世界料理 ブラジル編
今回お邪魔したお店
チュニジアに引き続き今回はブラジル料理を食べに行きました。
今回伺ったのはバルバッコア新宿店
ブラジル料理のバイキングと岩塩で焼き上げた串焼きのBBQ、シュラスコが食べられるお店です。
伊勢丹新宿の向かいのビル、新宿3丁目駅から直通で行けるのでアクセスもとても便利!
シュラスコ、サラダバー、デザートバーの2時間食べ放題が
7200円
飲み放題がソフトドリンク1500円
アルコールが3000円
プレミアムワインコースが3500円
ちょっとお高めですが飲み物は単品からも注文出来るのでご安心を(笑)
それではいただきます
とりあえず肉!!
シュラスコメニュー
牛肉の他にも豚、チキン、鴨、玉ねぎ、パイナップルなどがあります。
最初に表が赤、裏が緑のコインが渡されて、緑の面を向けている間はスタッフがテーブルにどんどんシュラスコを持ってきてくれます。
バイキングで欲張るな!!
フワッ?サクッ?トロっ?初めて食べる食感
舌触りが良くて味が淡泊!お肉の箸休めにいい感じ
どれも魅力的メニューばかりですがすぐにお腹いっぱいになります(笑)
時間はたっぷりあります。焦らずに(笑)
そろそろデザート
最後に一杯だけお酒
ごちそうさまでした
ブラジル基本データ
ブラジルってどんな国なんだろう?
サッカー?コーヒー?カーニバル?他には?
ブラジルについて知っていることってほとんどないんじゃない?と感じて調べました
面積:約851.2万㎢
人口:約2億930万人
どちらも世界5位の大国です。
北部には赤道が通り高温多湿の熱帯雨林気候(Af)で、世界最大の流域面積を誇るアマゾン川が流れています。
土壌が瘦せているために作物が育ちにくく、それを補うための焼畑農業が発展。
首都のブラジリアは南部のブラジル高原に位置しており、雨季と乾季が分かれるサバンナ気候(Aw)。
どちらも人に生活には不向きなものの、温帯では栽培しにくいコーヒー豆、カカオ豆、タバコなどがヨーロッパ人によって運営される大規模農園、プラテーション農業が発達。
現在でも世界有数の農業大国でサトウキビ、オレンジなどの生産量もトップレベルです。
公用語は南北アメリカでは唯一のポルトガル語圏
これには歴史が関わっていて1500年にポルトガル人が漂着し、ポルトガル領地になったそうです。
南米共通データについても少しだけ
その後は植民地支配され、多くの国民は大規模農園や鉱山での労働力として使われるようになりました。
ヨーロッパが持ち込んだ病原菌や劣悪な環境により多くの人が亡くなったために労働力としてアフリカ系の人間も連れてこられ、先住民、ヨーロッパ系、アフリカ系の民族が入り混じる現在の多様な文化が生まれました。
また日系人も非常に多く150万~200万人の日系人が生活していて、隣国のペルーでは日系人が大統領を就任した時代もありました。
この辺りはこの後の「ブラジルと日本」で触れようと思います。
ブラジルの食文化
お袋の味「フェイジョアーダ」
このフェイジョアーダはブラジルの歴史に密接に関わってきます。
これは黒豆と豚肉の耳や舌、尻尾、ソーセージなどを煮込んだ料理です。
日本でいうところのもつ煮込みですね。
肉の旨味と豆の甘さが合わさってブラジル流お袋の味って感じです。
ブラジル以外の国でも具材や作り方は異なりますが食べられているそうです。
なぜフェイジョアーダがブラジルの歴史に関わってくるのでしょうか
前述したこの料理の具を聞いておや?って思いませんでしたか?
『黒豆と豚肉の耳や舌、尻尾、ソーセージなどを煮込んだ料理です』
豚肉って食べる部位がもっとたくさんありますよね?
肩ロースやヒレ、豚バラ肉etc…
なんでそんなところばかり食べていたのか?
それには植民地支配による歴史が関わってきます。
家畜の上等な肉は主人に、奴隷である先住民やアフリカ系の民族は余った
くず肉とわずかな豆しか与えられなかったのでしょう。
それらを少しでも美味しく食べる為に工夫されてきた料理なのです。
その料理がいまや世界に誇るブラジルの国民食になっている訳ですね。
ちなみにヨーロッパ人が持ってきた物は悪いことばかりではありません。
南米の主な主食はキャッサバやタロイモなどのイモ類です。
ところがフェイジョアーダには黒豆が使われています。
きっとヨーロッパ人が制圧のときに持ってきたのでしょう。
またアフリカ系民族を連れて来たのも彼らです。
当事者にとっては理不尽な話です。
亡くなられた方もたくさんいたでしょう。
しかし今回は美味しいブラジル料理を楽しむことができました。
食を通じて歴史を学んでいくことが大事なんだと心から思います。
まだ少し続きます(笑)
お付き合い下さい
ブラジルのじゃじゃ馬娘「カイピリーニャ」
カイピリーニャとはポルトガル語で「田舎のお嬢さん」という意味です。
ブラジルの方にまさに愛娘のように愛されているカクテルです。
そのことがよくわかるエピソードがこちら↓
ライムを荒く切って砂糖と氷を一緒にロックグラスに入れ、カシャーサというお酒を注いでマドラーを添えたら完成。アルコール度数15~36度の飲み物で、ライムと砂糖は粉末加工したものを使ってもよい
カイピリーニャのレシピですが実はこれ法律で決められているんです!
2003年10月2日にブラジル大統領が制定したそうです。
ブラジルの方の自国の文化に対しての愛情が伝わってきます。
じゃじゃ馬娘と表現したのは理由があってかなりクセのあるカクテルなんです(笑)
クセの理由は2つ。ベースのお酒とライムの使い方です。
ベースに使われているカシャーサとはサトウキビを発酵、蒸留して作られたお酒です。
サトウキビから作られたお酒だとラムを連想する方が多いかもしれません。
ラムはサトウキビの搾り汁に加水して発酵させたものを蒸留しますが、カシャーサは加水をしないことが特徴です。
そのためにサトウキビの風味が前面に押し出されたクセのあるお酒になります。
それからライムは丸々1個を切ってグラスに入れるので白い部分からえぐみが出ます。そのために野性味の溢れるカクテルに仕上がります。
お嬢さんの中でもかなりパワフルなお嬢さんで、ブラジルの熱気をものともせずに高原を駆け回っている姿が目に浮かぶようです。
ただ決して飲みにくいだけではなく添えられたマドラーでライムと砂糖をかき混ぜてあげると酸味と甘みがアルコール臭さを飛ばしてくれます。
この辺の素直さも愛されている理由なんだろうなと感じます。
ブラジルと日本
ブラジルの日本人
さきほどブラジルには日系人が多くいるというお話をしました。
ブラジルに日本人が移民する政策があったそうです。
自分なりに調べたことをかいつまんで説明すると、
1908年に最初のブラジル移民船《笠戸丸》がブラジルに到着し多くの日本人がブラジルに移住します。
それよりも50年近く前、アメリカの南北戦争で奴隷解放が叫ばれました。
その影響は世界中に広がりブラジルでも多くの奴隷が解放されました。
前述した通り世界随一の農業大国であるブラジル。
大規模なプラテーション農業は多数の奴隷により支えられていました。
ところが奴隷が解放されたことにより深刻な人手不足に陥ります。
ところかわって日本のお話。
1904年から1905年の日露戦争により莫大な借金を抱えた日本。
経済状況は悪化、失業者が増えて国も国民の生活を支えることができなくなってしまいます。
人手が足りないブラジルと仕事がない日本。
両者の利害が一致したことにより移民政策がうまれたわけです。
ブラジルでの環境はかなり劣悪だったそうですが当時の人の途方もない努力により農地を開拓、コーヒーをはじめとする多くの農園を作っていきました。
徐々に日本人は現地に馴染んでいき現地人と恋愛、結婚をし日系ブラジル人が生まれていきます。
彼らのために日本人学校が建てられたり、日本語新聞が刊行されるようになりさらに日本人はブラジルに馴染んでいきます。
そして現代、ブラジルは世界の日系人の半数近くがいる国となったわけです。
ここから先はただの私の妄想ですが。
私が気になったことはポルトガル人によってブラジルが発見され支配下おかれていた時代があったということです。
日本史においてポルトガルとの関わりといえば真っ先に種子島の火縄銃が出てくるのではないでしょうか?
火縄銃が伝えられたのは1543年、ポルトガル人がブラジルを発見したのが1500年
付き合いの長さは歴史的に見るとかなり近いと感じます。
それから日本はポルトガルの影響を強く受けます。
てんぷら、かるた、カステラなど日本で使われている言葉の語源が実はポルトガル語だということはよくあります。
そして1803年に日本人がはじめて上陸します。
地球の裏側、遠く離れた異国の地でとても不安だったのではないでしょうか?
そんな時に少しでも通じることばがあったらどんなに安心することでしょう。
だから多くの日本人がブラジルに渡ったのではないでしょうか?
当時の人の気持ち想像する。これもまた歴史の面白さな気がします。
日本のブラジル人
ところ変わって日本のお話
群馬県大泉町にブラジル人街があることはご存じでしょうか。
大泉町周辺は北関東工業地帯と呼ばれ大手の工場が多数存在します。
北関東工業地帯の起こりは高度経済成長期。
関東には太平洋沿岸に京浜工業地帯や京葉工業地帯が存在します。
ですが東京を中心とする都市圏の発達により用地が不足します。
そこで目を付けたのが地価が安く土地が広い群馬、栃木、茨城などの北関東一帯です。
あわせて高速道路の整備も進み、都心からのアクセスのよい工業地帯となる要素が多数ありました。
そして多くの企業が北関東一帯に工場を作ったわけですが、深刻な人手不足に陥った時代がありました。
そこで当時の日本はかつてブラジルに移民した日系ブラジル人の日本への移住を促します。
現地の新聞に求人を出したり、日本で生活しやすい住環境を整えるなどです。
結果として10人に1人はブラジル人という現在に至るわけです。
日本からブラジルに移住した人達の子孫が日本に移住しているということです。
多くの社会問題や言語の壁など多くの問題があるそうです。
かつてのブラジルに渡った日本人も乗り越えて来た道なのでしょう。
これからも学ぶ事を辞めずに新しい歴史を作っていく事が私達の役割だと思っています。
世界の食を通じて世界を知れるようなコンテンツになれたらなと思っていますのでこれからも応援お願いします。
読んでいただきありがとうございました。
参考資料
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最近ドラマ化もされました。
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