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『多様体4 特集 書物/後世』月曜社

月曜社から不定期刊行されている雑誌の第4号です。数多ある人文系の雑誌のなかでも特に好きなもののひとつ。

(追記です。忘れていた! 『多様体』のトークイベントがあるとのことなので、興味がある方はぜひ!)

今回の特集は「書物/後世」。これまでの特集は「人民/群衆」、「ジャン=リュック・ナンシー」、「詩作/思索」で、どれも魅力的です。今回は特に、この特集を端的に表現している最初と最後のページの言葉がとても良いのです。

書物は後世への贈物である。
複製された一冊ずつは
それぞれの特異な運命を有する。

これがいちばん初めのページにある言葉。それで次がいちばん最後のページにある言葉。

肉体は滅びるとも
思念は残るだろう。
痕跡を追う者に幸いあれ。

素晴らしいですね。本の本質を見事に表していると感じます。現代において本というモノは工業化されシステマティックに作られていくコピーに過ぎないのかもしれないけれど、でもそれだけでは決してない。モノとして作られた瞬間から独自の運命を辿っていく、徹底して固有性を帯びていく、それに関わったすべての人/物/出来事の総体を担ったモノになるのです。でも、それがそういうモノになれるのは、それがそうなるように作った(著者だけではなく編集者でありデザイナーでありその他すべての)人びとの強い思念があり、同時に、その思念に惹かれその思念を探りあてる人びとがいるからであり、そして本がその二つを結びつける「贈物」になるからこそなのです。

だからこそ特集タイトルが「書物/後世」になる。非常に美しい。それから装幀……なのでしょうか、ここでは造本設計になっていますが、北岡誠吾氏によるもの。古代の石碑から拓本をとったような重厚な雰囲気があり、これも特集にふさわしい雰囲気になっています(下記のリンク表示が変になっていますが、北岡氏のinstagramに飛べます)。

掲載されている記事はどれも興味深いものばかりです。特集以外から選ぶと栗脇永翔氏によるフランスの哲学者/詩人であるフィリップ・ベックの紹介がまず目にとまります。恥ずかしながらフィリップ・ベックという人を知らなかったのですが、デリダの最後の博士課程指導学生だったそうで、ラクー=ラバルトやジャン=リュック・ナンシーとも親交があったとのこと。さらには同期の学生としてスティグレールやマラブーも居る。ちょっと凄すぎて想像できないですね。そんなこんなで紹介者の栗脇氏は「ベックが日本ではほとんど知られていないのは、やはり、ある種の欠落だと言わざるを得ない」(p.95)として、ここではベックの紹介、ベックの詩、そしてインタヴューの3つによって、栗脇氏によるとても良いベック入門が構成されています。

詩についていうと、最後の「大きな橋のモメント 正午」を読んだ最初の感想はシュルレアリスムっぽいなというものだったのですが、ベック自身の文章で「最初に指摘したいのは、ラクー=ラバルトが最初、私の詩を一種のシュルレアリスム的な象徴主義であると考えたことですが、これは、ナンシーが否定しています。そして彼が正しかったのです」(p.94)とあり、無論私の教養などラクー=ラバルトと比較するのもおこがましいですが、ちょっと笑ってしまいました。いずれにせよ「大きな橋のモメント 正午」は(無論私が読めるのは翻訳ですが)とても良い感じです。

あとはこれもフランスの哲学者であるジャコブ・ロゴザンスキーの「私に触れるな」(松葉祥一、本間義啓訳)も極めて良かったです。ここでロゴザンスキーは、コロナ禍において露呈した他者との接触/あるいは接触の禁止について、古今東西の議論を自在に引きながら分析しています。このパンデミック下(ロゴザンスキーはこの論文ではエピデミックを使っていますが)における重要な論考のひとつになると一読して感じました。非常に面白いです。結語がまた良いのですよ。

少なくとも、エピデミックによってわれわれがさらされている可逆性の経験によって、よそ者と致命的脅威の本来の同一性を――可能な限り――解体できるかもしれないと期待できるだろう。最悪の危険は、他者からではなく私自身から来ることを、そして私は他者に対しても私自身に対しても、ありうる私の死の相貌の一つであることを受け止められると期待できるだろう。

ジャコブ・ロゴザンスキー「私に触れるな」松葉祥一、本間義啓訳、p.126

それから、私自身の関心が、書店/本という文化が危機に曝されているなかでどのような――どれだけか細いものであっても――希望があるのか、というところにあるので、今回の特集のなかでも現場からの声がストレートに伝わってくるものが良かったです。それぞれに面白いのですが、特に挙げれば代官山蔦屋書店の宮台由美子氏による「コロナ流行下の書店現場を振り返る」と、こちらは連載ですが佐藤健一氏による「店長日記 第2回」が特におすすめ。

前者は日記、というより月記でしょうか、コロナがだんだん深刻化していくなかで書店がどのように活動できるのか、試行錯誤しながらの苦闘がリアルに感じられました。中でも「八月 オンラインイベントでの様々な試み」で触れられている、オンラインイベントにおける「「場」の共有」(p.14)の困難さについての試みは、私も共有している問題なので興味深かったです。このイベントは実際に観てみたかったですね。後者はユーモアに満ちた語り口で読ませますが、本当に真摯に本を売るということに向き合っているのが伝わってきますし、ラストは、私はちょっと泣きました。

小河原律香氏、早尾貴紀氏による「生活のなかで人文書を読むこと」も良かったです。甲府にある書店/カフェのカピバラさんで開かれている読書会について、店主の小河原氏と読書会をコーディネートなさっている(以前にここでもご紹介した)『パレスチナ/イスラエル論』の早尾氏による対談。

tiwtterへのリンクのうまい貼り方が良く分からない……。早尾氏はいまもっとも信頼できる研究者の一人だと思いますので、上記の本もぜひぜひ。

このお二人による記事はいろいろな切り口があると思います。そもそも読書会をするということの意味が問われるのは無論ですが、個人的には、読書会を書店で行い、そして人文学研究者がその読書会を(上から仕切るのではなく)寄り添って支えていくということの重要性が凄く伝わってきました。

[早尾氏が小河原氏から読書会において意識していることを訊ねられ]自分が中心にならないこと、教師にならないこと、ですね。[…]私の役割は、その平場の一参加者になりつつ、あとはみんなにコーヒーを注いで回るとか(笑)、「黒子」に徹して読書会の運営をすることです。

小河原律香、早尾貴紀「生活のなかで人文書を読むこと」、p.24

「書物/後世」を実現するための重要な道筋がよく描かれていると思います。特に人文系研究者の場合、中には、良いものさえ書けばあとは歴史がその良さを証明してくれるみたいな感じで、出版されてしまったあとはある意味放っておくというタイプの人もいます。それはそれで一つの考え方かもしれないけれど、でもやっぱりそうじゃないよなあ、と私は思います。後世への贈物であるのなら、書いた人も(自分が書いた本ということではなく「本」という文化そのものに対して)思念を乗せて贈ること、送り出すことにかかわっていければ、それがいちばんではないでしょうか。大変なことだけれど、本を伝えるということの総体を意識してそこに加わっていく、自分が主である必要なんて全然なくて加わっていく、そういう試みではないかと共感しつつ読みました。

他にもたくさん面白い論考が掲載されていますが、紹介しきれないので、ぜひ手に取ってお読みいただければ。


というわけで、しつこいのですが自著についての広告を……。

出版社は共和国。最新刊はクラウディオ・マグリス『ミクロコスミ』二宮大輔訳。

他にも魅力的なラインナップがたくさんですので、こちらもぜひ!

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