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"卒業"という名の発表会。
証書を抱え、煌びやかな正装で行き交う若い集団を街で見かけて、そういうシーズンなのかと今更気づく。
いま思えば卒業(式)は自分にとって門出というより、作品を発表する大きな機会の1つだった。
大学4回生(という言い方は関西だけらしいと最近知った)に撮った卒業制作の長編映画は、はっきり言って失敗だった。途中で企画者でもあった監督が降板し、代わりに自分が撮ることになったその作品は、撮影前の段階から現場は殺伐としていて、それを打開すべく夜通しチームで話し合い、試行錯誤しながらなんとか作品を仕上げた。
………というと、凄い美談のように聞こえるが、実際はそんなに美しいものでもなかった。このままでは頓挫すると感じた自分含め何人かは、監督だった彼を言いくるめて、無理矢理その立場を退くよう促した。当時の中途半端な経験則を過信し、シナリオのあらゆる箇所を書き換えた。でもどうやっても自分の作品にはならなかった。自身の「監督作」と言いたくなかった。作品に対する愛情も、その過程で生まれる友情も、はっきりいってそこには無かった。
それでも東京の小さなシアターで上映される機会があった。しかしダビングが失敗しているのを気付かないまま上映データを納品してしまって、途中から画と音がずっとズレたまま上映されてしまった。あの時の観客は苦痛だったと思うし、その後監督挨拶として登壇したが、何を話したか全く覚えていない。
―と、紆余曲折あったわけだが、「卒業制作作品」として、その混沌としていた過程も含めて評価して欲しい、みたいなことを卒業文集に寄稿したら、何件かそれを避難するコメントが寄せられた。映画にとってその過程は関係ない。完成されたそのものだけで評価されるべきだ、みたいな事を散々言われた。確かにその考えは理解できる。ただ、学生生活最後の期間丸ごとを「卒業制作」に充てた事そのものを尊重したかったし、今コメントを求められても同じ事を言うだろう。そもそも、他学科の卒業生の絵画や彫刻と並べて映画のキャプチャ画面と共に解説をつらつらと書かされる方がよっぽどナンセンスだ、と今になっても思う。
はっきり言って失敗だった。
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放送部だった高校の時は、よくビデオカメラを持ち歩いていて、文化祭などでたびたび自分の映像作品を披露する機会があった。
毎年PTAが卒業生を対象につくるDVDを自分が担当することになり、受験なんてそっちのけで最終的に2本のDVDを作った。1本は卒業生全員を対象にしたドキュメンタリー。そしてもう1本は、それの自分のクラスに特化したものだった。
ジャケットカバーにも拘ったり、卒業式後最後のホームルームでその上映会をしたり、とにかく楽しかった。そして今でも誰かの実家に、ひっそりと埃を被ってそのDVDが眠っているのだと思うと、妙にわくわくする。
中高一貫校出身だったので、中学の卒業はそれほど感慨深いものではなかったが、ひとつ忘れられないのは、その最後の冬に行った修学旅行の紀行文である。
当時担当していた国語の先生はなかなか生徒を褒めない人で、厳しく、でも常にユーモアはあって、お気に入りの教師だった。返ってきた文章やテストは至る所にコメントが書き込まれ、いつも真っ赤になっていた。
しかし、最後に添削してもらった紀行文には全く書き込みがなく、文章が終わった後の空欄に、細い字で、「S」と書かれてあった。
それが嬉しくて嬉しくて、いまでも卒業アルバムに挟んである。
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小学校を卒業した実感がわいたのは、中学に入学して少し経った頃だった。
周りはそのまま地域の中学へ進学していく中、僕だけ少し離れた学校へ行くことになった。入学して間もない頃、慣れない環境や重圧に耐えきれなくて、家族の誰も見ていないところで泣いたことがある。でも自分の希望する進路だったから、逃げ道もなく、それに耐えていくしかなかった。6年一緒だった友人たちと別れるのは辛い出来事だった。ただ、環境の変化に対して寛容的で、人の入れ替わりが激しい今の世界のなかで柔軟にいられるのは、ああいう歳でああいう経験をしていたからだと思う。
今では実家を遠く離れ、「卒業」というイベントとは無縁になってしまった。
「卒業」は単なる通過儀礼でしかないが、今思えばその時々の自分をあらゆる形で残せる大切な機会だった。そして次またそういう機会がある事を、決して諦めてはいない。