世界をもっと広げよう
先日、久しぶりに幼馴染2人に会いました。
楽しい思い出話をしながら、僕はあることを思い出していました。
いじめ
僕たちの中学校(2年生の時だけ)では「いじめ」が横行していました。
しかもただのいじめではなく「日替わりいじめ」でした。
毎日ではありませんが、1週間単位くらいでいじめられる対象が変わる悪質ないじめでした。日替わりのため特定の対象がいない分、いじめが見つけにくく、いじめられている子どもも「すぐに終わる」と思い、次のいじめ対象が現れるのを期待してしまうのです。これは子どもを攻めるべきではなく、人間の本質を攻めるべきだと思えるくらいです。
多分、それを無視できる同級生(いなかったと思います)やあえてその輪の中に入ろうとしなかった、しなくても良かった同級生以外は、ほとんどいじめられた経験があると思います。
久しぶりに会った幼馴染2人は後者の人間で、いじめられていたことはなかったと記憶しています。
僕は何度か標的にされ、早く時間が過ぎて欲しくて、机にその日の日付を書いて、いじめの標的が誰かに変わった時にその日付を見て「時間が過ぎてくれた」と安堵していたことを思い出します。
よくいじめられたら「逃げろ」と言われますが、転校をしたり、例えば留学することができない子どももたくさんいると思います。
いじめられなかった幼馴染2人
僕は中学校のクラスやその学年、特に特定の仲間内(30人くらいいたと思います)が全てだと思っていました。
その仲間内から外れると終わりだとも感じていたと思います。
他の広い世界に気付かず、ずっと耐えることに徹していました。
中学2年生の1年間、ずっとその世界だけを見ていたことに、今は馬鹿らしく感じます。
ここで思い出して欲しいのは、いじめられていなかった幼馴染2人のこと。
そういえばなぜ2人はいじめの対象にならなかったのか、ちょっと考えてみました。
仲間以外の世界を持っていた
幼馴染の2人がいじめが横行していた仲間内にいなかったといえばそうではありませんでした。特に1人は仲間の中心で面白いことを言うような存在でした。
ではなぜいじめの標的にならなかったのか。
その理由は、仲間内の外側に自分の世界を持っていたからではないかと思います。
1人は音楽。もう1人は友人間にヒエラルキーを持たない思考。
音楽が好きだった幼馴染は、仲間内の他に音楽好きの少数の友人との時間を大切にしていた印象があります。
友人間にヒエラルキーを持たない友人は、どんな友人とも仲良くしていて、決して中心にいることを重要視していませんでした。
いじめが自分に向いたとしても、すぐに外の世界に行けば、いじめも気にならず、標的になることがなかったのだと思います。
いじめが横行する学校であっても、転校などせずとも、楽しく学校生活を送っていたのです。
僕も3年生になった時に、とても良いクラスに入ることができて、そのいじめの中から抜け出すことができました。
僕にも2人の子どもがいます。
いついじめの標的になるか分かりませんし、最悪なことですがもしかするといじめる側になってしまうこともあるかもしれません。正直学校にも期待できません。
自分の子どもの身は子ども自身や親にしか守れないということも考えられます。
もし自分の子どもがいじめにあったら、まずは
世界は広い
ということを教えてあげたいと思っています。
これで必ずいじめから救えるとは思いません。でもその世界が全てではなく、もっと自分に適した世界があることを教えてあげたいと思います。
そして付け加えると、社会に出てもいじめではなくても仕事や人間関係に追い込まれてしまう人もいると思います。
ぜひ、世界はもっと多様で、自分の居場所や役割はどこかにはあると思って、世界を広げてみることを勧めたいと思います。
さらにさらに付け加えると、僕は建築学科で学んでいる時から「もっと建築の世界は多様であっていいはずだ」と考えてきました。建築は総合学習であると考え、社会人になってからもその世界を広げる活動をしてきました。
10年前は本当に理解されず、批判もされました。でも信じてやってきたことが最近になって伝わるようになってきました。
世界は狭い時期もある
狭いところから抜け出せずにいても、いつか世界は必ず広がる、開けると信じることもとても大切だと考えています。
幼馴染2人が教えてくれたことが、多くの人を救うきっかけになればと願っています。
あと参考に
竹鼻良文/TAKEHANAKE代表
TAKEHANAKE design studio HP
TAKEHANAKE BRAND