算命学に聞いてみな 第1部第3回「謎の答えはハードロックだった」
●松本という町
私の生家は、松本駅の西口から徒歩20分ほどの場所にありました(今はもうありません)。
ちなみに現在の松本駅西口は「アルプス口」とも呼ばれています。
駅舎や周辺は再開発が進み、近代的で整然とした景観に生まれ変わりましたが、当時の駅は「ザ・昭和」そのものでした。
駅前の風景も「ちんやり」(信州の方言で「しょぼい」)していて、どこか寂しい、うらぶれた雰囲気を漂わせていたものです。
松本――。
長野県松本市は、私の故郷です。
長野県のほぼ中央に位置し、人口はおよそ23万人(2025年現在)。
長野市に次いで県内第2位の規模を誇ります。
そのキャッチフレーズは「文化香るアルプスの城下町」や「三ガク都」(楽都、岳都、学都)。
国宝・松本城や北アルプス連峰の雄大な眺めが有名で、全国からの多くの観光客を引き寄せる観光都市でもあります。
そんな松本城の前身は「深志城」といい、甲斐の戦国武将、武田信玄の支配を受けた歴史がありました。
その後、天正10年(1582年)、武田方から城を取り戻した小笠原貞慶が「今後、深志を改めて松本と号す」と宣言したことで、松本という地名が誕生しました。
高校を卒業するまでの18年間、私はこの町で育ちました。
北アルプスの雪を頂く美しい山並みや、幼い頃に遊んだ近所の神社は、私の原風景として今でも心に刻まれています。
東京に出てからも帰省するたびに、心が落ち着きました。
友人たちと再会し、酒を酌み交わして楽しい時間を過ごす――それがいつもの過ごし方でした。
でも、この年末の帰省はいつもとは違いました。
身体の異変が、静かに、確実に、私を蝕み始めていたのです。
●不気味な異変
松本に帰省した私は、家にたどり着くなり家族に訴えました。
「身体に力が入らないんだ」
しかし、医療に詳しい者などいるはずもない我が家族(両親と祖母。私には弟が一人いますが、東京で共同生活をしていて、弟はまだ帰省していませんでした)に、そう言ったところで実際問題どうにもなりません。
そもそも私自身、何が起きているのか全くわかっていませんでしたし。
「疲れてるだけだろう。早く休めばいい」
そう言われ、私は少しだけ夕食を口にして早々に床につきました。
そんな私を心配し、祖母が勧めてくれたのは「中○湯」という女性特有の症状に効く市販の漢方薬でした。
中○湯…。
本来の用途とは違うことは、さすがに私にも分かりました。
ですが祖母の気持ちを無下にすることもできず、また少しでも心理的に楽になりたいという切羽詰まった思いもあって、私はそれを飲みました。
しかし夜は長く、私はまんじりともできません。
不安ばかりが募ります。
かすかに聞こえてくる家族たちの平和そうないびきが、よけい私の焦燥と恐怖を色濃いものにしました。
結局、一睡もできないまま、私は朝を迎えました。
そして私の身体はと言えば――さらに動かなくなっていました。
●診療所での診察
「しっかりしろ!」
父に叱られながらも、動けない身体を何とか引きずって、私は近所の診療所を訪れました。
幼い頃から見てもらっていたU先生が診察をしてくれましたが、首をかしげるばかりです。
「とりあえず点滴を打ちましょう」
そう先生に言われた私は、診察室の奥にあるベッドに横たわりました。
看護師に処置をされ、点滴の薬液がゆっくりと滴るのを眺めながら、私は途方に暮れていました。
無知な私でも、さすがに分かっていたからです――「こんなことで治るわけがない」と。
診療所を出る頃には、さらに身体が動かなくなっていました。
もはやそれは確実に「麻痺」と言ってもよい状態でした。
●大学病院での診断
もはや万事休す、です。
U先生に紹介状を書いてもらい、私たちはS大学病院を訪れることになりました。
父の運転する車の後部座席で、私はぐにゃりと力の抜けた状態のまま、車に揺られて病院へと向かいました。
到着すると、看護師がすぐに車椅子を持ってきてくれました。
車椅子に座った瞬間、「ああ、楽になった」と、私は心の底から安堵しました。
あの時の感覚は、いまだに忘れることができません。
世の中に車椅子というものがあることは知っていました。
ですが、まさか自分がそれを利用する日が来ようとは思いもしませんでしたし、車椅子があれほどまでにラクなものだとも知りませんでした。
診察を受けた私は、とにかく緊急入院ということになり、煌々と白い明かりの点った6人部屋に運びこまれました。
たくさんの、白衣を着た若い医師たちが代わる代わる診察に来ます。
身動きがとれないため、私はぐったりとベッドに仰向けになったまま、されるにまかせました。
いくつかの検査室に連れていかれ、検査も受けました。
それでもずいぶん長いこと、私の病気は誰も特定できません。
付き添いで病院に泊まることになった母が、オロオロしつつも、私を気づかってくれました。
やがて、神経質そうな表情をした一人の中年医師が病室にやってきました。
I先生といいました。
他の医師たちと同じように、I先生は私の両目に光を当てて覗きこんだり、舌を出せと言ってじっと舌をたしかめたり、肘や膝を医療器具の黒いハンマーのようなもので何度も叩いたりして、私を診察しました。
そして、こう言ったのです。
「ああ……ギランバレーだな」
ようやく、私の病気が特定されました。
●こんにちは、ギランバレー
ギランバレー。
なんだそれはと私は思いました。
ギランバレー。
ギランバレー。
生まれてはじめて聞く言葉です。
おめでたい私は、英国のハードロックバンド、ディープ・パープルのヴォーカリストの顔を脳裏に蘇らせました。
ヴォーカリストはその名を、イアン・ギランといいました。
とにもかくにも、病名が分かりました。
こんにちは、ギランバレー。
もちろんそんなことを、その時思ったわけではありません。
ですが結果的にそのときからずっと、ギランバレーは私の人生の一部になりました。
そして同時にギランバレーは、私の大事な人生の一部を残酷なまでにえぐりとり、欠損させてくれました。
物語が、始まりました。
私の人生の、長い、長い、物語が。
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