見出し画像

割り切れないままに ─ 理解への焦りを超えて

「あ、なるほど」

MacBookの画面を見つめながら、私は小さくつぶやいていた。画面には技術記事が表示されている。理解できた気がする。

数時間前も、似たような言葉を口にしていた。子どもの友達関係の悩みを聞きながら、「なるほど、そういうことか」と。アドバイスまでしてしまった。だが、本当に理解できたのだろうか、あの子の気持ちを。

Slackに新しい通知が入った。チームメンバーから具体的な相談が来ている。すぐに返信しなければ。いや待て、本当にわかっているのか、この相談の本質を。

立ち止まることなく、次々と「わかった」を積み重ねていく日々の中で、私は「わからなさと共に生きる」という文章を読んだ。

自分は物事を正しく理解できるという感覚があるとしたらそれはたぶん錯覚で、多くの場合わかった気になっているだけです。

わからなさと共に生きる

この言葉が、「繊細な精神」という概念を思い出させた。元々は哲学者パスカルが考えた概念だ。

繊細な精神とは「割り切れなさ」を大切にする精神ともいえる。
割り切れなさを無理やり割り切れる形で「解決」してしまうのではなく、むしろそれを割り切れないままに保持し、大切にし、それをどこまでも誤魔化さずに見据えることが、その根幹にある。

中島義道

この「わかったことにしたい」という欲求・必要性は、現代のデジタル社会でより一層強まっているように思う。

・iPhoneに届く通知の一つ一つに、すぐに応答しなければという焦りを感じる。
・チャットの「既読」の表示に、即座の返信を強いられているような気分になる。

すぐに理解し、すぐに応答することを求められる環境の中で、私たちは立ち止まって観察することを忘れがちだ。

日々の仕事の中でも同じことが起きている。
相手の言葉を聞きながら、すでに答えを準備している。
MacBookの画面に映る長文を読みながら、頭の中では解決策を組み立てている。
けれど、そこに本当の理解はあるのだろうか。

便宜上判断するけど、気持ちとしては何事も仮決めだと思うくらいでちょうど良いのではないでしょうか

わからなさと共に生きる

しかし、この「仮決め」の姿勢を保つことは容易ではない。中島義道は警告する。

実践するのは難しい。「人間なんて割り切れないものさ」という態度は、実は最も繊細な精神が欠如した人だ。はじめから密着して観察することを怠っているのだから

中島義道

デジタルツールは、私たちの思考を加速させる。検索すれば、すぐに答えが見つかる。AIに問いかければ、即座に返答が返ってくる。この即時性が、この利便性が、この「答えらしきもの」が、深い観察や理解を妨げるように思えてならない。
「わからなさと共に生きる」の著者は次のように述べる。

結論を保留することは優柔不断になるということではなく、むしろ逆で、自分がこれからやることの過程や結果に何も結論付ける必要はないと知っているからこそ恐れず進めるのだと思います。

わからなさと共に生きる

この文章を書いている私自身も、何かを「解決」しようとしている。「わからなさと共に生きる」ことの意味を、「わかったことにしたい」と焦っている。

あなたはいま、この文章を読みながら、どこかで安心していませんか?
私の自己懐疑に共感し、それを「理解した」と思っていませんか?
私があなたに投げかけるこの問いかけすら、あなたは「わかった」と受け止めようとしているのではないですか?

この文章も、私の言葉も、「わからなさ」から目を逸らそうとする試みではないのか?
私たちは、どこまで行っても「わかったつもり」から逃れられない。
それでも私たちは、この「わからなさ」を抱え続けるほかない

なぜなら、物事の本質により近づくために、私たちは立ち止まって観察し、「わかったつもり」という誘惑に抗い続ける必要があるから

表面的な理解で満足せず、目の前の「割り切れなさ」と向き合い続けること。

その不安定さの中にこそ、私たちの前進の可能性は宿っている。

#エッセイ #中島義道 #繊細な精神 #思考 #観察 #理解 #哲学 #自己省察 #働き方 #デジタルライフ

いいなと思ったら応援しよう!