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算命学に聞いてみな 第1部第7回「それでも人生は続く」

●人工呼吸器のエラー、始まる


置物と化した私の闘病生活は、4か月近くにも及びました。

最初の頃は「大丈夫。よくなるからね」と言っていた医師たちの表情も日増しに翳りを増し、病室には時とともに、どんよりと重苦しいものが漂うようになっていきました。

あの頃の私は、毎日決められた量のステロイドを投与され、関節が硬くならないよう、ベッドの上でリハビリをしてもらいながら毎日を過ごしました。

時間は過ぎていくのに、ちっとも回復しない。

そんな自分の身体を不安に思いつつも、私はなすすべもなく、昨日と同じ今日を生きるしかありませんでした。

ところが、そんなあるときです。

人工呼吸器が、いきなり妙な音を立て始めました。

「あれ、おかしいな……?」

母に呼ばれて病室に来た看護師が首をかしげます。

そのとき、私は気がつきました。

――あれ? 今、俺……息した?

わずかに。

ほんのわずかに。

でも、確かに。

気がつけば、私は自分の意志で呼吸をしていました。

自発呼吸が戻り始めたのです。

人工呼吸器が私の肺に酸素を送りこもうとするタイミングのどこかで、私が勝手に呼吸をするようになったため、呼吸器がエラー音を立てるようになったんですね。

闇の向こうに、小さいけれどたしかな明かりが点りました。

私につきっきりで看病してくれていた母をはじめ、家族たちも、みんな安堵した笑顔を見せるようになりました。

●人が生きていくための、ふたつの宝


やがて、私の首から人工呼吸器の挿管チューブがはずれました。

首の穴がふさがれ、呼吸を取りもどした私は、同時に言葉と嗅覚も取りもどし、ようやく人心地尽きました。

もちろん身体は、相変わらず麻痺したままです。

しかし「治ってきた」という喜びは、何ものにも代えがたいものでした。

この経験をして以来、私は人が生きていく上で、その人を支えるなによりの宝はふたつあると確信を持って言えるようになりました。

まずひとつは、自分のために踏んばってくれる「誰か」の存在。

私にとって、それは家族や友人たちでした。

家族も友人も、みんな必死に私を支えてくれました。

もちろん主治医のY先生をはじめ、S大学病院の医師や看護師たちも、いつ快方に向かうかも分からない私を懸命に治療し、励まし、勇気を与えてくれました。

自分のために踏んばってくれている「誰か」の存在なしに、私はあれほどがんばることはできませんでした。

そして、もうひとつ。

希望です。

希望。

お金ではありません。

地位でもありません。

名誉でもありません。

「今より人生はよくなっていく」と思える明るい希望。

この二つがあれば、人は全身麻痺でも生きようと思えます。

現に私がそうでした。

そして、人の思いも希望も、お金や地位では買えません。

ただし、その後の闘病生活を経て、私は発病前の健康な体を、結果的に100パーセント取り戻せたわけではありませんでした。

後遺症は、今でも依然としてあります。

この世を去るその日まで、私は後遺症と戦いながら生きていかなければなりません。

あの頃、無残にも希望が打ち砕かれた日もありました。

人目もはばからず号泣した日もありました。

もう元には戻れないと知った日――心を土砂降りの雨がたたいたその日のことは、「第1部最終回(第10回)」で書きたいと思います。

しかしそれはそれとして、人が生きていく上で大事なものが、今言ったものたちであることは、私にとって変わりません。

人の温もり。

そして闇の中に点る、遠くに見えるか細い明かり――「人生は今よりよくなっていく」と思える希望という名の温もり。

こうした「温もり」こそが、誰にとっても過酷な人生を生きていける「お守り」だと、私は思います。

●青春の夕暮れの長い影


人工呼吸器から解放された私に、のんびりしている余裕はありませんでした。

一日も早く本格的なリハビリを開始しないと治るものも治らないと、私は生まれて初めて寝たきりのまま救急車に乗せられ、奥深い山中にあるK病院という、リハビリ治療に定評のある病院に転院しました。

救急車で移動途中の私(1984年4月)

それでも私は、相変わらず全身麻痺のままでした。

しかし、ゆっくりとではあるものの、K病院で過ごすリハビリの日々の中、私の身体は少しずつ、さらなる回復への兆しを見せるようになっていきます。

手が動き、大分遅れて、足が動くようになっていきました。

中央の大仰な車椅子が私。20代の患者は少なく、しかも私は超重症でしたので院内の有名人でした

やがて私は、自力でベッドから車椅子に移動できるようになり、車椅子の種類もどんどん軽装なものになり、ついには車椅子から立ち上がるようになります。

そして、母親なしでも病院生活が送れるようになり、ついに母をもとの暮らしに戻してやることもできました。

車椅子の必要がなくなった私は、ぎくしゃくとした動きではあるものの杖を突きながら病院内を歩くようになり、いろいろな入院患者たちと交流するようになっていきます。

K病院では、結局一年二ヶ月の月日を過ごすことになりました。

ここでの日々はここでの日々で、またいろいろと忘れられないエピソードがあるのですが、書き出すときりがありませんので、今回は省略します。

しかし私はこの病院でも、医師や理学療法士、作業療法士、看護師など、さまざまな専門家と出会い、彼ら彼女らに励まされたり教えられたりしながら、回復へと向かう日々を生きることができました。

これからどうやって生きていこう――。

そう考えると、とたんに未来は荒れ模様になり、遠雷さえ聞こえる不穏な日々ではありました。

ですがそれでも、私は希望を胸に、山奥のリハビリ病院で青春の夕暮れの長い影のような日々を生きました。

●生きているだけで丸儲け


先ほども書きましたが、残念ながら結果的には、私の病気は全快というわけにはいきませんでした。

発病から40年が過ぎた現在も、私はあの頃の後遺症と戦い続けています。

ですが、正直負け惜しみでも何でもなく、私は「生きているだけで丸儲け」だと思っています。

これは、この世の地獄を体験した人間だからこその考えかたかも知れません。

夢見た未来を失い、夢の実現のために犠牲にしたなにもかもが無駄になり、すべてが水泡に帰してしまった私でしたが、それでも焦げ臭い焼け野原に杖一本で立つ私の「戦後」は、そんな気持ちとともに始まりました。

生きているだけで丸儲け。

とにかく再び、歩み続けるチャンスは与えられたのです。

退院した私は、もうすぐ25歳になろうとしていました。

●あなたの人生に「納音」はなにをもたらすのか


さまざまなものを失った私でしたが、それでも人生は続いていきます。

ドラマとは違う私の人生は、その後も決して順調とばかりはいきませんでした。

まさに、山あり谷あり。

断崖絶壁もあれば落とし穴もあり、平坦な道のりとは無縁な、獣道ばかりを歩くような日々になりましたが、それでも私はこうして、今も元気に生きています。

そんな私が運命に導かれるようにして、さらなる人生の変転の末に出合ったのがご神仏であったり、占いであったりするのですが、それはまた、長い長い物語の先に広がる別の話。

ただ、ちょっとだけ書いておきますと、長い物語の先で、私は算命学なる奇っ怪至極な東洋占術と出合います。

独学だけでは飽き足らず、複数の師に就いて勉強を始めた私でしたが、後日、1984年の自分の運勢に「納音」が出ていたことを知った時の驚きは、今でも忘れられないほど衝撃的なものでした。

「そんなの偶然だよ」

そう思う人は、もちろんそれでいいのです。

世界はひとつではありません。

ただ私は、とてもそれを「偶然」の一言ではすませられない人間だったというだけのこと。

そんな私だからこそ、あなたにお伝えできることがあるのではないかと考えています。

「納音」の象意がWで発生したその時、私の人生には我が人生最凶最悪とも言える信じられない事件が起きた。

では、あなたは。

あなたの人生はどうなのか。

あなたの人生に「納音」がめぐってくるのはいつ?

そしてあなたの人生に、「納音」はなにをもたらすのか――。

正直、「納音」があなたになにをもたらすのかまで、明確に分かるとは限りません(場合によっては、おおよそ見当がつくケースもあります)。

しかし「いつ起きるのか」は、はっきりとお伝えできます。

次回からは、「あなたにとっての納音の物語」をお話しします。

【次回予告】

第1部「人生の転機と納音の呪い」

第8回「あなたの人生に納音が来るとき(前編)」

私の人生を破壊した「納音」は、誰の人生にも訪れる恐ろしいものです。

しかし、「納音」がめぐってくる時期をあらかじめ知り、備えを厚くすることで、襲いかかる災厄を大難から小難、無難に変えられることもまた事実です。

次回から前後編の2回に分けて、あなたの人生にいつ納音がやって来るかを、わかりやすく説明します。

お楽しみに!

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