『ヒーリングっど♥プリキュア』から人生の幸福を本気で考える(2万4千字)
この記事には当該作品のネタバレが含まれております。
『ヒーリングっど♥プリキュア』って、プリキュアというより『Fate/Zero』とか『仮面ライダー』とかのほうが近いんですよね。
適応障害になったら幸福が分かった話
「失って初めて、あの頃は幸福だったと私は気づきました」
なんて書くつもりは一切ありません。事実そんな感覚生じませんでした。
私は今、普通に幸福であると思ってます。ようやく。20年ぶりに。
私の養育環境や、ギフテッド体質が少し特殊なのもあると思いますが。
今だけかもしれませんが、今は、私が私を生きることができていると感じています。確かにそれを味わえているように思います。
ただ、現状は一般的におそらく劣勢だと見なされるでしょう。
なにせ、10年来で計画していた人生計画が開始から半年持たずに破綻したわけですからね。新卒で働けなくなるとはこういうことらしいです。体質に診断もついてしまいました。年齢も干支を2周したところで、再び親の庇護下に入るには苦しいというのが現状でしょうかね。
さて、ここまでは事実を並べただけなんですが、すると何か、私の主観では不思議と生きる気力が湧いてきたというのがありました。
多くの人はもっと若い時にそれを感じられるものなのかもしれませんが。
ここまで来て初めて、人生が自分のものになった実感を獲得できました。ここからの戦いは全て自分のものになるのだ、というのが分かってきた。
そうなると、案外自然体で構えることができるようになりました。偉そうなことを言える身分ではないことは承知ですが、それでもやはり苦しくなくなりました。私の本当の目的も見えた。
今の私の主観は、幸福を張り続ける準備ができたと気づいたのでしょう。
間に合って良かった。動けるうちで本当に良かった。それだけです。
『世界は弱肉強食で、生きるためには戦わなければならない』
こんな夢も希望もない正論が飛び出したのは、『ヒーリングっど♥プリキュア』の44話。本作のラスボス戦における、主人公との問答でこのような命題が突き付けられました。皆まで救う理想論は実在しないと、あろうことかプリキュア作品でそんな事実が告げられた。
主人公はこれを認める。そして、その戦いこそが生きる実感につながると人のあり方を肯定しラスボスを破る。こんな最終盤でした。
私はここに、人の強さの本質を見た気がします。人の幸福に関する様々な理論が統合されていく感覚を確かに覚えました。幸福の本質は戦いにこそ存在する。非常にシンプルな世界をなんということを理解しました。
作品については本稿中(3.2節)で詳しくご紹介します。
私は一つ、そこに『面白さ』という答えを見出すことができた。
至極当たり前の事実かもしれませんが。
その面白さというものは人生を賭けるに値するものだと気づいた。
幸福感とは、生き方の量ではなく質に関わる概念だと悟った。
他人が私自身の人生を面白く飾り続けてくれる保障なんてどこにも存在しないと正しく認識した。
自分の戦いを続けることで私が私として統合されていくと理解できた。
そのきっかけが、『ヒーリングっど♥プリキュア』にありました。
ですので、本作品を通して得られた人生と人の心に関する気づきというものを本稿では可能な限り言葉にしてまとめようと思います。
0. イントロダクション
古今東西、哲学を通して人々が追い求めるものはただ一つ、人の幸福である。これは何も哲学に限らない。西洋哲学や東洋思想、世界各地の宗教や物語など、あらゆる抽象概念のたどり着く先にはその個人にとっての主観的な幸福がある。手段は無数にあれど、ゴールは常に一つなのだ。
人の意思が幸福を追求するのと同じように、ヒトの欲望は"非幸福"を招く。
人類というものはその知能を発展させ意思にまで昇華させた唯一の動物である。つまり必然的に、"幸福"と"非幸福"でのせめぎあいがその個人の心に生じる。
では結局のところ、人の意思による幸福とは一体何なのか。
よく言われるのは、「幸福とは幸福について考える必要のない人の状態のことだ」という定義。これは幸福そのものについて論ずることを避けつつ、幸福について論じている個人を幸福から遠い存在だと定めている。幸福ではない状態というものは定義できるのだから、それを取り去ることができれば人は幸福に到達できるのではないか。このように考えられる。
では、その幸福ではない"非幸福"な状態というものはどのようにして個人の中に形成され、どのような営みによってその状態を取り払うことが可能になるのか。
その人物の不満や渇き、欠乏といった、幸福とは真逆の概念、すなわち"欲望"を取り扱うことにより本稿では幸福の本質とは何か突き止め定義する。
本稿での結論の一つは、『幸福』の反対は『退屈』であるということである。だから、幸福を得るためにはその退屈な感じを取り払ってしまえばよいという着地点に至る。
その上で、不自由な充実感ではなく、自由な退屈でもなく、今この瞬間において主観的な存在意義を感じながら集中できている状況を最終到達点とする。
『個人的な自由の中で何者かに呼ばれ続けていることを実感できる主観』、これが幸福な人間の本質であるとして、平凡な個人がそこに到達するまでの具体的な手法を考察する。鍵になるのは男女間の恋愛である。
これらの概念の説明補助のため、いくつかの哲学や精神分析に基づく知見、および表題のフィクション作品に描かれているテーマに沿った検討を進める。
1. 幸福の対義語は『退屈』
1.1 退屈の定義
では早速、退屈とはどういったものであるのか。
それが個人の主観に依存するのは明らかである。『時間がある』『暇である』というのは客観的事実であるのに対して、それを退屈と認めるかどうかはその渦中にある個人の主観によって定められる。
具体的に考えてみよう。
例えば、駅で電車が来るまでの時間というものは退屈な時間であるだろうか。次の急行まであと10分。さて何をして過ごそうか。
現代人であるならば、スマートフォンを触ってみる。SNSに何か投稿する。あるいはカバンから本を取り出してみる。ホームの端っこで深呼吸をする。何でもいい。
それが叶えられ続けた場合、その人は退屈な10分間を過ごさない。
しかし、その時間を意識してしまった時。あるいは、中々到着しない電車を意識した時その退屈が個人の中で開始される。
つまり、内的世界が充実している個人にとって暇は退屈ではない。時間という外部世界に囚われて、世界が思い通りにならないという結果を僅かでも認めてしまった結果、その個人の心は退屈の雲に覆われる。
そして電車が来ない現実にイライラしている個人の主観が、その瞬間において幸福なはずないのである。
また電車が到着し乗車することができたならば、その個人は退屈しないのだろうか。
目的地まで30分の乗車時間がある。車内は空いていてクロスシートに座ることができた。窓から風景を眺めるのでも良い、本の続きを読むのでも良い、スマホゲームを始めても、あるいは仕事の続きを行っても構わない。
最も健やかではない、退屈を感じられる過ごし方というものは、時間を数える過ごし方だろう。30分をひたすら耐える。30分後の未来まで、私は私で無くなる。この移動時間である30分に意味を見出せなくなる。
ここでの結論として、今この瞬間を強く認識される何かに囚われていることがその個人を時間の流れから守ってくれる。そうすると、その瞬間その人は退屈では無くなる。それが能動的な取り組みでも受動的な取り組みでも、時間に対する意味づけを行うことができればその個人の心は退屈の雲から守られる。逆に、時間の流れ以外に感じられるものがなくなってくると、たちまちその心は退屈に覆われてしまう。
つまり人は元々退屈を感じるように作られている。これが、後ほど登場するヒトにプログラムされた遺伝子と密接に関連する。
ここでの結論としては、時間とその個人の二者しか存在していない世界において人は必ず退屈が生じるようにその主観は形作られているのだ。
そして、その二者関係を打破するのが第三者の存在であり、それによって辛くも退屈の雲を追い払うことができるというのが人の心である。当然、苦痛や苦悩、不幸といったものを与えてくるのも第三者の存在である。しかし少なくとも退屈には至らない。
その第三者の存在という事実が、その個人に対して時間を打破するための戦略と勇気を授けるのである。
当然、最も望ましい形はその第三者である他者や物が直接的に退屈を常時振り払ってくれることであるが、必ずしもそうはいかないことは経験的に理解できよう。人は自らが適切な心構えをして、より能動的に、世界を退屈と認識しないような主観を身に付けなくてはならないのだ。
私はここに、アドラー心理学の本質を見る。アドラー心理学とは、19世紀生まれの精神科医であるアルフレッド・アドラーの提唱する心理学である。
その結論の一つである『人の感情は対人関係によってのみ形作られる』という主張は上記の第三者の叶える役割と合致する。
世界に1人しかいなければ。つまり上述の内容における、時間と対峙させられている個人しか世界に存在しない場合は、何の感情もその個人からは必要無くなる。全ての苦しみから自由であるが、しかし面白さや楽しさというものも実在しないという退屈な状況に追いやられてしまう。
アドラー心理学ではあらゆる感情は対人関係の中で生じると定義しており、幸福も他者との関わりの意識の中で形成され育まれると結論している。
よって、第三者による退屈へのケアが、個人を幸福と呼ぶべき状態に導くと言えよう。
1.2 娯楽による退屈の打開
現代社会に溢れている娯楽というものは、そのケアの一種に他ならない。金を支払えば、例えば映画を見られる。音楽を聴ける。ゲームで遊べる。これは、極めて受動的なケアである。しかし確かに受け手側の個人としては、その退屈から解放された気分を瞬間的にでも味わうことができる。
これは別に、大衆的な娯楽によって与えられなければならないものではない。
第三者の気配というものを常に感じることができ、そこに退屈を打破するための可能性というものをあらゆる瞬間に感覚的に味わい続けられる主観を持っていたのなら、この世界に溢れるどんなものでも、先述した娯楽のような役割をその個人に対してもたらす。
繰り返すがこれは主観である。
ある個人にとってそれは娯楽足り得ないかもしれない。しかしそれを娯楽と味わえる個人の方が、退屈に対して耐性があることは言うまでもない。
このように、あらゆる瞬間において第三者の影響、特に自らの退屈に対するポジティブな影響を世界から感じ続けられる感覚こそが、幸福な主観の正体であると本稿では結論する。
そして、この結論はアドラー心理学で定義される“共同体感覚”と似た意味を持つ。
その第三者、広義の『娯楽』との繋がりを確かに得るためには、自身の罪の限りの他者貢献を行い、正しく償いの元で生きることが最も健やかで合理的である。他者貢献は、退屈の打破のための手段として極めて有効であり、その主観における罪の意識を低減することで世界のあらゆる概念がよりシンプルな娯楽と化してくる。
繰り返すように、その個人の主観があらゆる世界が自身の心から退屈を追い払う味方になったように感じられるようになる。
つまり、あらゆる瞬間においてその個人は退屈から解放された気分に至ることができる。これは幸福な主観に他ならないのである。
2. 娯楽に到達するための方法
2.1 娯楽を味わえる主観を育てる3つの修行
アドラー心理学で定義された幸福に沿って、退屈を打破する方法とその先の景色について考察を進めた。
ではその退屈から解放された気分とは一体どのようなものであろうか。
最初に定義しづらいと述べた幸福について、再びアドラーを軸として考察を進める。退屈の雲を第三者の力を借りながら上手くケアすることができたとして、その瞬間の個人にはどのような主観が芽生えているのだろうか。
前章で軽く触れたが、アドラー心理学ではその主観を『共同体感覚』と定義している。自らの存在が社会に受け止められ、自らもまたその共同体に対して何か作用ができる力を持つことができている感覚であると定めている。その目指すべき主観は他者貢献によって鍛えることができ、その中で自らの存在に価値があると信じることができる感覚が養われるという。
共同体感覚を本稿の文脈で解釈すると、『永続的に世界が自身の心に退屈凌ぎの娯楽を焚べ続けているように感じられる心境』だと言うことができるだろう。常に共同体、つまり他者の存在を感じながら生きることができているため、退屈を考える暇がない。その結果幸福が見えてくる。
このような主観を得るために重要なこととして、アドラー心理学は対人関係における3つの心構えを示している。時間とその個人ではない第三者をどのように捉えるべきかという視点において、『仕事』『交友』『恋愛』の3つの対人関係をタスクとして提案している。後ろほど難易度が高い。
これらは、退屈を追い払うための世界、第三者を娯楽として味わうための感受性の高さに関する修行のようなものであると解釈すると分かりやすい。
「生きることは戦いである」というプリキュアから得られた結論をより詳細に考えるため、これらのタスクで必要とされる対人関係の様を詳細に見ていこう。
2.2 仕事の対人関係
一つ目の仕事の対人関係とは、不自由による退屈の打破とも解釈できる。
自らの客観的な能力、社会の中における分業というもので、歯車として一時的に組み込まれてしまうことで望まれた機能以外の振る舞いが世界から認められなくなる。それが仕事における対人関係である。
金を稼ぐために仕方がないことが仕事であるが、しかしその仕事に自らの人格の大部分を預けてしまっている人格が多いことから、人は不自由であったとしても自らの退屈を打破する何者かに縋らざるを得ないという構図がよく見て取れる。
しかし、仕事の目的の大部分は自身の目的ではなく他者の目的であるため、繰り返すが極めて不自由である。多くの自身の目的を我慢しなければならない。また、世界から与えられた気晴らしに過ぎないため非常に不安定であり、自身の人格的成熟に寄与しにくいという課題がある。
例えば、40年間仕事に人生を費やしたサラリーマンの男性が定年退職となり、その組織における肩書と役割を失ったのだとしたら、彼は退屈に対する別の気晴らしを見つけなければならない。そうでないと退屈の雲に覆われてしまう。しかしながら仕事以外の人間関係が希薄であり、そこで初めて彼は等身大の自分自身と向き合わざるを得なくなってしまう。この問題は現に社会問題として観測できる。
重要なのは、『自分』と『時間』以外の概念、つまり世界から自分に退屈凌ぎを見出すことができるセンスを養うという考え方である。
どれだけのものを娯楽として認識できるか、全てはその主観にかかっている。仕事をする個人は退屈ではないが、そこで得られる感情は受動的に過ぎる。あくまで不自由であり、主観として健全ではないことを認識すべきである。
2.3 交友の対人関係
二つ目の交友の対人関係とは、仕事とは打って変わって自由の元における退屈を打破するための修行であると言える。これは、仕事と比較すると分かりやすい。
アドラー心理学では、仕事を否定しない。それは分業であり、生きていく上で必要な作業であると述べている。ただ、それ以上の意味がないとも結論している。故に自身の全人格を仕事に委ねることはおかしい。仕事の対人関係は、生きるという目的、日銭を稼ぐという目的に先だった対人関係である。その職場における人との関わりは最終的な目的ではない。その先にある報酬が重要だから、仕方がなくその組織の中に身を置いている。あるいは、客に媚び売っている。本人は決してそれを望んでしたいわけではない。
対して交友の対人関係とは、そこに目的がない。対人関係そのものが目的である。
対人関係が目的とは、つまりその対人関係における相手そのものが私自身の退屈の雲を晴らしてくれるのではないかと期待しているということである。
だから、どんな個人であったとしても、友人には面白い他人を選択する。これは職場での不自由な対人関係とは異なるものである。
交友のタスクでは、よりストレートに退屈を追い払ってくれるものとしてその対人関係に挑む。『自分』『時間』ではない本来の第三者としての役割をそのまま期待した対人関係。それが交友の対人関係である。
だから友人は面白く、関わっている間はその時間の流れを忘れることができ、退屈しない。そこに充実感が存在する。その友人の存在そのものが退屈を追い払い続けるものであり、その個人が不快を感じない限りは尊いものである。
だから、その友人との対人関係における適切な距離感というものも存在し得る。距離感が適切であり続ける限り、その友人は退屈を追い払ってくれる。条件付きである。つまりここでも永続的にはなり得ない。共同体感覚には到達できない。自由であるが不十分なのである。しかしながら、面白さという点で幸福に対して大きな役割を果たしている。
2.4 恋愛の対人関係
そして最後に挑むべきタスクというものが、恋愛の対人関係である。友人の対人関係というものは誰と結んでも、何人と結んでも良かった。いかなる点においても自由であり、近づくも離れるもその人次第のものであった。
恋愛の対人関係は1:1で挑まねばならない。目的が存在しない関係であるが、心の治療のため双方が信頼し、契約の限り最後まで諦めず挑み続けなければならない。
自由のもと、不自由を決意する。そんな対人関係であるとも言えよう。
そしてその先に、永遠の退屈凌ぎが約束される。人生の主語が『私』から『私たち』に変化し、常に主観の中に他者の存在を感じられる。
恋愛のタスクを達成した個人は、『時間』に対して1人で対峙させられることが無くなる。その個人の主観の中には常に他者が存在するため、退屈を追い払う必要すら無くなる。すなわち、共同体感覚を獲得できる。
そのようなタスクである。
この恋愛のタスクというものは、筆者にとって極めて難解であった。しかし、『ヒーリングっど♥プリキュア』という作品は、この恋愛のタスクに対して絶妙なヒントを与えた。3つのタスクを実現し、瞬間を味わえる感覚を手にすることができた幸福な主観に到達する途中の個人に対して、恋愛のタスクの挑み方に絶妙な答えを示した。
それは、『私自身と私自身が守ると決意したものを守るために戦うことが、生きている実感である』という結論である。キーワードは、『治療』だ。
3. 『ヒープリ』と生きるための戦い
3.1 共同体感覚に到達する前段階
生きることは戦いであるという前提のもと、上記の理屈は展開される。その戦いの中で、確かな仲間との信頼と生きている実感、充実感を人は獲得していく。退屈しない世界の感覚がどのようなものかわかってくる。そして、やがてそれが他者に対する愛に変化する。『ヒーリングっど♥プリキュア』はそのような発展途上の共同体感覚において、"治療者"という状態を新たに定義するヒントを与えた。
自らを守るだけの戦いは空虚である。これは主観の問題だ。
それは、退屈に対してアプローチすることに繋がらない。戦えば戦うほど、よりその空虚な『時間』というものに囚われざるを得ない。他者という娯楽から遠のく。自らの渇きはより加速し、救われない姿に変容していく。作中終盤、敵幹部の一人がこのような末路を辿った。
繰り返すが、退屈とは第三者の存在によって晴らされる性質の概念である。そして、第三者の存在をどれだけ感じられるかという点が、共同体感覚を研ぎ澄ましていく上で重要となる。
同じく、他者を守るためだけの戦いも意味を成さない。必ず、自らの意思に基づきこの人を守ると決意しなければいけない。「守るべきだから守る」という回答は、世界に自らのあり方を委ねる行為であって、先述した仕事のタスクの範囲を越えられていない。作中42話において、主人公はこの課題を克服する。
また、アドラーの提唱するタスクへの取り組みというものが自らの退屈を打破する目的で行われるのだから、最終的な守るものに自ら自身を加えなければ本末転倒である。
故に、『私自身と私自身が守ると決意したものを守るために戦う』という行いが生きる実感の元になる。ヒーリングっど♥プリキュアこのようなメッセージを告げた。
3.2 ヒーリングっど♥プリキュアを語る
ここで少し、当該の作品について触れたい。
『ヒーリングっど♥プリキュア』の本質、この世の幸福という哲学における普遍的テーマを捉えた本作における鬼の表現はどこにあったか。
それはやはり、"普通の主人公"という一点であると考えられる。
聖人君子でもなんでもない、ただの中学生。そのような人物が主人公としてプリキュアに変身することが本作の面白さに大きく関与している。
余談であるが、本作主人公の花寺のどかの声優は『魔法少女まどか☆マギカ』の主人公を務める悠木碧さんである。
作中において、確かに花寺のどかはプリキュアに変身する。しかし物語終盤、42話-43話におけるある出来事をきっかけとして、プリキュアであるという役割を放棄し今の自分自身に向き合うという成長を遂げる。
未完成な今の自分とその本心に向き合い、友人の助けを得て自己受容を果たす。自分自身にも守られる価値はある、生きる権利はあるという心の声を信じ、自らに対し助けを乞うある人物に対して"助けない"という決断を下す。自分を犠牲にしてまであなたを助ける義理はないと突き放す。
この作品はプリキュアから始まって、人間として終わる。
そんなストーリーであったと結論してもいい。
他作品で言うのなら、『Fate/Zero』に近いだろうか。正義の味方という十字架を背負う衛宮切嗣が、最後には自らが救済されたいという自身の本音と向き合い隣人たちと静かな最期を迎える。これと近いものが存在するように見える。
本作の花寺のどかにおいても、同じような筋を感じざるを得ない。
本プリキュアにおける敵陣営は病原菌である。作中ではビョーゲンズとして人格が与えられている。そして作品の主題は『健やかな生の在り方について』であった。
つまり、どうやっても共存しえない。生命も、病原菌も、同じ地球上の存在でありながら双方健やかに存在することは絶対に叶わない。全員参加のゼロサムゲームだ。
こんな地点からスタートする物語である。
主人公である花寺のどかは中学の2年生である。ただ、少し前までは入院を要する病を患っており、学校などの社会生活を十分に送れなかった過去を持つ。1話時点では病気は完治している。
自らの病人時代に医者や親をはじめとして様々な人の世話になった恩返しをしたいという想いでヒーリングアニマル(本作の妖精枠)と契約し、地球を"お手当て"する医者のプリキュアとしてキュアグレースに変身し戦いに身を投じる。
そんな中、本作中盤にて花寺のどかの以前の病はビョーゲンズが原因であったことが明らかになる。幼少期において、とあるビョーゲンズが花寺のどかの身体に寄生した。その結果、長期に渡る入院生活を余儀なくされ、今の花寺のどかのプリキュアとして戦う意思が形成される。
つまり花寺のどか本人にとって、プリキュアとしてのビョーゲンズとの戦いというのは既に定められた大きな呪い、運命のようなものであったのだ。
そしてプリキュアとしての命懸けの経験、治療者としての責務、友人たちとの関わりの中で成長した花寺のどかは、その生き方に一貫性を張り続ける必要は無いと認め、重荷を下ろし本当の自分として運命に決着を付けるため最後の戦いに挑む。そして、自分自身と隣人を守るという決意に従いキングビョーゲンを浄化する。
『この世界は弱肉強食のルールでできている。しかし私自身と私自身が守ると決意したものを守るために戦うことが、生きている実感につながる。』という本稿の結論は、キングビョーゲンとの問答において花寺のどかが変身するキュアグレースが発した答えである。
この答えは、この世界におけるあらゆる退屈的不幸や理不尽に対し、その充実感や満足感、個人の心を殺さずに生き続けるため等身大の我々に何ができるかを示す、"人の生き方"としての絶妙な答えであったと私は考える。
本編は全45話であり、強く視聴を勧めたい。
『ハートキャッチプリキュア』や『HUGっと!プリキュア』が自身のプリキュアとしての人格を到達させる物語なのだとしたら、本作はプリキュアから人間に回帰する物語であったのだ。
さて本題に戻る。上記のような『戦うこと』が幸福の完成形ではない。
それは治療行為の内容である。共同体感覚に到達するための過程であり、等身大の手段である。
本稿後半では、恋愛のタスクの進め方を具体的に扱う。どのようにして対人関係を形成し、いかなる意思と決意がその個人に求められるか。作品の内容を振り返りつつ、恋愛の対人関係として意味のある形を探る。
4. 治療と恋愛
4.1 治療の対人関係という状態
人の心には患者である側面と治療者である側面が存在する。これはあらゆる人物、老若男女において必ず該当する。
その人物Aは別の人物Bを治療することができる。言い換えるなら、人物Bの患者としての側面は、人物Aによって治療される。当然その逆も成立していて、患者Aは治療者Bによって治される。
治療者である側面とは、本稿の文脈における『第三者』としての役割である。つまり、患者の退屈を追い払うことができる能力であり、必然的にあらゆる人物が該当する。
患者である側面とは、人の心の渇き、不満、願望のようなものである。例えば、人の心は異性に飢えている。自認はどうあれその事実は変わりない。
先天的にプログラムされた遺伝子が、そのような方向に人の心を導く。だからその渇きは人である以上仕方がないものである。また、その個人は常に感動を求め退屈を取り払われたいと願っている。『渇き=退屈を感じる主観』と定義しても問題はない。また世界を感じ取ることができるセンサーの練度というものは個人差があり、患者として重症か、軽症か、そのように言うことも可能である。
世界に対する興味のあり方や対人関係の構えというものは、アドラー心理学において"ライフスタイル"と呼ばれる。
人は生まれた瞬間に危機に晒される。食事や排泄すら1人では完結せず、常に保護者、すなわち親の援助を必要とする。つまり、親が自身から離れていないようその対人関係の心構えを更新し続ける。世界から注目を集め、世界によって自らが叶えられ続けるような振る舞いを学習し続ける。
そのようにして、幼少期の生育環境や愛着形成によってライフスタイルの多くは決定され、いくつかの社会生活ののち思春期ごろにそれが固まる。
例えば、世界を敵だと認識するライフスタイルを持っている個人は患者の側面としては重症だと言える。なぜなら、退屈を追い払ってくれる第三者の声が届きづらい構えを世界に対して取っているからである。そうしてその個人は、世界を支配し、世界から奪うことによって自らの渇きを受動的に癒そうと画策する。
これが渇きである。人としての患者の側面。自分がなんとかなるために、他者を関連させなければならないという側面である。人間である以上仕方がないものであり、愛着欲求という言葉で言い換えることも可能であろう。
4.2 恋愛のタスク = 治療のタスク
本稿では、上記の治療というものは異性間で行われると結論する。
その前に、性差について少し議論しよう。なぜ恋愛は一般的に異性間で執り行われるものなのだろうか。恋愛の目的は、単に遺伝子を後世に残すための活動に限られているのであろうか。そうではない。そのような単純で機械的な対人関係が恋愛であるならば、人生のタスクとして定義されるはずがないし、恋愛によってその個人が救われることもないのである。
恋愛は単に遺伝子的な儀式ではない。
異性間で最難関とされるタスクが実行されることには大きな意味がある。それは男女の患者の側面、および治療者としての側面が絶妙にマッチしているからである。
患者の側面とは、先述した心の渇き、欠乏のことである。その願望の矛先が自然と異性の方に向く原因は多数存在し、エディプスコンプレックスなどフロイトの理論などを用いて説明することができる。本稿では割愛する。
恋愛という心のケアが男女間で行われる最大の理由は、男女で心と身体の形がそれぞれ異なっているからであると考えられる。
繰り返すが、これは遺伝的なプログラムの話ではない。あくまで性欲とは原動力である。そのあるべき方向に向いた時、他者を強く求めようとするエネルギー源のようなものに過ぎない。遺伝子ではなく、あくまで後天的な心の渇きと期待というものが男性の場合は女性に、女性の場合は男性に向きやすくなっていると本稿では仮説を立て取り扱う。
ここで身体性と精神性の対立における性差を検討する。
遺伝子の優位性と人間としての精神の優位性、どちらに軍配が上がるかという点で、男女の非対称が生じる。この事実をもとにして、人として達成されるべき恋愛の姿を治療という概念を軸としてさらに考察を深めていく。
4.3 男性の性的願望 -ポルノトピア-
まず男性ついて。男性は欠けていない。第二次性徴を迎えるが、その精神性は身体的な変化に伴って何一つ変化しない。当然、一部の女性のライフスタイルを採用していた男児にとっては苦悩を伴う変容であるが。直接的な心に対する影響をその身体から受け取ることはない。
例外的に、その男児には異性に対する射精の欲求が生じる。それが生きる上での最重要タスクに加えられる。しかし、それは限定的なものである。それが叶わなくても、何か自らの気分が悪化すること、体調がおかしくなる事はあり得ない。
上記の男児における変化について、身体に対して精神は満足していると言い換えることもできよう。射精してもしなくてもどちらでも良い。だから、第二次性徴を迎えたとしても、多くの男性は世界に影響を受けず、より内的な世界を自由に発展させることが可能となる。
重要なのはここからである。男性にとって身体は比較的自由に射精を目指すことができる。つまりそれが余っており、足りている。
一方で、心の渇きは依然として存在し続ける。つまり、相対的に愛着願望が身体的な性欲よりも強化される形を取る。結果として、男性の"外的な性的欲求"は"内的な愛着願望"に取り込まれ、"性的願望"として内向的なポルノファンタジーの筋を増長させる。
その証拠が、現代におけるポルノコンテンツの多様化である。女性のそれと比較し、男性たちの市場ニーズが何よりの証拠である。ポルノコンテンツにおいて、単に膣内に射精を行って終わりの内容ではなく、そのシチュエーションや設定、2次元3次元など極めて多岐に渡るのは、男性の心の砂漠の多様さを表していることに他ならない。しかし、いくら画面を見ながらマスターベーションを行ったとしても、当然遺伝子の目的は果たされることがない。
それもそのはず、彼らが求めているのは身体的な癒しではなく、精神的な癒しであるのだから。ポルノコンテンツの消費という男性の活動は、有り余っている性欲が愛着願望の奴隷として活用された形に過ぎない。主導権はその意思にある。
ただ、それが中毒性を孕んだ退屈しのぎとして現代社会では娯楽として浸透してしまっていることは憂うべき事態であろう。特に、近年の急速な資本主義的グローバル化によって、価値観の均一化が起こっている。大量生産と大量消費が是とされる現代資本主義では、その娯楽の形すら均一化されることが望ましいとされる。したがってそのポルノコンテンツはより効率的に男性たちの砂漠に作用し、その渇望の筋すらある方向に強烈に育て上げようとしている。その副作用として生じた中毒性を思春期前からため込むことによって、一般に"救い難い"と見られてしまう若年男性が増えていることは大きな社会損失だ。
そういった若年男性たちが女性の砂漠に作用し、女性の精神面に対する悪影響を及ぼしてしまうことは更なる悲劇だ。弱者男性たちの臆病が女性に伝染してしまう。後述するが、女性は本来共同体感覚を獲得しやすいと考えられる。その女性までその弱者男性の遅行型の心中に巻き込まれてしまうことは何より防がなくてはならない。
近年話題となる発達障害、パーソナリティ障害、あとは少子化問題に関しても、上記の男性の砂漠の筋というものを検討することで全容が明らかになると考えられる。しかし、根本がポルノ中毒にあるのならば、それは遺伝子が望んだ形であるため、今の先進国の人類は正しい末路を辿りながら縮小に向かっているのではないかとすら見做すこともできる。
『弱者男性論』というのは様々な社会問題を精神的な側面から扱う上での重要なテーマであるが、本稿では必要最低限に留めておく。
4.4 女性の性的願望 -ロマンストピア-
一方で女性は、身体的なものを埋め合わせようという筋が強く生じる。
その第二次性徴において身体性が優位となる。男性にはないものとして女性の生理が存在するが、個人差はあれどその身体的現象によって気分が作用されてしまう状況に女性は追いやられる。
つまり、自由な精神性というものは叶わず、必ずその身体によって気分が支配されてしまう形となる。それに適応できた結果、女性はよりこの世界に足を下した存在となる。外向的な筋を発達させる。
例えば少女漫画のようなストーリーを、願望として抱き続ける女性は少なくない。しかし同時に、それがこの世界では叶わないという現実的な視点を備えた女性は、年齢を重ねるごとに増えていくだろう。ここに男性との違いがある。
女性の自らの身体に関する適応というのは、大きな課題である。従って、内面の課題を克服した結果、男性と比較し女性は精神的な成熟を果たしている。
第二次性徴において、初潮を迎えることはその少女にとって大きなライフイベントである。自らの排泄部から定期的に出血するという不可避な状況に追いやられてしまい、アイデンティティの喪失の危機に見舞われる。自らが完璧な存在ではないという現状を否応無しに突き付けられ、その絶望を受け止めるよう迫れられる。
愛着が不安定な場合、過度に承認を求める筋を発達させるのは男女共通である。つまり、弱者男性が自らの男根に対して強烈な万能性と受け入れられたい願望を抱くように、愛着基盤が不安定な女性はその"血"に対して自らの受け入れられたさを託してしまう。女性たちのリストカットやその痕跡は自らの生理と女性器を表現し、そこを愛でられることを期待する。不潔との戦いであると言ってもよい。
内向的情緒不安定さは"メンヘラ"として時折形容されるが、自らは完璧であるはずだという内的なファンタジーと自己嫌悪から成り立つ精神構造は、先述した弱者男性のそれと同質なのである。
さて、男性の患者的側面、性的願望というのはより自由な発想で自身の内面にあるファンタジーを叶えられたいという青天井の願いに果てる。巷のポルノコンテンツはその筋を増長させる。それを"治療"せず放置した結果、年齢を重ねるほどその男性は取り返しのつかない幻想世界の住人になり果てる。
他方女性については、男性同様ファンタジーの筋はあれど、身体への適応の課題を通してこの世界に足を下さなければならないという現状をよく知っているため、成人期以降で男性のような筋を極端に発展させることはない。
要因は大きく二つで、一つは繰り返し述べている通り、身体的現象によって青天井の願望が折られてしまうこと。どうやってもこの現実世界の自らの身体に拘束されなければならないと自然と意識させられること。
もう一つは、異性に対する絶望が早期に訪れるということ。ロマンスの筋を増長させる物語は多くの女児に人気である。男性にとってのポルノコンテンツ同様、性的願望を肥大化させる役割を持つ。しかし第二次性徴を迎え、現実の異性が白馬に乗った王子様ではないことに気づいてしまう。
男性とは異なり、多くの女性は自然とモテる。当然そこには個人の努力が介在しているが、適応を果たした多くの個体は男性から拒まれず恋の対象となる。当然裏に存在しているのは男性が放置した強烈な性的願望である。その性欲、異性を求めるエネルギーの質が男女で異なっていることも起因して、女性は男性から求められてしまう。女性はそこで現実の男性の姿を身をもって学び、絶望する。
4.5 女性の強さの本質
ただ、この絶望は同時に希望でもある。女性はこの世界に対して向き合う外向的な筋を発達させやすいことから、自らの性的願望に対して早期に活着を付け、自己意識が肥大化する前に共同体感覚へ進むチャンスが与えられる。患者として、治療が容易な状態に止まりやすい。
それでも内向的な筋が止められない女性というのは、先述した"血"に拘る女性か、男性の性的願望の被害者であることがほとんどである。そのロマンスを求めてしまう性的願望の残滓を男性に悪用され、支配の被害者となった結果取り返しのつかない後遺症を抱き、治療に際して難を抱えるようになったケースが女性の場合少なくない。
ただ依然として、女性は世界から与えられた自らの身体によって否応なしに気分が作用されてしまうことから自らの内的な精神性に対して力を失う形となる。そのため、女性の患者的側面というものは流されない柱のような、安定した自我を求める筋に変化する。自らの身体に対する心の非力さを補ってくれる存在として、精神的に安定した他人を頼る。それがいわゆる寂しさに対する願望とも合致する。男性の安定性というものは、そういった女性たちに対する治療者的側面として実在できる。なぜなら男性の精神性というものは有り余っているからである。
ここで、我々は現代の恋愛問題に関する様々な現象の本質に迫るような重要な結論をいくつか見出すことができる。
例えば、男性のほうが加害的な性質を持ち合わせるという統計的な事実について、男性に対する治療が間に合わなかったと考えると辻褄が合う。その治療とは、多くの女性が比較的若くして経験できる恋愛という行為である。
現代のように性的願望を紛らわせられるコンテンツが氾濫する社会では、内向的な筋を発達させた男性が現実の恋に進むことは躊躇われるであろう。結果としてより適応度の高い、すなわち男性的身体性を多く持つ外向型に近い男性が、女性に性的な恋をしてその性的願望を果たそうと動く。このような男性が自らの遺伝子に従い多くの女性と関係を持った結果として、恋愛を経験した人数比は女性が男性を上回る形となる。若いうちに男性の願望に振り回され多くの女性が傷つき絶望を果たす。そして女性は瞬間に気づきを得る。
他方恋愛を経験できていない多数の男性は、内向的な筋を本来の形として引き摺る。そして、その心の渇き具合と個人的特性が相まってよりファンタジーな存在に成り果てる。その男性はもうこの世界の住人ではない。この世界はその男性を叶えるための装置に過ぎず、この世界の命にすら関心が無い。
他人を殺すことも、自分を殺すことも結局この世界の命に関心がないから引き起こされる行為である。
別の例では、男性の成熟は女性に対して遅れている、男性は女性に比べて子供であるという言説も説明ができる。
これは、共同体感覚をベースとして考えるとわかりやすい。第三者を娯楽として味わい続けるには、自意識を抑制し、正しく世界に対して興味を持たなくてないけない。男性自身の内向的な筋が恋愛によって治療されていない状況においては、世界に関心を向けることが難しいのは明らかである。上記の具体例で述べたように、女性は自意識が小さいうちに絶望しやすい。その結果が如実に表れている。
自由恋愛に到達する前の時代においては、大人になる儀式として性交が執り行われることに関しても納得がゆく。大人になるとは、自意識を克服し世界に興味を持ち、性的願望を等身大に収めながら共同体感覚に進むための入り口に立ったということに他ならないのである。
また、性欲をバッテリーのような原動力だと考えた時、男女の性欲が非対称であることにも納得がゆく。一般に女性の性欲は強力であり、かつ男性に対して遅れてやってくるというが、それは女性の性的願望というものが男性の方向に向き定まるタイミングが遅いからではないのだろうか。
男性の場合、自己意識が肥大化するほどその身勝手なファンタジーを叶えられる女性を欲しがるためそれを叶えるのは誰でも良いという話になる。ただ、男性は女性の適応度、いわゆる外見の指標においてその遺伝的エネルギーである性欲が発動するかどうかが確定するため、男性の渇きの方向性として「若くて美しい女性に対して見境なく」という悲劇が生まれうる。
女性の場合、その願望は安定さを求める。つまり、その男性が安定していると見做さない限り女性にとっての治療者にはなり得ない。先述のように女性は世界に対して幾らかの価値を認めやすい存在であるため、同じくこの世界に対して何か興味を持っている安定した自我を備えた男性というものに渇きが惹きつけられるのは当然と言える。
だから、相手の内面を深く理解するまではその男性を治療者として認めることが無い。ここに男女の非対称性の本質がある。しかし上記のフローを経て女性の性的願望が特定の男性に定まることはある。その結果、男性同様にその原動力は機能し異性を性的に求めるという結果に落ち着く。
以上が性的願望をベースとした男女の性差に関する考察である。
結論としては、男性の治療者は女性である必要があり、女性の治療者もまた男性であるということである。
5. 治療のタスクの方法
5.1 治療のタスクと他者信頼
ここからは男女間で行われるべき課題の内容と手順について述べる。
心の砂漠を解消するためには、男女ともに異性の精神性と身体性が不可欠であった。それぞれ、内向性と外向性を交換し合うことで社会と調和した心のバランスが実現可能となる。然るべき形に収まれば、必ずその需要と供給はマッチする。したがって、恋愛の対人関係というものは異性間で行われることが自然である。
まず恋愛のタスクとは、他者を信頼する練習であると解釈できる。
つまり、"自分"と"時間"以外の"世界の第三者"の存在を心に刻み、その概念が自分にとっての味方であると主観する。そんなトレーニングである。共同体感覚を得るための過程である。
『あなたを守って私を守る』これが、ヒーリングっど♥プリキュアから得られた本稿で提唱する治療のタスクの本質であった。根本には治療者本人の等身大の決意が存在している。
「全ては救えない。私には救えないものがある」というところから、治療者としてのこのタスクは開始される。同時に一度その患者を救うと決意し契約を交わしたのなら、必ず最後まで救い切る。そして、その患者が口にした助かりたいという気持ちは嘘では無いと信じ続けなければならない。
このような対人関係の形が、治療のタスクの入り口に存在する。また、これは幸福のためのトレーニングであるのだから、最終的な目的である幸福そのものにはならない。あくまで過程なのだ。
このような患者との関係を継続し、患者の心の渇きを何とかしようと全力で取り組むことによってその治療者は自らの決意と力に自信を取り戻す。
自分自身でも、何か他者に作用することができると実感できる。何より、その患者が治療者である自分の主観の中に存在していてくれている限り、治療者である自身は患者を守るための戦いを続けられる。退屈を追い払い続けられる。充実感を獲得し続けられる。そのような主観を得る。
ここが何よりの本質である。患者ではなく治療者自身が治療という行為によって救われるのだ。自らに力があると実感し、退屈しない“治療”という日々を送ることができるのだ。
患者としても同様。目の前の治療者は、何があっても私の治療から逃げ出さないと信じる。だから患者自身も、私は治ると信じてそのための努力を続けなければならない。私が私を信じていないと、私を信頼する目の前の治療者を裏切ることになってしまうから。“治療”は成し得ないから、と。
そのような覚悟の上で患者は『俎板の鯉』に徹する。当然である。医者に通ったのなら悪いところを全て伝えるのと同じように、自分がこの人の治療を受けたいと決意し契約をした相手ならば、信頼して全てをさらけ出さなければ意味がない。ここが本質だ。
そして、治療者と患者が同じ"患者の渇き"関心を向けている状態が形成される。足並みを合わせた共通の本音の目的がそこには存在している。
これにより患者は、自らの弱いところ、満たされていなかったところ、渇いているところが少しだけその治療によって潤されたという実感が得られる。いわゆるコンプレックスの重みが少し軽くなる。
ただそれ以上に重要なことは、自らが患者である限りその治療者は治療者であり続けられるという事実に気づくことである。患者である自分は治療者であるその人に勇気を与えることができる。その隣人は輝ける。隣人は退屈しない。患者は治療者を助けることができる。そのように実感できることが治療における最大の成果物である。
患者はここで、自らへの興味関心というものを他者への興味関心に切り替えることができている。なぜなら、その治療者の興味関心というものが自分自身の興味関心とイコールになるからである。ここで初めて他者の目線をインプットすることが可能になり、自らもまた他者が見ている世界に興味を移すことができる。
患者にとって、自分が治るかどうかに関心が減り、その治療者が懸命になってあの手この手で治療に挑んでいるという状況に心が惹かれていく。治療者の興味関心に対して興味関心を抱くようになる。患者のつまらない日常は、治療者の光に当てられて退屈とは無縁な面白い日々に変化していく。
それこそが他者信頼であり、人生における娯楽の獲得である。その世界を娯楽として味わえる感覚が呼び起こされる。
患者の世界に治療者を取り込めた時、共同体感覚は正しく覚醒し、自らが世界から愛され祝福されていることに気付けるようになる。同時に、自らもまた世界を愛していたと自覚できるようになる。
このような状態が治療のタスクの完成形である。
だから極論、恋愛は誰と叶えても問題ない。それは愛の回路を覚醒させるための手段であるのだから、誰と叶えても問題ないのである。必要なものはその決意一つであるというのは、アドラー心理学の結論とも合致する。
また、一連の治療のタスクというものは1:1で執り行われなけらばならない。
自身の治療者が自らの他に患者を抱えていたと知った際、その治療者は自らの治療に全てを捧げてくれると患者は心から信頼できるだろうか。
また、その患者に対して自身の他に治療者が存在すると知った際、その治療者は患者の治療に向けて全力を出すことができるだろうか。目の前の患者が、"自らに救われたがっている"と心から信頼することはできるだろうか。
治療のタスクは共同体感覚を得る過程として取り組むものである。
その個人の成熟度は不完全である。他者信頼は練習中なのである。
従って、1:1で恋愛に挑まねばタスクとして意味をなさない。
5.2 治療のタスクの難点
ここまでの内容では、治療のタスクによってどのように『世界から娯楽を感じ取る感覚』を個人の中から呼び覚ますかについて述べた。
では、患者、治療者としてのそれぞれの課題はどのように生じるのだろうか。世の中で愛について頻繁に議論が交わされるのは、また人々が愛のために心を病むのは、恋愛のタスクがそれでも困難である証拠に他ならない。何がそんなに難しいのか。
ここまでは、男女における性差をベースとしていくつか議論をしていたが、改めてユング心理学のタイプ論に基づいてそれぞれの課題を整理する。
内向型、世界に対して自意識を過剰に発達させた人格の課題は、患者として自らを差し出す勇気がまとまらないところにある。
その手術台の上において、患者は今まで大事に閉まってきた自分自身というものを治療者という世界に開示しなければならない。そこには当然、「あなたは救えない」と治療者から言われてしまうリスクも孕んでいる。それを受け止められるか。その上で、それでも自らが助かるために世界に合わせて主観を変容させられるか。育ち切ったファンタジーを救ってもらえる程度の大きさまで小さくすることができるか。このような難しさが存在する。
嫌われる勇気とは、助けてくれと頼むこのオファーのことを示している。
一方で、外向型、世界の価値を過剰に認めることが癖づいている人格の課題とは、自らが治療者になれるという勇気を抱きにくいところにある。
自らが十分に力を持つことができているという自信。これが損なわれていると患者に対し自らが治療者として手を挙げることが非常に難しくなる。世界に価値を置き過ぎているから、相手の心、相手の人生という“世界”に対して自らが何か作用をするという場面で二の足を踏んでしまう。結果として、自信の無さ故に本音での関係には至らず、どこか世界に対して迎合してしまうような形で、歪な患者のファンタジーにおける奴隷となってしまう。患者のその渇きを悪化させる手伝いになってしまう。
またその性欲の形から、男性は精神性を優先した内向的な筋を発展させやすく、女性は身体性に支配されるため外向的な筋を発展させやすいことは前に述べた通りである。
いずれにしても、手遅れになってしまってはいけない。
また一般に、恋愛における難点は男女で非対称である。若い男女で想定したとき、男性は相手となる女性が見つかりにくいという課題を抱える。金も時間もない状態で臨んだ恋愛にありつけるのは一部の男性に限られるというのは、統計からも明らかになっている。
他方女性は、交際に至った男性と長続きしないことが挙げれられる。男性の性的願望を制御することができず、相手に支配されてしまっているケースは少なくない。
その結果、恋愛経験の無い男性と、男性に対する願望や拒否感をこじらせた女性を量産させる現状となっている。知能が高く仕事ができる男性はやがてその自らの患者的側面を誤魔化して社会生活に臨むようになるが、何かバランスの悪い脆い人格となる。例えばその人格を仕事に頼り切ってしまう。すると、中身が子供のような、母親という救済を探し求めるオジサンが完成する。仕事ができない男性は社会における潜在的な危害性、つまり弱者男性に果てる。
女性は正しく絶望するケースが多く、女性コミュニティにおける友人の助けを得ながら再スタートできる場合が頻繁に見られる。しかし、男性的価値観に迎合し過ぎた女性は女性性を売るビジネスに手を染めてしまったり、ホモソーシャルにおける姫として過剰適応する場合も見られる。いわゆる"エロス資本"に翻弄され手遅れとなる末路を辿る。
こんなところである。現代社会の均一化された娯楽の価値観は、この恋愛格差というものの増大に手を貸す結果となっている。当然、資本主義的には自然な結果であると言える。
5.3 戦えるうちに戦う
つまり患者の場合、アレは私には助けられない存在だと見られてしまってははおしまいである。その幻想とともに溺死するしか道がなくなる。
患者として治療を求めるならば、助けたいと思える見た目をしていなければならない。『本当に助けが必要なのは、助けたいと思えない人たちである』というのはよく言われる言説である。しかし、治療者である個人もまた人間であり、そこに感情がある。
だから繰り返すが、患者として治療者に助けを乞うのなら、「この人なら私でも助けられる」と決意してもらえるよう治療者の勇気に働きかけることが重要となる。
この世界は弱肉強食であり、生きることは戦いであるのだから。
故に人の主観で他人を見ると、もう助からない、助けたくない、手遅れである、という状態はザラに存在してしまうのだ。
よって、仮に今あなたが戦えるのなら戦わなければならない。立ち上がれるのなら立ち上がらなくてはならない。あなたが若いのならその若さを無駄にしてはならない。
手遅れになる前に、今からでも助かりたいと自分を信じなければならない。他者を、異性を、世界の可能性を信じなければならない。
同様に治療者として、自らの力についても諦めてはならない。その感情に引きこもってしまってはいけない。自らには必ず誰かを助けられる力があると、自らの可能性を信じていなければならない。また、あの人に助けてほしいと思われる個人であり続けなければならない。そのために、自らが「できる」ことに耳を澄ませて、世界だけではなく自らの内面に興味を持たなければならない。例え自らの無力さに折れてしまいそうになる作業でも、それでも今の自分にできることがないか、内面を探し続けなければならない。
その精進する心が折れた時、それは治療者としての終焉であろう。手遅れだ。いずれの患者からも必要とされることはなく、治療のタスクは永遠に叶わない。
ここに困難さがある。
だから、最も大事なことは自らの意思で治療の対人関係を決意すること。『すべき』でも、『したい』でもなく、『自然とそれができる』の状態で治療者/患者に関わること。そして一度決意したのなら、どんなことがあっても信頼すること。意思がなければ力は育たず、自らの変容は成し得ないのだ。
患者の場合なら、自分はなんとしても治る。そして、目の前の治療者は私の治療から逃げ出さないと信頼すること。
治療者の場合なら、目の前の患者は絶対に治ることを諦めず、私も治すことを諦めないと信頼すること。
これらが叶った状態における対人関係の積み重ねによって、本当に治療が進んでいく。
その渇きが渇きでは無くなっていく。渇きが遠ざかっていく。自らに、対人関係の中に進んでいけるという自信が湧いてくる。
これが治療のタスク、恋愛のタスクの完成形である。
つまり、退屈に立ち向かうための娯楽は自らの意思に基づき、適切にその自由を不自由に捧げることで訪れるということだ。
6. 治療のタスクを達成したその先
6.1 "教育者"という人格の獲得
治療のタスクが完遂されたら、その男女にはどのような変化が生じるのだろうか。ここで『教育者』という概念を新たに定義する。治療者は教育者に変化する。
治療者の主観では、救えない他者は存在した。
教育者の主観ではそれがなくなる。その境界線が存在しなくなる。
そもそも人に境界線はない。良い人悪い人、これらは全て主観である。
ペットと家畜の境界線が無いように、その治療者にとっての救える他者と救えない他者の境界線は全て主観で決まる。
しかしながら、共同体感覚を獲得し自身の主観が世界と溶け合った"教育者"にとって、もはや他人は存在し得ない。全ての隣人が手を差し伸べるべき友人に見える。袖擦り合う縁を有効な娯楽として活用できるようになる。あらゆる人の可能性の切先が見えるようになる。
本稿の最初で述べたように心は両面性を持っている。
片方が善の心。本稿の文脈で定義されるような共同体感覚の心。別の言い方であれば、愛の心、プリキュアの心、仏の心、など。世界に関心を向けている自らの心を大きく育てた結果、世界の全てを娯楽として感じ取れるようになった面白い心である。
もう片方が悪の心。本稿だと、砂漠の心。何かの願望。願ってしまうと取り込まれてしまう、反転してしまう心。退屈や遺伝子と相性が良い心。他者から奪うことによって自らを潤そうという心。渇きが更なる渇きを招くようなそんな心。
充実した生の実感をえるためには、人は前者の心は育てていかなくてはならない。どんな善人でも砂漠の心は持っているし、どんな悪人でも何らかの形で共同体感覚は保存されている。
どちらを覚醒させていくか。それだけが人の幸福のあり方である。
綱引きのようなもの。心は両面である。
その個人のきっかけ一つ、出会い一つでその綱引きのバランスは変化する。事実として世界の全ては主観で構成され、あらゆる個人は異なる世界に生きている。『環世界』として定義されるようにその移動が容易な人類種であったとしても、全ての個体は異なる世界を見ているのだ。
だからこそ心を磨く。それが人の強さになる。面白さになる。
この結論は全てのプリキュア作品において一貫されているだろう。
6.2 プリキュアという到達点
プリキュアには一部の例外を除き、10代の女性しかなれない。
それは、社会における人の属性の中で第二次性徴期の女性というものが最も共同体感覚に近い存在だからなのであろう。
男性はプリキュアにはなれない。それは宿命である。自らの身体という世界に拘束されることなく自由に自己愛を肥大化させ、性欲と関連した愛着願望を心の中で飼っている限りそこに到達することはない。自然と世界を愛することは男性にとっては叶わない。
それでも目指すことはできる。憧れることは許される。
諦めることは簡単だが、それでも面白さを妥協する必要はないと考える。
明日死んでも後悔しない今日を、そのプリキュアの心を意識しながら生きる。日々を踊る。退屈の無い満足感とともに毎日を生き続ける。人はいつか死ぬという事実を前にして、意思から逃げない。
それが人にとっての幸福であると結論し本考察を終了する。
あとがき
ここまでお読みいただきありがとうございました。
拙い文章ではありますが、一つ、二つでも納得ゆく結論をご提供できていたら幸いです。
お察しの通りこの文章は自戒です。私の以前までのライフスタイルを俯瞰し、女性との対人関係を振り返って経験と考察を深めた結果得られた筆者個人の"恋愛観"になります。
私は自らの恋愛感情というものがどうしても理解できませんでした。思考し納得することでしか何かを感じ取れない私にとって、異性が"好きで嫌い"というアンビバレンスな状況はどうにも落ち着かなかった。私の主観にとって恣意的な解釈ができない状態は健全な形ではなかったのです。
ですから、私はそこに意味を付与しました。人生において恋愛というものが個人の主観に作用するものは何か、文献から知識を獲得し、一部を想像で補いながら、私が理屈として理解するための雛型としてこのような思想を自分の中に用意しました。
内的な世界に外部の世界を解像度良く投影することで、私は何とか世界と繋がっている。大げさかもしれませんが、興味関心が内側にしか向かない治療者未満の私にとって解像度を高めることだけが唯一私を助かる見た目に留める方法でありました。
上手く使いこなせてきた矢先にこの精神疾患ですから、対人関係の課題から逃れてはいけないと再認識し、この自戒を公開し固定しようと決意した次第であります。
自己満足の文章に過ぎないものではありますが、ご意見ご感想頂けますと幸いです。お付き合いいただきありがとうございました。
参考文献
ヒーリングっど♥プリキュア オフィシャルコンプリートブック /学研ムック
暇と退屈の倫理学 /國分功一郎
ユング心理学入門 /河合隼雄
嫌われる勇気 /岸見一郎
幸せになる勇気 /岸見一郎
野蛮な進化心理学 /ダグラス・ケンリック
恋人選びの心 : 性淘汰と人間性の進化 /ジェフリー・ミラー
女と男なぜわかりあえないのか /橘玲
すべてはモテるためである /二村ヒトシ
なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか /二村ヒトシ