『作者のひみつ(仮)』序章
序章 作者のなにが問題なのか?
作品と作者の特別な関係
文学に限らず、絵画・音楽・映画・マンガなど、表現されたものについて考える際に、作者について思考する誘惑からは逃れがたいものです。
たとえば、このような作品を作る作者とはどのような人なのだろう。この作品は気にいったけれどもこの作者は他にどんな作品を作っているのだろう。同じ作者の作品をまた読んで(見て・聞いて)みたい。このように、作品からそれを表現した作者へと意識が向かうということはよくあることでしょう。
さらに、同じ作者の複数の作品を享受した後に、それらの作品に共通する特徴、作者の個性、いわゆる「作家性」を見出すということもよくあることでしょう。中には、「作家性」の理由を作者の体験に結び付ける人もいたりします。その上でその作者の愛読者になり、新しい作品にそれまでの作品と共通する特徴を期待するようになるのです。
また、このように作品から作者の個性や「作家性」を読みとったりすることに加えて、書籍・雑誌・新聞・テレビといったメディアでふれた作者の写真・インタビュー・エッセイ・日記といった情報から作者のイメージを形成することは誰もがしてしまうことです。、またその情報・イメージを実在の作家と同一視し、それを作品を理解する上での助けとすることも多いわけです。それどころか、作者についての情報を得ること無しには作品を理解できないとさえ考えられたりもします。
このような作品と作者の特別な関係はどのように当たり前のことになったのか、作者の特別な地位はどのように形成されたのか、またそのような地位はどのように現在も維持されているのか、そしてそういう作者の地位には問題が無いのか、それが本書のテーマです。いや、問題が無いのか、と書きましたが、わざわざそのような問いを立てるということは、問題があると考えているからだということは最初に言っておきましょう。
テレビ番組での作者の扱われ方
ここで作者と作品を結び付けた例として、テレビのバラエティ番組である作家が紹介された例をあげておきます。どのような映像が流れて、どのようなナレーションが付けられたかを紹介します。ネット上での番組紹介にはナレーションを少し書き直したものが掲載されています。
「未来シアター」(日本テレビ系列、2013年5月10日放送)
〈革(かく)新(しん)者(もの) 漫画家 諫山創〉
http://www.ntv.co.jp/mirai-theater/20130510.html
巨人が人間を喰らい尽くす。そんな衝撃的なストーリーのマンガがある。
『進撃の巨人』
(略)
今年四月からはアニメ放送も開始し、一大ブームを巻き起こしている。作者は、これがデビュー作の若者。二十六歳にしてマンガ界の革新者となった諫山創の素顔にせまった。
作者に限らないことですが、有名人を取り上げたテレビのドキュメンタリーやバラエティ番組では、その人物の「素顔」を見せることを謳い文句にしていることが多いです。いくらその人が有名だとしても、人々がメディアを通して知る情報やメディアを通して目にする姿はごく限られたもの、仕事として役割の中で示したり見せたりするものです。あんなすごい仕事をしている人のことをもっと知りたい、その偉業の背後にあるものを知りたい、という視聴者が多いだろうという前提でそれらの番組は作られています。これは現代のことだけではなく、近代になって作者が特別な存在になって以降のことです。詳しくは7章で述べます。
マンガ「進撃の巨人」の作者諫山創についても、あのような時に残酷で時に熱いマンガを描く作者とはどのような人物なのだろうか、どのように「進撃の巨人」というマンガは生み出されたのか、という関心を持っている視聴者・マンガの読者がいるだろうという前提で、この番組は進んでいきます。
若者の間で、カリスマ的な人気を誇る諫山。表舞台には滅多に姿をあらわさないためサイン会を開けばこの長蛇の列。連載が始まってわずか四年、名もなき青年は、知らぬ間に有名人になっていた。
経済的にも大きな成功を手にした。だが、車はおろか自転車すら持たず、もっぱら電車で移動する毎日。唯一お金を持って変わったのが広くなった自宅兼仕事場。今回はじめてテレビカメラが入る事を許された。
番組では「進撃の巨人」の、たとえば巨人が人間に食らいつき食いちぎるようなインパクトの強いコマをいくつか紹介し、その後「表舞台には滅多に姿をあらわさない」諫山創のサイン会会場や仕事場での姿を顔も含めて映し出しています。まず作者の顔を含めた外見を伝えるのは、作者の名前にリアリティを持たせるということもありますし、また外見から受けるイメージを作品や創作の過程を結びつけるためでもあります。作者の外見と作品には何の関係も無さそうですが、特に写真が発明され、また出版物に印刷することができるようになってからは様々な作者の写真が読者に影響を与えてきました。詳しくは4章で述べます。
実際、この番組でも、痩せ型で華車な諫山創の外見を以下のように「進撃の巨人」の設定・ストーリーと結びつけていきます。
諌山が描き出す『進撃の巨人』は突如現れ人々を襲う巨人と、存亡の危機に立たされた人類との闘いが描かれている。圧倒的な力を持つ巨人の前で、為す術なく食われていく人間。表現されているのは弱肉強食の残酷ともいえる世界。
その原点は少年時代にあった。幼い頃から体が弱く、周りの子より十キロ以上痩せていた。スポーツもケンカも勝てない。「弱者という劣等感」だけが心を支配していった。
そんな諌山少年が夢中になったのは特撮変身ヒーロー。ヒーローのように強くなりたい。少年時代から抱き続けてきたその思いをマンガにぶつけた。
ここで「表現の原点」とされている少年時代のことを伝えるために、当時のプールらしき場所で撮った水着の写真や相撲を取っている写真を使って、「体が弱く、周りの子より十キロ以上痩せていた」ことにリアリティを持たせ強調しています。さらに、そんな敬虔をし、「劣等感」を感じていた作者だからこそ「弱者」が苛まれる「進撃の巨人」を描けた、という風に作者と作品を結びつけています。作品には作者の経験や自身が感じたことや考えたことが反映されているということが前提となっているわけです。
十九歳で描き上げた『進撃の巨人』。巨人に立ち向かう小さな人間は諌山自身の願望が形となってあらわれたもの。進撃の巨人は大ヒット。しかしその成功とは裏腹に生まれた感情。本当に描きたいマンガはこれなのか? 読者に合わせているだけじゃないのか?
変身ヒーローが描きたい。周囲の反対を押し切って主人公を巨人に変身させる決断を下した。ブログに寄せられた読者からの反応。「思ったのと違う」「落ちぶれた」、辛らつな言葉が並んだ。諌山は問いかけた。「僕は読者が求めるストーリーを描くべきですか?」
すると…
「「読者の意見に合わせて描くようなマンガなら読むのをやめます」。ですよね。おれもそう思う。もうこれ以上売れなくてもいいや。一生分の評価はもう受けたと思うんで。だったらもう正直に何か人の記憶に残りそうなものを作ろうって思います。」
その決断の結果、「進撃の巨人」の売り上げは落ちるどころか飛躍的に伸びていった。強いものが勝ち、弱いものは敗れる。過酷なこの世界で生き抜く術を主人公の姿を借りて諫山は問いかける。「戦え」
「なにより描いたけど誰の記憶にも批判さえない。僕はそれが一番怖いですね。それだったらとんでもないクソマンガ描く方がましだと。あんなひどいマンガ見たことないっていう、それぐらいの方が価値があると思います。」
さらに後半では、作者自身に自分の作品についてそれがどのように作られたのかを解説させています。「周囲の反対を押し切って」とナレーションで補うことで、その「決断」が作者の強い意志によるものであることを強調もしています。作者自身が解説するのだから、番組の中で映像が挿入された「ウルトラマン」のような「変身ヒーロー」を描くマンガとして「進撃の巨人」を扱うのが正しいのだ、と思いこむ視聴者も多そうです。実際、これまでも作者自身の言葉は作品について考える上で重要なものと見なされてきました。詳しくは6章で述べます。
この番組を見て、「進撃の巨人」というマンガの背景には作者の体験やそこから得られた感情、それに作者の描きたい意志が反映されていたのか、と納得した人もいるでしょう。「弱肉強食」の世界で「変身ヒーロー」を登場させる、それこそが諫山創の「作家性」だという風にとらえることもできるのでしょう。
作者中心の立場への批判
しかし、それだけではあのマンガの全てを語ったことにはならないな、と不満を感じた人もいるかと思います。「進撃の巨人」では、主人公が巨人になって強い力を手に入れながらも、「ウルトラマン」のような変身ヒーローもののように連戦連勝ではなく、ほとんどの戦いに負けています。また彼が戦う相手も怪獣や侵略宇宙人ではなく自身と同じように巨人化した人間です。また、主人公が生きる世界の設定も、「ウルトラマン」との関係だけでは全く説明できません。では、もっと作者についての情報を集めたら、それらの点も説明ができるのでしょうか。
作者についての情報によって作品について明らかにできることも多いのでしょうが、それだけで全てが説明できるとは限らないのではないか。これが本書の立場です。おそらくこの立場は一般的とは言えず、どうやら多くの人は、明らかにできる面の方を強調して考えているようです。
もう一度整理してみましょう。作者は名前だけではなく顔(肖像)付きで知られ、作者は自作を解説し、作者の体験や感情は作品に反映される。作品は作者と強く結び付けられるのが当然である。
この考え方は、もう一つの作者をめぐる考え、著作権の思想とも非常に親和性が高いものです。後で詳しく説明しますが、作品は作者の私有財産として、また作者の人格そのもの(の反映)であり、作者と作品は切り離せないものである、というのがそれですが、この思想に基づいた法律・制度は近代になって普及したものであり、近代における芸術・文学等の作者についてのとらえ方に大きな影響を与えています。詳しくは2章で説明します。
著作権の問題とも関わらせつつ、作者について歴史的にまた現代の問題として考察する、というのが本書で目指すところです。
今説明したような作者の扱われ方は多くの人に当たり前のものとして受け入れられそうですが、これについては既に半世紀以上前から批判がなされています。たとえば1968年に発表されたロラン・バルト「作者の死」では、「作者は今でも文学史概論、作家の伝記、雑誌のインタヴューを支配し、おのれの人格と作品を日記によって結びつけようと苦心する文学者の意識そのものを支配している。現代の文化に見られる文学のイメージは、作者と、その人格、経歴、趣味、情熱のまわりに圧倒的に集中している」と、「未来シアター」について説明したことと同じことが主張されています。そして作品から「唯一のいわば神学的な意味(つまり、「作者=神」の《メッセージ》ということになろう)を出現させる」ことを否定し、。そのかわりに「引用の織物」である「テクスト」としてとらえることを提唱します。作品には作者からのメッセージがこめられているという考え方にならされている人には、すぐには受け入れがたい主張かもしれませんが、詳しくは8章で説明します。
では、次の1章では、わたしたちが生きている時代、ここまででも「近代」という言葉を使ってきましたが、近代以降がその前の時代とどのように異なっているのか、そしてその違いが作者をめぐる状況の変化とどうかかわっているのか、本書の大前提となることをまず説明することにします。
(現在作業中の『作者のひみつ(仮)』の序章を載せてみる。大学の講義で取り上げた内容だが、その講義がカリキュラムの関係で無くなったので、文章化してまとめることにした訳である。あとの章もここに載せるかは未定。)
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