あの「頑張っているのに評価されない人」へ

「頑張っているのに評価されない」と聞くたびに思う。
他人の評価を気にしているから辛いんじゃないか、と。
Twitterを見ていると時々そういった悩みが流れてくる。

私自身、実績と評価が釣り合っていないことに思い悩んだことがある。
自己啓発本を数冊読んでみると「人からの評価なんて気にしなくていい」と書いてあるものもあった。
当時は、会社は評価が全てだからと納得できなかった。
「確かに上司や同僚が何と思おうが構わないけど、実力で良い評価を取って俺の存在を知らしめてやる」くらいには考えていた。
だがそれは浅はかだった。
そもそも人事評価と他者評価を一緒くたにしていることが問題だろうと今になって思う。
私の自己肯定感が崩壊したとき、救いを求めに本屋に行ってみると『嫌われる勇気』が目に付いたので買ってみた。
本筋は承認欲求を捨てろといった趣旨のことが書いてあり、原因論ではなく目的論で人は動いているという考え方は新鮮で衝撃的だった。
どうしてあんなに人事評価を気にしていたのだろうか。
それは出世と金のために他ならない。
それではなぜ出世と金が必要だったのか。
当時の私にとって、肩書きも年収も全ては他者に認めてもらうためのツールだった。
そう、他者評価だ。
本気で社長にのし上がろうと思っていたし、身に着ける物でビジネスマンとしての価値が決まるものだと思っていたし、年収が高ければ高いほど人間的に優れているとも思っていたし、なんなら全て上手くいくと思っていた。
それは何より「他者より上でありたい」ただそれのみだったと思う。
なぜなら賞賛を浴びたいから。
今思えば恥ずかしい話で、まさにダニング=クルーガー効果(無能ほど自己評価が高い)の認知バイアスに囚われていた。
当時は、上述の私と同じような価値観の人が周りに溢れ返っていたので、まずはその環境から身を引いた。
承認欲求の世界を去ってからは自己との戦いが始まる
それは今も続いている。
最初は真っ暗なトンネルの中にひとり佇んでいるような気分だったが
「承認欲求を捨てよ」との言葉をきっかけにだんだんと歩みを始められるようになったと思う。

長々と自分語りをしてしまったが、大事なのは自分の行動の目的が何なのかを見極めることだ。
もしその行動が他者からの評価や承認が目的であるなら、その行動を通して幸せにはなれない。
行動の対価を他人任せにしていたら身が滅ぶ。(体験談)
自分を承認できるのは自分のみだし、裏を返せば他者からの承認など不必要なのだ。
ちなみに素直に己の弱さを認められない者も身を滅ぼす。(体験談)
弱みを周りにひけらかすということではなく、客観的に自分を見つめて弱点を認めるということだ。
それともう一つ大事なことは、人がくだす評価は自分が考えることではない、ということ。
よく言う「課題の分離」だ。
そしてよくその例題に挙げられるのは「牛を水飲み場まで連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」というもの。
水を飲むかどうかは牛が決めることだから、水を飲ませることに躍起になっても時間と体力の無駄だということ。
なるほどわかりやすい。
いや待て、そもそも牛が歩くかどうかも牛が決めることなのだから、水飲み場まで連れて行くという表現はおかしいのでは?
水を牛の目の前に差し出す、が正しいと思う。
脱線したが、結局自分の考え方を変えていくしかないのだ。

これが、というかこういう考え方が、「頑張ってるのに・・・」と呟いていたあの人に届くといいなと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?