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中島敦『山月記』 ―日本近代文学館

高校国語の教科書に載っている
『羅生門』芥川龍之介
『こころ』夏目漱石
『山椒魚』井伏鱒二
『舞姫』森鴎外
そして『山月記』中島敦
(個人的にはさらに『檸檬』梶井基次郎も含めたいところ…)

大好きなんですよね〜〜〜
ここ数年、通信制高校で国語を教えることがあって、授業では『羅生門』くらいしか取り上げる機会がないのですけれども、教科書が常に手元にあるという小さな小さな優越感に浸りながら、ますます上記の作品に愛着ができてしまっているこの頃です。

昨年度までの学習指導要領と教科書のときは、『山月記』も結構授業で頻出だったんだよなぁってちょっともどかしいです。
高校3年生に『山月記』いいと思うんだけどなぁ〜って。


日本近代文学館では
6月までは芥川竜之介と『羅生門』に関する展示をしておりましたが、
つい先日まで、

教科書のなかの文学/教室のそとの文学Ⅱ
 ― 中島敦「山月記」とその時代

を展示していました。
【2024.8.28 (𝙒𝙚𝙙.)】の夕方、渋谷への出勤の帰りに寄ったので、閉館時間ぎりぎりまでいて最後の一人になってしまいました。


いつも静かで粛々としている館内


ポスターにも抜粋されていますが、

この胸を灼く悲しみを誰かに訴へたいのだ

中島敦『山月記』

この李徴の心の訴え、、胸が苦しくなるくらいぐぬぬぬぬぅぅ、、、、ってなりませんか。。私はなります。

この抱えているやり場のない感情をどうにかしたい、どうなんだ、いったい自分はどんなんだって頭を抱えるような、胸を内側からかきむしりたくなるような感情を持て余す、、、
自分はどう見られているのかどう評価されているのか、、、自尊心?自意識過剰??あとは強烈な自責の念。。。







とりあえず一旦落ち着きましょう
展示の構成はこちらです(ӦvӦ。)

教室のなかの文学/教室のそとの文学Ⅱ ― 中島敦「山月記」とその時代
第1部 「山月記」の世界
 Ⅰ.教科書の中の「山月記」

Ⅱ.「山月記」創作の秘密を探る
Ⅲ.「山月記」をどう読むか
Ⅳ.悩める中島敦
Ⅴ.世界に羽ばたく「山月記」
第2部 中島敦の生きた時代
 Ⅰ.昭和文学と中島敦

Ⅱ.中島敦の異文化体験


中央大学 山下真史教授が監修しておりまして、『山月記』のほかに、遺作となった『李陵』(中島敦没後に発表された歴史小説)と『名人伝』という弓の名人過ぎて弓を放つことがなくなったという話がおすすめだと、オープニングの動画でおっしゃっておりました。『名人伝』気になる…これも青空文庫ですぐ読めそうです


第1部 「山月記」の世界

Ⅰ 教科書の中の 「山月記」

『山月記』が載っている教科書が新旧ずらり。
昨年度まで使用していた「現代文B」(東京書籍)や新しい学習指導要領によって科目名が変わって「文学国語」(東京書籍)の教科書もありました

Ⅱ 「山月記」 創作の秘密を探る

中島敦は「山月記」執筆にあたり「人虎伝」を題材に採りました。
創作の元となった「人虎伝」のテキスト、世に出るきっかけとなった深田久彌との交流など、作品の背景を紹介します。

この章がとってもおもしろかったです

中島敦は、パラオで教科書を編集するなどの仕事をしていたらしいですが、パラオに出発する前(1941年)、『山月記』他いろいろの原稿を先輩作家 深田久彌(ふかだきゅうや)に預けたそう。それを読んだ深田先輩、勝手に雑誌にて発表してくれて世にだしてくれたらしい。
中島敦本人が自分の作品が雑誌に掲載されたことを知ったのは、帰国後のことだったそうです。そんなことあるんですね!もうちょっと詳しく知りたいです。



「五月五日に自晒し戯れに作る」

というタイトルがついた自作の漢詩がありました。
中島敦は自作の漢詩・訳詩をまとめたノートに収めていたようです。

五月五日に自晒し戯れに作る
行年三十ー 狂生誕辰を迎ふ 木強にして世事を嗤ひ
狷介にして人と交わらず  花を種(う)うる 窮措大(きゅうそだい)  書のとたる病痩身 識らず 天公の意 何れの時か赤貧を免かるる

漢詩を書き下だし文にしたもの

31 年生きて来て5月の誕生日を迎えた。自分の狷介な性格のせい、病気のせいで、貧乏生活を送っているが、天はどういうつもりなんだろうか。天は何時になったら、赤貧を免れさせてくれるのだろうか

漢詩の意味

これは『山月記』以前のもののようですが、まんま李徴じゃないか?と通じるところがある。自分のことを漢詩にしたのか、これはもう『山月記』を、李徴をなんとなく想定して書いているのか。
ただ展示のキャプションの書き方や雰囲気的には、中島敦が自分のことを書き連ねた漢詩をまとめたノートの一編だったので、やはり自分のことを顧みて書いているのかな。

この漢詩がとても気になって気になって結構な時間を費やしていました

◾︎虎というモチーフ

チラシやポスターに使われてる虎の絵の実物が堂々展示してありました。

こちらはポスターより

中島春城「猛虎図」1935(昭和10) 年
叔父・比多吉から数へ贈られた。「山月記」執筆の際に参考にしたとされる。

県立神奈川近代文学館所蔵

先日訪問した漱石山房記念館に行くたびに思っているのですけど、県立神奈川近代文学館って素晴らしいものばかりお持ちですね!!行ってみたい!!そんなに遠くないけどなかなか機会がつくれていません

県立神奈川近代文学館
https://www.kanabun.or.jp


◾︎月の描写

「山月記」には「月」という単語が6回出てきます。
袁慘が李徴に対面する場面では、「残月の光をたよりに」、「時に、残月、光冷やかに」、「白く光を失つた月を仰いで」などの表現が出てくるのですが、実は「人虎伝」には一度も出てきません。月の描写は、場面にリアリティをもたらす効果があると思われますが、特に最後の「白く光を失った月を仰いで」という描写は叙情的でもあり、小説の感銘を深めています。

へぇぇぇぇ!!!!『人虎伝』には月は出てこないんですね!!模している作品があるにしても、こんなに象徴的なのに!!

『人虎伝』のあらすじがパネルでまとめられていて簡単に読むことができました!
が!!
なんと、人虎伝の全文を印刷したものが配布されておりましたので、帰宅後ゆっくり読みました。たしかに月も出てこないし、李徴はどこだったかなんか山月記と違って怒ってる!って思ったり、違いを見つけるの面白いです


Ⅲ 「山月記」 をどう読むか

教科書に取り上げられ続けている「山月記」の魅力、作品の読み方、楽しみ方の可能性について、改めて考えてみようというコーナーで、『山月記』を読んだ論点などがパネル展示としてまとまっていました。

  • 李徴は中島敦の自画像なのか?

  • 実際に袁傪にあたる友人がいたらしい

  • 李徴が虎になった理由はなんだろうか

  • 袁傪がっ感じた、“非常に微妙な点においてかけるところ”とはどこなのか

  • 何がテーマなのか

といったかんじです。参考になります。


中島敦の奥さんは、
「『山月記』を読んで、まるで中島の声が聞こえるようで、悲しく思ひました」と回想しているらしい。
李徴のモデルはやはり中島敦自身なんでしょうかね、、、




Ⅳ 悩める中島敦

中島敦の家族との関係や教師という職業、悩める成年としての中島敦像を紹介しています。

中島敦の家族構成については初見でした
神奈川の女学校で教師をやっていたという印象が強く、女生徒から人気者の先生だったと聞いたことがあったので、明るく華やかなところもあったのかな?とか思ってましたが、なんだか想像より根暗そうな人物、、、

まず祖父が中島敦の祖父、有名な漢文学者
伯父、皇帝溥儀の通訳
エリート一家でのプレッシャー、、、重たいです


『宝島』『ジキル博士とハイド氏』を著したスティーブンソンに憧れていて、持病の結核の治療のためサモア島に移住してサモア島で没したスティーブンソンのサモアにおける晩年を、中島敦は「光と風と夢」に描いています。読んでみたい。


パラオから奥さんへの葉書が愚痴ばっかりでだんだん不憫になってきました
奥さんとお子さんと仲良く静かに過ごしてほしい

中島敦にとっての南洋での生活についてもっと知りたいかもしれない

パラオから家族へ送った葉書

この葉書だけを見ると南洋での生活も悪くなさそうに感じますが、他の展示を見ると南洋での生活の辛く後悔している気持ちを感じました



中島敦自身の病床の日記「カメレオン日記」
南洋での療養生活もうまく行かなかったらしい、、、
妻タカ宛に後悔してる手紙を残している
なかなか不憫です




Ⅴ 世界に羽ばたく 「山月記」

「山月記」は教科書に載っているだけでなく、翻訳本、漫画や朗読などが出ています。
中でも面白そうだったのは、
柳広司『月と虎』、李徴の息子を主人公とした「山月記」の後日談です。
気になりません??スピンオフ的なもの??
いや源氏物語でいったら宇治十帖でしょうか




日本近代文学館には定期的にまた行きます



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