算命学に聞いてみな 第1部第6回「私が発狂しなかった、たったひとつの理由」
●器官切開が始まる
主治医のY先生は、私に言いました。
「これから器官切開をします。首にメスを入れて穴を開け、そこに挿管チューブをセットします」
次から次へと襲いかかる不測の事態に、母がかなり取り乱していたことを覚えています。
「先生、本当にそれしか方法はないのですか?」
こわばった顔つきで医師に追いすがり、何度も確認しています。
しかし、私は違いました。
今でもはっきりと覚えています。
――なんでもいいから、早くなんとかしてくれ。
そう心で悲鳴を上げていました。
とにかく顎が痛くてたまりません。
この痛みが何とかなるなら、穴でも何でもあけてくれと思いました。
執刀は、運よく居合わせていた外科医の医師がしてくれることになりました。
「外科の先生がいてくれてほんとによかった。運がいいよ、○○くん。僕たち内科医のメスだと、あまりきれいに切れないと思うから」
Y先生は、ちっとも運などよくない私に、そう言いました。
「大丈夫。大丈夫だからね。心配ないよ」
落ちつきを取りもどした母が、私に笑顔を向けてそう言いました。
いつもの母に戻っていました。
私は必死にうなずきました。
しかし母からしたら、もはや私はなんの反応も返さない置物だったことでしょう。
母が部屋から閉め出されました。
手術が始まります。
正直、このあたりの記憶はかなり曖昧です。
覚えているのは、気が狂うかと思うような顎の痛みと、朦朧とする私を真剣な表情で覗きこむ、外科医をはじめとした医師や看護師のマスク越しの目だけです。
麻酔をされているため、もちろん切開部の痛みはありません。
ですが、顎は別です。
早く。
早く何とかして。
痛い。
痛い、痛い、痛い。
砕ける。
顎が砕けちゃう。
「○○くん、チューブを抜くよ」
やがて器官切開が終わり、チューブを移動する準備ができました。
Y先生は私の目を覗きこみました。
気持ちとしては全力でうなずいたつもりです。
でも私は、ピクリとも動かなかったことでしょう。
医師たちが、私の口に装着されていた挿管チューブをはずしにかかります。
不穏な音とともに、チューブが口から抜けました。
その途端、私は生まれて初めて気絶をしました。
●慟哭
どれぐらい意識を失っていたのか、今となっては確かめるすべもありません。
しかし、束の間の眠りをむさぼっていた私に、遠くからいやな音が近づいてきます。
なんだっけ、この音……。
私はそう思いながら、徐々に覚醒し始めました。
リズミカルな騒音は、私の左脇でけたたましいノイズを断続的に響かせます。
――ああ、そうだった。
自分が置かれていた状況を思いだしながら、私は両目を開けました。
白い天井が見えました。
目玉を右にやると、どんよりと曇った12月の重たい空が窓の向こうに見えます。
私は同じベッドに仰向けになっていました。
すぐ近くで人工呼吸器が、先ほどまでと変わらない音を立て、私の体内に酸素を送りこんでいます。
顎の痛みはなくなっていました。
ようやく私は人心地つくような気持ちになりました。
身体の中に、必要にして十分な量の酸素が、くり返し、くり返し、注入されます。
病室の中は、しんとしていました。
けたたましい人工呼吸器の音以外、なにも聞こえません。
麻痺のせいで思うように首を回すこともできないため、私はなんとか動いてくれる目玉を左右にやり、自分が置かれた状況を確かめました。
病室には誰もいませんでした。
椅子に座ってうなだれる母以外は。
母は、泣いていました。
私を気づかってか、声を殺し、顔をくしゃくしゃにして嗚咽しています。
いつも気丈な人でした。
入院してからも、落ちこむ私を励まし、ポジティブな態度でずっと寄りそい続けてくれました。
そもそも私は生まれてこの方、母が泣く姿など見たことがありません。
陽気に笑い飛ばし、つねに前向きな態度で物事にぶつかっていく、そんな母しか記憶にありませんでした。
そんな母が、肩を震わせて慟哭しています。
涙の雫が、紅潮した頬を伝い流れています。
たかが数日のことなのに、私に異変が起きてからの二、三日の間に、ずいぶん小さくなったようにも見えました。
もしかしたら、母もなにも食べていなかったのかも知れません。
――しっかりしなきゃ。
私はそう思いました。
なにも見なかったことにしようと決めました。
眠くもないのに目を閉じて、ふたたび夢に逃げこみました。
目が覚めると、私が見たものは幻だったかのように、母はそれまでと変わらない明るい態度で私を迎え、コミュニケーションを取ろうとしました。
口の中に挿管チューブを入れられて以来、私は言葉を発することができなくなっていました。
そんな私の状態は、口からチューブが抜けても変わりません。
首に穴を開けられてしまったため、口は自由でも、声を出すことができなくなっていました。
しかも、これは後で気づいたことでしたが、私は嗅覚も失っていました。
匂いのない、口をきくこともできない世界で、私はそれからとんでもなく長い日々を、ぴくりとも動けない状態で生きることになりました。
母との対話は手製の五十音パネルを使い、母が指し示す文字に、私が目を閉じて「それ」と意思表示をすることで、なんとかとるようになっていきます。
●延々と続く悪夢の日々
全身麻痺のまま人工呼吸器につながれる悪夢のような日々は、いったいどれぐらい続いたと思いますか?
なんと、私の首にあけられた穴から挿管チューブがはずれるまで、4か月近くの日数がかかりました。
私に自発呼吸が戻ってくるまでには、100日以上の月日が必要だったのです。
その4か月近くの間は、文字どおり「生き地獄」でした。
全身麻痺のまま横たわり続けることの苦痛(という言葉では到底言いあらわせない、底なしの痛みと苦しさ)は、「経験した人にしか分からない」としか言えない、信じられないものでした。
試しに、10分でいいですからベッドに横たわったまま、動きを止めてみてください。
どんな格好でもいいです。
お好きな態勢で。
ただし「このポーズにしよう」と決めてスタートしたら、なにがあろうと動かないでください。
多くの方は、数分も経つとムズムズしてくるはずです。
布団と密着している部分の肌に違和感を覚えるようになったり、同じ態勢のまま動かずにいることに、強いストレスを感じるようになるでしょう。
「こんなの無理!」
そう悲鳴を上げながら、飛び起きることになる人がほとんどなのではないでしょうか。
●私が発狂しなかった、たったひとつの理由
そうした「こんなの無理!」な生活が100日以上にわたって続きました。
24時間休みなしに。
手足に感じる悪魔のようなだるさは尋常ではありません。
母は私にせがまれ、暇があればにぎり拳で、私の手や足をたたいたりするようになりました。
私が自力で痰を処分できないため、定期的に専用の器具を使って、私から痰を取る処置もしなければなりません。
時間の経過とともに、「褥瘡(床ずれ)」も深刻な問題になっていきます。
ずっと変わらない態勢で横たわっているため、骨などで圧迫される部分に血が通いにくくなり、へたをすればそこから身体が腐っていくような状態に陥っていきます。
そんな私を、母は親身になって看病し、定期的に私の態勢を変えたり、床ずれになりそうなところを懸命にマッサージしたりしてくれました。
もちろん母だけでなく、父も足繁く病院を訪ねては看病してくれましたし、それは祖母も同じ。
東京にいた弟も帰省して病室を訪ね、私を励ましてくれました。
病室に来たはいいものの、のんびりと雑談をしている看護師がいると、そんな彼女たちを叱り、私を守ろうとしてくれました。(ちなみに看護師さんたちにも、どれだけ世話になったか知れません。看護師さんたちの名誉のために言っておきます)
家族たちは、みんな力になってくれました。
私の異変を聞きつけた友人たちも、みんな私に力を、勇気を与えてくれました。
今でも感謝しかありません。
しかし正直、それでも私は発狂しそうでした。
眠れません。
ただ、横たわるだけ。
毎日睡眠薬が処方され、薬のおかげで、私は過酷な現実から、少しの間だけ自由になることができました。
時間はちっとも過ぎてくれません。
もう1時間ぐらい経ったかと期待したら、まだ10分しか経っていない――そんな時の過ぎ方でした。
身体の痛みが絶えず襲ってきます。
しかし器官切開をされているため、声を発することもできません。
自分の身体なのに、まるで借り物のようです。
こんな日々が、100日以上です。
全身麻痺のまま横たわり続ける「生き地獄」は経験した人にしか分かりません。
もちろん世に「生き地獄」はさまざまあるでしょう。
ですが間違いなく、私が体験したあの日々も、「生き地獄の西の正横綱」のような日々だったと、私は思います。
置物と化し、人としての尊厳もなにも奪われたような日々が、地獄でなくていったいなんでしょう。
おかしくなりそうだと、何度自分を失いかけたかわかりません。
でも私は、ギリギリのところで発狂しなかった。
なぜか。
あの日の母がいたからだと、今でも私は思っています。
あの日、私に隠れて慟哭する母を目にした時から、私はずっと、同じことを思い続けています。
あれから40年経った今でさえ。
――しっかりしなきゃ。
徒手空拳でしたが、そうやって歯を食いしばることだけが、私にできるたったひとつの戦い方でした。
そう考えると、曲がりなりにもこうして生きていられるのは、「あの日の母」のおかげかもしれないですね。
そのわりには会うたびケンカばかりして、互いに説教ばかりしあっていますが。
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