パンツ一丁の見巧者
友人とチャットで話していた時のことだ。グラフィックボードの修理に挑戦したという彼は、事態を面白おかしく表現してこう言った。
「まぁ、結局のところ、パンツいっちょのおっさんが風呂場でPCを前にこねくり回してるだけさ(笑)」
私は笑いながらも、こう言った。「違うんだよ。そう見える人がいたとしたら、その人の解像度が足りないんだ」
PCのことなど何も分からない彼は、それでも考え抜いていた。
埃が舞わないよう、風呂場を選び、
静電気を起こさぬよう、パンツ一丁に。
——それは初心者なりの必死の選択だった。
でも、その選択の向こうに、もっと本質的な何かが見えてくる。
人は追い詰められた時、全てを脱ぎ捨てる。
服も、プライドも、見栄も。
風呂場という非日常の空間で、パンツ一丁になって機械と向き合う。
それは滑稽な光景かもしれない。
でも、その姿こそが、真実を「見る」ための本来の姿ではないのか?
揺らめく蛍光灯の下で、PCはその神秘を少しずつ明かしていく。
最初は「ただの箱」にしか見えなかったグラフィックボードが、じっと観察を続けるうちに、その姿を変えていく。
取り繕う余裕を失い、ただひたすら見つめ続けた時、不思議なことが起きた。
ケースの隙間が見え、放熱フィンの配置が分かり、グリスの状態が読める。
知識ではなく、純粋な観察が世界を解き明かしていく。
その時、ふと思い出した。
NHKの番組で見た柄本明の最後の講義のことを。あの日、柄本さんは講義の締めくくりに、ホワイトボードに一つの言葉を書いた。
「見巧者」
—見ることの上手い人、という意味だ。
柄本さんはこう語っていた。
これらの言葉が、今、深く響く。
友人は自分の姿を笑い飛ばした。
でもその笑いの中に、私は真実を見出した者の余裕を感じた。
彼は確かに「見た」のだ。
PCの知識など関係なく、パンツ一丁という究極の姿で、偽りのない「観察」を成し遂げたのだ。
世界の見え方は、着飾った時より、全てを脱ぎ捨てた時の方が、どれだけ鮮明になることだろう……。
パンツ一丁の男は、実は最も純粋な「見る」という行為に到達していたのかもしれない。
そこには確かに、一人の「見巧者」の姿があった。