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自分の足で歩くこと

少し自分の言葉を晒すことに臆病になっていた。
この温かく柔らかい場所でも、私はまだまだ色んな刺激をしっかり受けやすいということを知って、それなら距離を置こうと危機管理ができた、ということにしておこうと思う。

言葉に触れることは大好きだからこそ、今よりもっと、自分の言葉も誰かの言葉も上手に拾って触って愛せるようになりたい。
そして、自分の言葉を通して見る世界が今より少しずつでも明度が上がっていけばいいのにな、と願っている。


***


最近のこと。

うつ病になって、外の世界の刺激に敏感になってから、色んな情報を意識的に拾わないようにする生活が身に付いた。
SNSとの向き合い方は大きく変わったし、新しい場所に行くのも、知らない人と話すのも。昔はどちらかと言えば外交的でお喋りで社交的だった。外の世界を知るのが大好きだったのに、今は自分のペースで優しい想いだけが受け取れる場所に腰掛けるだけが私の小宇宙になった。

少し前からとある勉強を始めた。
職場で勧められて、講座受講の費用も会社で負担してくれるとのことだったので「長期戦で生活の一部に入れ込めるほど小さな習慣になること」を友人やカウンセラーさん(実質的主治医)との約束にして、今のところぼちぼち続けられている。

やり始めたら毎日欠かしたくないマンが案の定腕まくりをするので、すぐに袖を下ろす。
できる範囲でやると約束して始めたんだから、その約束を破ったら不合格。試験に受かることが合格ではなく、無理をしないで続けることを合格にしているので何度もその前提に立ち返りながらの毎日だ。


勉強を始めて、小さくなってしまった私の世界に奥行きが出た。
という感覚に陥っている。

思わぬ情報に触れること、新しいものに対峙する時に感じる摩擦、予期せぬ不快感を踏む地雷。そういうものを恐れて世界を狭めてしまった寂しさが、自分の頭と手の動く範囲で埋めることができているような。

単純に脳が満たされる。
自分でコントロールが効く新たな情報との対峙が何とも心地良い。


脳が満たされると、心にハリが出る。
生活にも足取りにもリズムが生まれる。

もしかして、今私、勉強に生かされている???
もしかしなくても、自分で自分をめっちゃ生かしているのでは???

強制力のない日々の習慣が、すぐ目の前にある標識のようになってくれている。

お陰で、なんだか毎日、生きている。


何年かかるか分からないけど、いつか資格を取ることができたのなら、会社員なんか辞めてワンコと一緒にお家でのんびり働くんだ~などと頭の悪そうな夢のまた夢を語りながら、ふと自分がいつ来るかも分からない未来に想いを馳せていることに気付いて泣きそうになったりする。
少しでも未来という前方に、歩みを進めているのかもしれないな、と。


そんな話をすると、みんな「偉い」という言葉をかけてくれるんだけど、私からしたら「ありがたい」なのである。
生きることに希望なんてないし、別にそんな高尚なもののために生きたいと思っていないけど、でも自分で自分を生かしてあげている感覚”そのもの”に信じられないほど救われている自分がいる。


結局、私は誰にも生かしてもらえなくて。
そうやって言うとすごく悲しく聞こえるかもしれないけれど、でも仕方ないから私が私を生かしてやるしかないんだなぁ、と今はほんの少しだけ日々の足取りから錘が取れたみたいだ。


もう、自分の足で歩くのは疲れたと思っていたし、今でもふと思うことがある。でも思ったとて、私は自分の足で立つし座るし歩いているんだなぁと足元を見て思う。

わざわざ重たい靴を履いて足を引きずる必要はないのに、いつの間にか勝手に重たい靴を選んでしまうのが私なのだから。
それならせめて、私は私のために少し軽い靴を履いて生きてあげたい。


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