『夢野久作の日記』より(3)

(2)から少し日にちが経って、同じ1926年の後半、あらためて「狂人の解放治療」という原稿の話題が出て来る。精神病棟という閉ざされた空間を舞台とした「ドグラ・マグラ」だが、その執筆は閉ざされたものではなく、家族や友人に読ませて感想を聞くという過程を踏んでいたのがこの時期の日記の記述からうかがえる。

「七月十日 土曜
 天気よし。妻に、狂人の解放治療(17)の話をきかす。

 七月二十六日 日曜

 終日、物書き。頭重くなる。
 龍丸、鉄児の処へ蚊屋釣ることならぬと云ふ故、叱つてあやまらせる。

 七月二十七日 火曜
 八時和白発にて出福。大野に到り書物を貰ひ、帰途榊博士とつれ立ち、土居まで来る。
 三角にてけいこ。ッルハラ、佐藤、渡辺、小山君来り、蚕の事を話す。」

「榊博士」とは(1)でも登場した、元九州帝国大学医学部教授のことと推測される。「ドグラ・マグラ」についての話をしたかなどは不明。

「七月二十九日 木曜
 しの崎さんの処に立寄り、じゆん坊をつれて伊藤君の処に行き、一所に筥崎に行きてテニスをなし、正午香椎にかへる。
 途中、じゆん坊に頭のつかひ方の話をする。

七月三十日 金曜

 徳蔵君来る。二人で狂人の解放治療の原稿よんでくれる。」

「じゆん坊」とは杉田龍丸の注によると戸田順吉という人物、「徳蔵君」とは注によると、杉山徳蔵という人物で夢野久作の妻クラの義従弟。彼らが「ドグラ・マグラ」の原型の最初の読者ということになりそうだ。

「七月三十一日 土曜
 晴。じゆんちやんかへる。
 物書けばペンの響きに虫の音に秋の音する夏のたそがれ
 はるかなる月の影かなしつかなるわが心悲しく静かに

 八月一日 日曜
 原稿書き。晴。

 八月二日 月曜
 原稿書き。晴。

 八月三日 火曜
 原稿かき。晴。


 八月四日 水曜
 原稿書き。晴。

 八月五日 金曜
 原稿書き。晴。」

と、また勤勉な日々が続く。そして。

「八月二十一日 土曜

 とうとう今日まで日記なまける。狂人の解放治療遂に書き上げる千百余枚。徳蔵君小包を包んでくれて、東京博文館森下岩太郎氏宛送る。
 明の謡の会のため、一生懸命暗記をする。」

ついに「狂人の解放治療」の原稿が完成する。東京の博文館はごぞんじ『新青年』を発行している出版社、森下岩太郎は『新青年』編集長の森下雨村の本名。当初は博文館からの発行を目指していたということだろうが、それは実現せず夢野久作と「ドグラ・マグラ」の日々はさらにさらに続いていく。

 次に「狂人の解放治療」という名前が日記に見られるのは、翌1927年の元日のことになる。(続く)

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