豊島区立南池袋公園に見る「公園」と「公園的な場所」の考察
「公園」と「公園的」の違いという観点を読んだ。
非常に捉えどころが鋭い比較であると先ずは感じた。
それで思い出したのが私が住む豊島区の池袋にある「南池袋公園」への違和感についてである。
数年前に全面芝生でカフェを併設している明るい公園としてリニューアルし、近隣の若い家族や学生などを中心に好意的に利用されている。イベントも毎月のように開催され、文化発信拠点としても積極的に利用されている広場だ。
以前の南池袋公園は池袋の真ん中にありながら、日中殆ど人がいない寂れたスペースだった。まばらにいる人は休憩中のサラリーマンだったり、楽器練習している人だったり、あるいはホームレスだったりと、都会の喧騒を離れてのんびり過ごす利用者だったと思う。(「思う」というのはあくまで私が観察した主観であるから)
さて、そこで冒頭の「違和感」の話に進むが、私が感じる違和感というのはそもそも公園というものの定義との差異についての違和感である。
公園とは文字通り「Public(公共的)なPark(広場)」である。そこで指し示す「公共」というものは、ふつうに捉えるなら「みんなの」場所という事だろう。問題はその「みんな」をどのように捉えるかになる。
以前の南池袋公園はお世辞にも明るい空間とはいえなかった。先ほども述べた通り寂れた空間に少しの遊具があるという場所であった。それ故にNPOによるホームレスの炊き出しの場として利用されていた。
つまり広場というのは何か事情を抱えた人の逃げ場という機能も本来はあるはずなのだ。
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