岡山が生んだ憲政の神様について。
おはようございます(^▽^)/
あいさつの由来は、仏教に由来しておりお互いが質問し合うことを挨拶と呼んでいたが、それが一般化されて人に会ったら挨拶をするということが礼儀になって行った。
こんにちはというのは漢字で「今日は」と書き、「こんばんは」は、今晩は、「さようなら」は、「さようなら」は、左様ならから派生したものであるということを知ってなるほどと思っているタケマンです。
今日は、岡山の生んだ憲政の神様である、犬養毅について書きたいと思います。
私は、恥ずかしいことにこの歳になるまで犬養毅が岡山出身であるということを知りませんでした。
これでは、まずいと思い少し調べてみたので皆さんにも共有します。
岡山県岡山市に生まれてた、犬養毅だが2歳の時に父親がコレラで死亡し、かなり貧しい中で生活することになる。
この後は苦しい生活を余儀なくされるが、明治9年には上京して慶応義塾に入学して、その後は、記者の道に進み、明治16年には大隈重信が結成した立憲改進党に入り、大同団結運動などで活躍した。
犬養は、第一回衆議院総選挙で当選して、第18回総選挙まで連続当選する。
そして、文部科学大臣となり憲法に則った政治を行うことで憲政の神様と呼ばれるようになる。
そして、一度は政界から引退することになるが、支持者たちによって立候補させられ選挙に当選し続けた。その後、首相となった犬養は、経済不況からの脱却に取り組み日本は、世界恐慌から最速で脱出することになる。
しかし、軍事力の縮小を認めてしまったため、海軍は、統すう権を犯したとして海軍の青少年たちは、犬養に怒りの矛先を向けた。そして、昭和7年総理公邸で休日を過ごしていた犬養のもとにピストルを持った海軍に銃弾で打ちぬかれる。
そして、犬養の名言でもある「今撃った男を連れてこい。よく聞かすから」「話せばわかる」と述べた。
その後、22時くらいまでは「心配するな」と口にするほど元気だったが、その後衰弱して78歳にこの世を去ることになる。
犬養は、「外国に侵略しようとは考えていない」とも話しており、もし犬養が殺害されることなく生き延びていたら、太平洋戦争が起こることもなかったかもしれない。
武力ではなく、話し合いによって解決しようとした姿は、今戦争に負けて感じていることであるため、犬養には先を見る力が備わっていたのだと思う。
それは、膨大な知識を持ち合わせていたからということを忘れては、いけないだろう。
今日も最後までみてくださりありがとうございました。
今日も最高の一日にしましょう!!