竹美映画評㊱ 変容の通過点 『カラー・アウト・オブ・スペース 遭遇』("COLOR OUT OF SPACE"、2019年、アメリカ)
映画用語として、ボディホラーという言葉がある。体が変容する怖さをメインに据えたホラー作品群のことらしい。それが最も開花したのは、特殊メイクが発達した70年代以降で、80年代には最高潮に達していた。80年代には、見たら即食欲なくす系の特撮ホラーがたくさん作られた。ストーリーも大事だけどあの頃はもう、当時の史上最高興収を挙げた作品にはホラーが全く入ってきていないが、低予算でそこそこヒットしていたのであり、「食欲失くす絵ヅラが観たい!」という需要ははっきりあった。ラヴクラフトなんていい題材だったと思うが、一方でラヴの小説は「名状しがたい」とか「冒涜的な」という形で具体性の無い描写が結構多かったため、想像で補う必要があり、映像化すると、下手すると安っぽくなってしまう。
今回の映画は、そういう80年代的なものをちょっと変化球にして製作した異次元の恐怖を描く映画。
田舎で暮らすガードナー一家の近くに、ある夜謎の光を放つ隕石が落下。隕石から湧き出すパワーによって変質させられる一家の運命は…という映画。父親に扮したニコラス・ケイジが段々おかしくなっていく…のはちょっと笑えるし見どころの一つなのだが、哀しさもあり。
言っちゃえば、お話の筋に捻りはそこまでない。原作を読んでも、ただただ無力にも浸食されていく田舎の一家が描かれるという救いの無いお話だったし、そこから外れてはいない。
ところがねえ、本作観て、最後何かちょっと救いがあった。どうしてなんだろうか…この一家、別に普通の一家の感じなのね。息子は納屋でマリファナやってて、娘は何か今一つ田舎生活が好きではなくて、両親は子供たちのことを気にしつつもどう介入したらいいか分からないって感じ。子供達は子供達で、親のことを考えてもいるが、親みたいにはなりたくないのかもしれない。
でも閉塞感がすごくて、やっぱり狭い世界に囚われると人間関係ギスギスしてくるってのも同時に分かるお話ではあるよね。コロナ体験している中では特に。コロナ引きこもりで大変なことになっちゃった家って沢山あるでしょう。私と彼氏も大変だった。あの一家、光のせいでギスギスしてしまったとも言えるし、そうではなくて、元々あった何かが露わになっただけなのかもしれないと言ってる意見も読んだ。なるほどと思い、そう考えると愛って何かしらという気にもなる。まあ、ニコラス・ケイジだから最初から普通ではないよ。でもね、人間の認識や振る舞いは不変ではなく、環境次第でいとも簡単に変容してしまうんだと本作は教えている。ついでに身体も変容!!やめて!!!
ボディホラーを観ていて私が一番怖いと感じるのは「身体が変化して、元に戻らなくなって困惑している人」の描写。もしかしたら私にとって最も怖いものの一つかもしれないね。「もとに戻らない」=その人の見たくない部分が外に醜くはみ出しているのを観てしまう、ということだからかもしれない。顔かたちが変わらなくても、頭の中の認識が変化してしまうことも怖いよね。そして、本人目線では、そうなったら変容を受け入れた方が楽だろうし、苦悩するよりも、その新しい何かに身を任せる方が楽しいかもしれない。ホラー映画の中では「何でもあり」であるがゆえに、そのころっと変容しちゃう様子が滑稽なまでに生々しく描写される。本作も、一家のメンバーそれぞれが、何かしらの形で認識と身体の変容を体験する。それはとても残酷なことだが、それさえも最後、あの光が消し去ってくれる。
責任取ってるじゃないの宇宙からの光さん!ちゃんと!
最後の方の、一家の娘ラヴィニアの表情は穏やかで、絶望の淵で新しい自分の姿を受け入れたように見えた。身体を失った後の一家は同じ部屋で団らんしたりもできる(あれは誰から見た願望であり幻想だったのかな)。よう考えたら、一家全員が仲良くしているシーンは、あの映画の中には無かった気がする。
コロナは宇宙からの光かもしれないね。味覚や嗅覚が消えるとか、「肺の組織が繊維化する」なんてボディホラー感でぞっとするし、コロナから逃げるために家に閉じこもってみたものの、その中では、普段ならそんなことでキレるはずがないことでキレまくったり。世の中が前と同じではなく、『ザ・ヴォイド 変異空間』みたいに、皆の様子が少しずつおかしくなっているように感じる。
『カラー・アウト・オブ・スペース』は、コロナのことが持ち上がるよりもずっと前の映画にも関わらず、何だか妙に示唆的だった。最後のシーンで、水源の調査に来た男が、元々彼らのいた場所を見つめながら回想するのも…ひょっとしたら数年後、同じように過去に思いをいたす人がいるのかもなぁと思った。するとね、妙に救われた気がした。なるようになる。そして、多分悪いことばかりではない。