算命学に聞いてみな 第1部第2回「『生き地獄』は突然はじまった」
●1984年
1984年12月25日――その扉は、音もなく開きました。
前触れもなく、ただ静かに、「生き地獄」への扉が――。
当時23歳だった私は、前夜から従姉夫婦の家に泊まっていました。
クリスマスイブのパーティを従姉夫婦と楽しみ、この日は長野県松本市にある実家に帰省する予定でした。
1984年――。
あれからもう40年も経ったのだと考えると、何とも不思議な気持ちになります。
あの年は昭和59年。
干支歴では「甲子」となる年でした。
時代を振り返れば、まだインターネットは一般人には縁のないもので、Appleから初代Macintoshが発売された頃です。
ロサンゼルスオリンピックで「ロケットマン」が空を舞い、「グリコ・森永事件」や「ロス疑惑」が世間を騒がせた年でもありました。
●夢追い人だった23歳の私
その頃の私は、東京都内の専門学校で演劇を学びながら、将来の夢に胸を膨らませていました。
目指していたのは、舞台演出家。
戯曲を書くことにも興味はありましたし、その勉強もしていましたが、劇作だけではなく、才気溢れる舞台俳優たちに協力してもらいながら、ステージ全体を創造する仕事に惹かれていました。
名作『上海バンスキング』の演出家・串田和美や、夢の遊眠社の主宰者として劇作、演出、出演まで手がける才人・野田秀樹――そうした当時の演劇界のスターたちが創りだす舞台に心を奪われていたのです。
その年の夏には仲間たちとやることになった自主公演の作・演出を務め、得がたい体験を果たせたことも、私の中に小さな自信を芽生えさせていました。
学校の恩師(高名な舞台演出家)からは「卒業したらうちの事務所に来て手伝わないか」と声をかけてもらうこともでき、将来に向けた具体的な道筋も見えていました。
「卒業公演が終われば、いよいよ夢への一歩が始まる」――私はそう信じて疑いもしませんでした。
あのクリスマスの朝を迎えるまでは。
●忍び寄る異変
その朝。
目覚めた私は布団の中で両手を伸ばし、大きく伸びをしました。
その瞬間、右手にかすかな違和感を覚えました。
「寝相が悪かったのかな」
ですが私はそう考えただけで、特に気にすることもありませんでした。
用意してもらった遅い朝食を済ませ、従姉に別れを告げて、松本に帰省するため新宿駅を目指しました。
ところが電車に揺られるうち、奇妙なことに右手だけでなく、右足にも違和感が広がり始めたのです。
寝相が悪かったというだけでは、ちょっと説明しがたい展開です。
私は何度も右手を振ったり、右足を揺すったりしました。
ですがその感覚は、消えるどころかさらにじわじわと、私を侵食していきます。
「ただの疲れだろう」
それでも私はそう自分に言い聞かせ、新宿に着くと特急あずさ号に乗り込みました。
●あずさの中で
特急の座席に腰を下ろした頃には、全身が鉛みたいに重く感じられるようになっていました。
「しばらく休めば、きっと元に戻る」
時とともに、感じる不安は大きなものに変わり始めていましたが、それでも私はそう信じ、むりやり目を閉じて眠りの世界に逃げこみました。
しかし、短い眠りから覚めたとき、私の身体はさらにおかしくなっていました。
右半身にあった違和感が左半身にも広がり、全身がさらに重く、鈍くなっていたのです。
麻痺――。
それをそう呼んでいいものかどうかはまだわかりませんでしたが、私の身体は確実に、何か異常なものに支配され始めていました。
●家までの長い道のり
松本駅に到着しました。
まったく生きた心地のしない、3時間ほどの電車旅。
あずさ号を降りた私は、駅を後にし、実家までの道を歩き始めました。
通常なら20分ほどの道のりです。
しかしこの日は、その距離が果てしなく長く感じられました。
両足が思うように動きません。
着ていたコートまでもが、私を押しつぶそうとしているように重く感じられます。
冷たい風が肌を刺し、空が紫色に染まっていきます。
見慣れた景色が、やたら冷え冷えとしたものに感じられます。
歯を食いしばりながら、私はひたすら歩き続けました。
●母の笑顔が凍りついた瞬間
どうにか実家に辿り着いた頃には、すっかり日が暮れていました。
私は懸命に笑顔を作り、「ただ今」と中に声をかけて家に入りました。
「お帰り」
母が出迎えに現れます。
しかし私を見た瞬間、母の笑顔は凍りつきました。
目の奥に走る動揺。
戸惑い。
そして、ほんの一瞬の恐怖。
それを見たとき、冷えきった手の指が胸の奥に触れたような感覚が広がりました。
母の表情はまぎれもなく、私の異変の深刻さを映し出していました。
自分の身体に何かが起きている――。
いやでもそのことを思い知らされながら、それでも私は必死になって、こわばった顔に笑みを作ろうとしました。