別の山の地図
正解は人の数だけある。
人には人の、乳酸菌。
生き方や人との関わりにおいて、「わかった!」と思うことがあって、それを行動指針にしたら、大体うまくいくという場合でも、それは私だからでしかない。
生まれ持った素質も、環境も感情も経験も周りの人も、何もかもがひとそれぞれで違っている。一見同じような環境にいる人でも、自分には想像しえない何かを抱えて生きているかもしれない。
だから、私が生きて体得してきた正解は、私のものでしかない。
私の体得してきた正解を誰かに話して、その誰かが「そうか!」と何か気付いたとしても、それはまた一つ形を変えた正解になっているはずだ。
言葉の背景までもを、完全に一致させることは出来ないから。
だからこそ、相手が私の考えを聞きたがっているならまだしも、特に聞こうともしていないのに私の正解を言って聞かせるのは、本当に無意味なことだと分かる。
相手は私とは別の道を歩いていて、別の困難を抱えていて、別の山頂を目指している。そんな相手に、自分の見つけた地図を見せびらかして、あなたもこうしなさいと押し付けても受け取りようがない。
相談をしてくれた相手に対して、私が一番に気を付けるべきことは、「聞くに徹する」ことだと思う。相手の人生を生きてきたわけでも、一緒に悩んできたわけでもない私が、今ちょろっと話を聞いて、ちょっと考えて出てくる答えならば、相手にも思い浮かんでいるに違いない。
いや、私はその人とは違う経験をしてきたからこそ分かるのだ、というならば、それは言葉では伝わらないのだから今話して聞かせても、相手を心から納得させられない。
相談を受けるなら、これでもか、と思うほど、相手の状況と、心情を、何度も答え合わせしていく人でありたいと思う。
そんなことがあったのか、そんな環境にいるのか、それは~~と感じるね、と初めは粗い想像でもいいから相手の心情を想像して確認してみる。
相手は、うん、私は~~というより、~~と感じて、と、もっと詳しく話したくなるはずだ。
そうやって何度も相手のいる場所と、それまでの道のりを確認しながら一緒に歩いてはじめて、最後に私は私の中にもどってくる。
私だったらどう思うか。そんな環境で生きている相手を素直に尊敬するならそれを伝えるし、でも~~だったのは不幸中の幸いだね、と言えば、少しの希望に向かって生きている感覚を共有していることが伝わるかもしれない。
こうしてみる?とネタ交じりに提案してみてもいい。採用されてもされなくても、相手が少し笑顔を思い出せば、大手柄だと思う。
相手の置かれている環境の「難しさ」を、出来るだけよく理解しようとする。
それをせずに自分の思う対処法や自分の経験を語り始めることは、しない人でありたい。年をとっても。