『夢野久作の日記』より(1)
大学院の講義で「ドグラマグラ」を講読したので、参考に杉山龍丸編『夢野久作の日記』(葦書房、1976年)も読んだ(近畿大学産業理工学部図書館所蔵のものを貸借)。
夢野久作は1936年に亡くなっていて既に著作権は切れている(青空文庫には複数の作品が掲載されている)。また『夢野久作の日記』自体、現在では入手が難しくなっているので、「ドグラマグラ」に関連する部分だけここで紹介してみようと思う。
なお、本書に収録されているのは、息子で編者の杉山龍丸が所蔵していた1910(明治43)年、11(同44)年、12(同45・大正元)年、24(同13)年、26(同15・昭和元)年、27(同2)年、28(同3)年、29(同4)年、30(同5)年、35(同10)年の分だけである。
「1924年3月5日
榊博士が東京へ行きたりし時、新聞記者が発見し得ざりし道すぢを語る。」
「1926年3月13日
榊博士訪問。」
榊博士というのは九州帝国大学精神科の教授で、「ドグラマグラ」の正木博士との名前の近さを暗示する人もいる人物である(「ドグラマグラと九大精神科」 http://www.med.kyushu-u.ac.jp/psychiatry/cn20/pg132.html )。九大フィルハーモニーオーケストラの創設者だったり(「九州大学医学部のきらめく博士たち」 http://www.ncbank.co.jp/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/079/ )と多才な人物であることも正木博士を彷彿とさせるが、詳しくはこの論文のpdfファイルを参照してください(「榊保三郎と「優等児」研究」 http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=32638 )。榊博士は1925年に九大医学部を退職しているが、夢野久作はその後も彼と会っていたらしい。
「1926年5月11日
終日、精神生理学の原稿を書く。
5月12日
終日、原稿を書く。
5月13日
終日、原稿を書き、骨子だけ出来上る。
5月14日
けふも原稿書き。寒し。十時就寝。
5月15日
けふも原稿書き。風寒し。天気よし。第二回下書き終る。
5月16日
けふも原稿書き。
5月17日
けふも原稿書き。
5月18日
けふも原稿書き。
5月19日
けふも原稿書き。」
5月11日に出てくる「精神生理学の原稿」というのが「ドグラマグラ」の初稿である。5月8日に「あやかしの鼓」(青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000096/card531.html )が『新青年』の懸賞(今の新人賞にあたる)で二等になった旨の手紙を受け取り、いわば職業作家夢野久作が誕生した直後に「ドグラマグラ」の原型が既に書き始められていたわけである。
そして、その後も毎日毎日彼は原稿を書き続けていく。まずは九日間休み無く。この生活は10年後の彼の死まで続く。足かけ10年かかった「ドグラマグラ」の執筆・修正作業の間も、他の短篇・中篇作品を書き続けている。『夢野久作の日記』を読んでいて、まず印象に残るのはその勤勉さなのだが、今回はひとまずここまでにしておこう。
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