好きなことを追求できるようになれば、みんな幸せになるはずだ。
ところが人間は、完全なる自由の中ではうまく自分を定義できないのではないかとも思う。急進的個人主義の議論には、抑圧的・支配的な宗教や集団から来る反動的な反発に混ざって、我々の日常への愛着に根差した「実感」から来る反発も含まれているだろう。その2つはきちんと見分けないといけないような気がしているのだが…。
が、個人主義を徹底的にやるべきと考える人々は、「そんなヘイトそのものの質問に対しては答えないし、議論しない」と言っている。所謂「ノーディベート」の姿勢である。
上記のような疑問を持つ私も「反LGBTQ」運動、反人権運動に加担しているのだろうか。反LGBTQ主義者と呼ばれるようになるのかもしれない。私だって「差別する人だ」と言われたくはないし、自称はしないつもりだが、誰によってそう呼ばれるかによっては、もう気にしなくてもいいと思う。
げんなりさせられるニュースを敢えて見る(アメリカ編)
思想教化を相対化するには、何かショックの大きなものを見て、自分の中を探らなければならない、と私は考える。そのための活動の一つとして、以下の団体のアカウントをフォローしている。私はここの主張全てに賛成しているわけでもないのだが、思想教化に対抗するための別の思想教化の臭いがしてなかなかに壮絶だ。
正直、げんなりするニュースばかりが出て来るのだが、やはり今、世界で何がどうなっているのか、LGBTの理想の先が今どうなっているのか、というのを俯瞰するためには見るしかない。以下のような投稿を見て、来たな、という気がした。
私には、伏見憲明著『欲望問題』で、要するにもう20年近くも前で読んだポイントが、こうして現実に出て来ていると見える。あくまで表面的に見るならば、かつては性的少数者として弾圧を受けた集団は、世の中に認められてきたことの連鎖として、今、小児性愛者の批判と弾圧の先鋒に立っているのである。
ちなみに、行動と欲望は別のレベルで扱われるべきと私は思う。一方、そのスタンスは、心の中の欲望をそのまま実行に移すことを肯定していると受け止められやすい。どんな欲望を持っていても、実行にうつさなければいい。その代わり、実行にうつさないでいられるように、社会が協力しなければならないのではないかとも思う。そのための社会じゃないか。それは、個人主義第一に考えれば「抑圧」であるが、社会を保つための「しかたなく犠牲になっていただく方たち」なのだと私は理解している。
上記のツイートは、私のように、欲望と実行のレイヤーを分けて考えるという立場には立っていない。恐らく彼らは、その欲望自体がEvilなのだから火で焼かれてしまえと考えているのだと思う。皮肉にもそれはかつて同性愛者たちが、アメリカにおいて投げつけられて来た言葉や態度だ。ノーマリティの中に同性愛者が積極的に参加するとはこういうことなのだろう。薄暗がりのモンスターからお昼間のヒーローへ。偉くなったものだ。自分が受け入れられたら、今度は、自分が誰かを押し出し迫害する側に回るというのは、居心地悪いはずだ。だからこそ「これは迫害ではない」と言いたいだろう。そこで「子供」が戦場になっているのだとも思う。実際のところ、あちらの子供はもうちょっと守られるべきだと思う。
でもやっぱり、ウルトラ俯瞰をすると、ある欲望を持つ大人が別の欲望を持つ大人を迫害しているのだという側面は消えはしない。そこについて立ち止まって考えてみたのが『欲望問題』だったと思う。しかしながらアメリカでの運動では、Evilと名指しした相手に対する攻撃はGoodなのであり、恐らく、同書のように立ち止まって胸に手を当てて考えるようなタイプの人はこれに参加などしないのだろう。思想教化(Groomingと言っているが)には思想教化を。さすが清教徒の国だ。「どうなっていくか」というプロセスをしっかり見ねばならないと思って見ている。
アメリカという場所は、これまでホラー映画を通じてみて来たように、宗教の教義と関係のあるトピックに関しては、誠に激烈な議論と、極端な反発行動が出て来る国である。アメリカのホラー映画は家族に内在する闇や救い、奇跡や哀しさを表現して来た。今の異様な状況を、ホラー映画はどうとらえるのだろう。上記のアカウントの見るのもつらい投稿をそれでも見続けるのは、ホラー映画を知るための下調べでもある。また、ホラー映画を考えるということは結局、社会や文化、そして我々のことを考えることなのである。
宗教右派が同性愛を包摂?(インド編)
さて一方でインドの状況はまた違う。以下の記事を読んで私は結構驚いた。
インドでは改革保守に当たるのかもしれない、Vivek Agnihotri監督の寄稿。舌鋒鋭く外来思想や左翼思想を批判し、国家主義を盛り立てている。彼の立場なら、反同性愛のスタンスでいた方が楽なはずだが、彼はそういう古い人ではないのだ。ウッタルプラデーシュという北部インドの色々なものが煮詰まったような州で生まれ、商業映画の監督になったということは、自由や個人の自立を体現して来たはずの人でもあろう。
そして重要なことだが、彼はヒンドゥー主義の下にインド社会を再編すべきだという反グローバル派であり、言っちゃえば宗教右派だ。彼は他宗教を否定しているわけではなく、排除もしないと思うが、言葉は悪いが「少数派として立場をわきまえろ」という思想がありありと出ている。そこをどうにも私が受け付けられず、同時に興味深い。
インドにいる以上、この人みたいな動きには敏感になる。同性愛者としては選ばなければならない。もしかしたら、ヒンドゥーの名のもとにいた方が、同性婚が実現するのかもしれない…。打算なのかもしれないが、上記のGay against groomerに照らして考えれば、アグニホトリ的な思想についていくことは、インドの同性愛者にとっては合理的な選択たりうるかもしれない。インドにおいて「マジョリティ」でいられるということは、大いなる安心と自由を得ることなのだ。しかし、その自由とは、誰かの小さな犠牲の上に立っているのかもしれない。そのことはどう考えるのだろう。
インドには、「自由と寛容さを享受しているインド」というこれまた一つの虚構が活き活きと一部の人々の頭の中で活動している。これも思想教化である。それが何によってチャージされるかと言えば、「アンチ」の存在である。インドの自由さや「寛容さ」が無い国や文化とはどこのこと、どの宗教を指すか。その宗教を信仰するインド人には、彼の主張はどう聞こえるのだろう…。
同性婚をアジアで最初に実現した国が台湾であるというのは示唆的だ。かの国は強大な「アンチ」が存在している。同性婚がその一つのシンボルになっているのである。
私達も結局は何かを選ばされ、選ばなければならない。そのとき切り捨ててしまったり、薄暗がりに押し戻したりしてしまう色々な人々のことが頭をよぎるのだが、その罪悪感を何が埋めてくれ、正当化してくれるだろうか。アメリカでは子供の保護がそれをチャージしている。インドでは他宗教(特にイスラム教)へのアンチがそれをチャージしているように見える。
我々日本人は…「活動家」を叩いてさえいればいいのだろうか。「活動家」や学者は、アンチに対し「ノーディベート」を貫いてもいいのだろうか。いつかこの時代のことも俯瞰できるようになるのだろうか。苦い味と共に振り返るんだろうか。