「彼氏が蛇をおいていった」24
「それで音信不通は、もうきついでしょう」
みっこ先輩が作業の手を止めて振り返る。なんとなくわたしの声から深刻さを察してくれたらしい。
ひとりで、あの部屋に、あの蛇と一緒にいたら鬱々とした気持ちがさらに沈んでいってしまいそうだったので、約束の日ではないけれど、無理を言って居場所を提供してもらった。
ガレージの一角を小さな箒で掃きながら、昨日の顛末を語る。
荒牧から預かっていたペンダントもそのまま持って帰って来てしまった。生みの親の手へともどって来た作品は、本来の持ち主の姿を待ちわびつつも、借りてきてネコのように行儀よくわたしの胸に収まっている。
「そこはあんたから、謝るなりお礼を述べるなりして再開しないと」
作業の手は止めずに、声だけが返って来る。
「でも、彼からしたら二股をかけられていたようなもので、もうなんて切り出したらいいか」
呆れた、と言いたげに肩をすくめて振り返るみっこ先輩に、藁をもつかむ思いですがる。
「そういうことは、原因となった側から歩み寄っていくしかないの。いつまでも被害者面していないで、ほんとに被害を被ったそのひとに頭のひとつやふたつ下げてきなさいっての」
いつになく真剣な先輩の剣幕に圧され、スマホのメールアプリケーションを開いた。
「バカ。そういうことは電話でするの。間違ってもメールで済まそうなんて思うんじゃない」
叱られて、電話に切り替える。
四コール目で、荒牧です、とずっと怖くて聞けなかったくせに、ものすごく聞きたかった声が聞こえた。
『町さん。大丈夫?』
うまく言葉が出てこないのは、まず謝るべきか、それとも助けてくれたお礼を言うべきか迷ったから。その一瞬の空白を埋める荒牧の気づかいがうれしいようで、申し訳ない。
『試合の後すぐに帰ったって聞いて。無事に帰れたならよかったです』
「あの、すみませんでした。大事な試合だったのに、わたしのせいで台無しに」
『そんなにおもく受け止めないでください。試合なんて組めばいくらでもできますし。ぼくはアマチュアですから。負けたところで失うものなんてありませんよ』
言わなくちゃ、ペンダントのこと。まだわたしが持っていますと。
『町さん、ショックを受けないでほしいんですけれど』
スピーカーからの声が急に真剣味をおびた。
『すこしの間、会うのを控えましょう』
わたしの心が、かたわらのみっこ先輩にも伝わったように思えた。
全身の血流が二秒だけ停滞して、また流れはじめると全身から嫌な汗がぶわっと吹き出してくる、そんな感覚。どうしですか、と聞き返した吐息がふるえていた。
『常長を覚えていますか』
荒牧の前に企画の担当者だった男だ。銀縁メガネの嫌なやつ。蛇に名前を呑ませたあと、喫煙所で干物のようになっていたのを覚えている。
『最近、彼がぼくのまわりを嗅ぎまわっていて、どうもぼくと町さんの関係を疑っているようなんです。この企画には前例がありますから、なんとかぼくを失脚させるネタを探しているようなんです』
そんなの、放っておけばいいじゃないか。
前の担当者はすでに交際関係の状態で企画をとおしたから疑われて失脚した。けれどわたしたちはちがう。交流をかさねたのも企画が安定したあとからだし、どちらの会社にも迷惑はかけていない。どうしてそんな終わった男の影に気を配らなければいけないのか。
不平不満はいくらでもわいてくるけれど、ひとりの社会人としてのわたしが、かろうじて反応してくれた。
そうですか、わかりました、寂しいですけれど、これ以上迷惑をかさねるのは心苦しいですから、しばらく我慢して、無事に企画を完遂させて、ほとぼりが冷めたら、また会いましょう。
そんなことを、口からこぼれるままに告げた。
『代わりに言わせてしまって、すみません。会えなくても電話でもメッセージでも話しはできますから、また連絡します』
通話が切れた。ペンダントのことは伝えられないまま。
みっこ先輩がやさしくわたしのあたまを抱いてくれる。
涙は出なさそうだった。
そのままスマホを操作して、「こうへい」からの着信を拒否した。
お前のせいだ。お前のせいで、荒牧が――。
「頑張ったね。町。えらいよ、えらい」
手のひらに食いこむ雄鹿の角の痛みだけがはっきりとしている。
撫でられるまま、じっとしていると、スマホに新たな着信が入った。
画面には加賀野とある。
今日も体調不良を理由に有休をとっているから、きっとこの電話は緊急の要件だ。
常長の粘着質な目が脳裏をよぎったけれど、幻影を振り払って通話表示をタップした。
『町さん。お疲れ様です。お休みところすみません。緊急の、緊急事態で、その、在原さんが――』
在原。急激にあたまが冷めていって、思考がクリアになっていくのがわかった。
わたしの代わりに部長の椅子に座ることが決まった、あの在原に関わるなにかしらの緊急事態。
すぐに、蛇のことが思い浮かんだ。ゆめうつつに、なかば呪詛もこめて蛇に呑ませた「在原夕夏」の名前が思い出される。
『事故に、在原さんが事故に遭って、救急車で運ばれました。人事異動の直前で、まだ引継ぎや共有が十分に行われていない状態で、いま、パニックになっています』
在原が轢かれた。
背中の中心から生まれた悪寒が首筋まで這い上がって、そのまま全身をのみこんでいくように広がる。
蛇に呑まれるって、こんな感覚なのだろうか。
わたしを見ていたみっこ先輩が、なにかを察したのか、わたしの鞄を持って立ち上がった。
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