大江健三郎と「M」(1980年代小説について1)

調べたことの一部を少しずつ書いていきます。

 大江健三郎が1980年代から90年代前半にかけて発表した小説の多くには、小説家を職業としている「K」または「O」と呼ばれる男が登場します。その小説家が語り手になっているものが多いのですが、彼の家族(娘や息子)、それに親族が語り手になっているものもいくつかあります。もちろん、これはOe Kenzaburoという名前を持つ作者自身を連想させるのですが、さらに小説中で伝えられる彼の出身地(四国)や経歴(東京大学在学中に小説家としてデビューして、現在までそれを職業にしている)、家族構成は、雑誌・新聞・テレビなどで伝えられる作者にまつわる情報と一致しています。いわゆる「私小説」のように書かれているわけです。

 ただ、他のところで既に述べたのですが(『大江健三郎論』三一書房)、これらの小説は他の小説の中でフィクションであることがたびたび明言されています。その点では、多くの人がイメージしている作者の体験をそのまま小説にした「私小説」とは一線を画しているのですが、これもまた他のところで述べたように(これも『大江健三郎論』です)、「私小説」と呼ばれている多くの小説も実は作者の体験そのままを書いたものではないのです。そもそも現実をそのまま言語による表現に置きかえるのが不可能なわけですが、そこまで言わなくても何らかの誇張や省略が行われて実際の体験と別のものになっているのが「私小説」の常なのです。

 大江健三郎の1980年代以降の小説は過去に書いた小説を資産として再利用することによって構成されています。そして、後の小説Bが前の小説Aをフィクションと呼びながら参照し、またその後の小説Cによって小説Bがフィクションとして相対化される、ということが繰り返されています。
 同時に、過去の小説にフィクションとして書かれた事件を、後に書かれた小説が参照した上で現実にあったことにしてしまう、ということもあります。たとえば「同時代ゲーム」で書かれたフィクションの伝承が、小説家Kの村に実際にあったこととされているように。
 このような小説と小説の間にある関係は注目してみればなかなか面白いのですが、同時に江健三郎の小説をとっつきにくいものにして、「一見さん」の読者を遠ざけているということも言えるでしょう。なので、大江健三郎も時折他の小説と関係を持たない短篇を書いてもいるのですが、しかしそれらの小説もまた後の小説によって再利用されたりするのです。

 さて、前置きが長くなりましたが、以上のような点をふまえてここで書きたいのは、あたかも現実の出来事を反映しているかのように書かれた小説つまりフィクションが、現実にある言葉をどのように導入しているか、ということです。言い換えればどのように現実を利用して小説を構成しているか、ということになります。ここでいう現実にある言葉というのは人名・地名・組織名・作品名といった固有名詞のことです。
 たとえば、「「雨の木」を聴く女たち」(1981年)に登場する音楽家の「Tさん」。語り手の小説家が書いた小説に登場する「雨の木」という幻の木、それをモチーフに作曲したという記述を現実の世界と対応させれば、Tとは武満徹のイニシャルのことになります。同じ短篇集『「雨の木」を聴く女たち』(1982年)に収められた他の小説では文化人類学者のYさん(山口昌男)、小説家が大学で師事したW先生(渡辺一夫)と、小説が書かれた時期の文化状況や大江健三郎にまつわる周辺の事情を知っている読者なら推測のつくイニシャルが並んでいます。
 ところが、その一方で『「雨の木」を聴く女たち』連作で重要な意味を持つマルカム・ラウリーについてはイニシャルではなく一貫して実名で記されているのです。『新しい人よ眼ざめよ』(1983年)の連作ではウィリアム・ブレイクや、ブレイクの研究書を書いている学者の名前が、またそれ以降の小説でも多くの文学者・芸術家・研究者の名前が実名で出てきています。もちろん、ラウリーやブレイクの具体的な作品の記述を取り上げているのですから、実名をあげないとわかりくいということがあるでしょう。ただ、渡辺一夫も文章が引用されているにもかかわらずW先生と呼ばれているのからすると、その基準でイニシャルと実名を書き分けているのではないと考えられます。
 この点について考察するための材料としてここで提示したいのは複数の小説での三島由紀夫の名前の扱われ方の違いです。三島由紀夫に最初に言及した小説は『新しい人よ眼ざめよ』に収められている「落ちる、落ちる、叫びながら・・・・・・」(1983年)。朱牟田という男が「先年自殺した高名な作家」「Mさん」にかかわって小説家に話しかけてくるシーンがあります。「自決十周年」という言い方もあり「M」が三島由紀夫を指しているのは明らかなのですが、この中ではイニシャルで通されています。
 ところが、その後『河馬に噛まれる』(1985年)に収録されている「「浅間山荘」のトリックスター」(1984年)では「ミシマ」、「死に先だつ苦痛について」(1985年)では「三島由紀夫」という固有名が使われているのです。前者はユウジーン・山根という日系アメリカ人の語る言葉の中に世界的作家の一人「ミシマ」として出て来るのだし、後者でも小説家の旧友の部下倉本が事件を起こした後に貶められた集団の例として「三島由紀夫の政治集団」をあげているだけです。他の実在の人物についてはこのような変化はありません。

 「落ちる、落ちる、叫びながら・・・・・・」が後に書かれた二つの小説が違っているのは、他の登場人物の言葉で三島由紀夫への言及があるだけではなく語り手自身の地の文で作家「M」について語っている点です。

 「南さんによれば、青年たちのうち幾人かMさんの薫陶を受けた者らがいる、と朱牟田さんがいったのは事実そのままとはいえない。むしろ青年らの全員が、たしかに極左、極右と思想的にわけられうるにしても、両者を結ぶものは、M思想、M行動なのだ。Mさんの死によってかれらは―といってもかれらがすべてMさんのつくっていた私兵組織に属していた、というのではないのらしい。多くはMさんの書くものに孤独に関心を持っていたのが、Mさんの自決によって、自分らは取りのこされた、と感じたのである。むしろかれらはMさんの死後はじめて集って、M思想、M行動を研究してゆく集団をつくった。そのうち朱牟田さんのもとで体育部に居た学生が仲介役になり、当の集団と朱牟田さんを結びつけたのである。朱牟田さんは、ボディ・ビルをやっていたMさんと親交があった。」

 この箇所を読むと「M」という人物は作家としてではなく、青年たちに影響を与える思想家・行動家として扱われています。しかも、過去においてだけではなく現代においても影響を持ち続ける(実際は死んでいるにもかかわらず)生きた存在としてです。その点で、「M」は実在した三島由紀夫ではなく、独り歩きした別の存在としての、いわば虚構としての「M」を登場させていることになるでしょう。語り手の小説家は「M」と思想を共にすることはないものの、しかしその影響を無視することはできない、ということにもなります。「M」というイニシャルは異物として際立たせるために使われた文字ということなのではないでしょうか。
 それに比べれば、世界的作家としての「ミシマ」という名前や、ゴシップ上の「三島由紀夫」という文字列は異物感の無い平凡なものにしか見えません。

 では、ラウリーやブレイクといった固有名はどうなるのでしょうか。おそらく小説中で重要なのは引用されている彼らの書いたテクストであって、実際は登場している名前自体には意味がないのでしょう。ただ、意味がなくても、著作権上名前を記さないわけにはいかないのです。

 実在の有名人物の呼び名についてはひとまずここまでとして、次は無名の実在人物について考えてみる予定です。

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